ふいご(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ブログ「時計」の途中ですが、さらに脱線・寄り道します。

 

《報道発表》堺鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門家資料調査報告書を刊行しました2019.4.24

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/oshirase/teppouhoukokusho.html

堺市堺区北旅籠町西1丁に所在する井上家は江戸時代を通じて鉄砲生産に関わった家柄として知られています。鉄砲鍛冶屋敷とも呼ばれる井上家住宅は、江戸時代前期の建築で鉄砲の生産現場が残されている全国唯一の建物で、堺市指定有形文化財(建造物)に指定されています。堺市と★関西大学は共同研究調査として平成27年度より4年間にわたり、鉄砲鍛冶屋敷の古文書調査を実施し、このたびその成果の一部を報告書として刊行いたしました。井上家の資料群は江戸時代から明治時代にわたるもので、総点数は2万点を超えることが判明しました。堺はこれまで近世の鉄砲産業の中心であることは知られていましたが、今回の調査によってはじめてそれを具体的に裏付ける貴重な資料が多数発見されました。また、鉄砲の注文から代金の引き渡しに至る江戸時代の鉄砲ビジネスの仕組みが初めて明らかになるなど、日本の鉄砲生産の歴史を書き換える貴重な成果を得ることができました。

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/oshirase/kuranotobirakouenkai.html

 

 

・・・堺と言えば「千利休」「与謝野晶子」そして、やっぱり「鉄砲鍛冶」どこかで取り上げなければと思っていたところです。

 

《参考》鉄砲鍛冶屋敷主屋等と鉄砲の寄附 に対し感謝状を贈呈します2018.3.6

堺市指定有形文化財井上関右衛門家住宅(鉄砲鍛冶屋敷)所有者の井上修一様 から、井上関右衛門家 として 代々継承されてきた 主屋及び座敷棟の建物と 鉄砲23 挺 の寄附をいただきました。 今後 、 堺市では日本の鉄砲生産史を語る上で欠くことのできないこれらの資料の活用の検討を図ってまいります。

 

《高須稲荷神社》

590-0922堺市堺区北半町東3-5

御祭神:保食命、配祀:猿田彦命、大宮姫命、大物主命/祭礼日:2月節分・節分祭

境内社:三宝荒神宮、翁天満宮、天津神霊宮、萬願石宮・歓喜天宮・弁財天宮、淡島神宮・水児供養宮、白玉龍王宮、大地主宮・三輪明神宮、天白稲荷社・末廣稲荷社・御剱稲荷社

由緒:神社は鉄砲刃物鍛冶の鎮守として親しまれている。この辺りは鉄砲町などという名の町が在る様に、嘗て鉄砲鍛冶たちがポルトガル伝来の火縄銃を鍛冶打ちして居た地域です。現在鉄砲鍛冶の末裔たちは包丁を作り、全国のプロの板前や料理人たちの9割が堺の包丁を使っているそうです。鉄砲鍛冶も元々は刀鍛冶だった訳ですから、元の鞘に収まったわけです。

慶長14年(1609)鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門は、徳川家康から鉄張の大砲を作る事を命ぜられ、銃身1丈(約3m)・口径1尺3寸(約39cm)・砲弾重さ1貫500匁(約5.6kg)の大砲を作りました。これは、わが国で作られた最初の鉄製大型大砲でした。その後、慶長19年(1614)大坂冬の陣のときにも、1000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により、元和元年(1615)高須の地(当神社付近)を賜わりました。芝辻家は、自らと堺の鉄砲鍛冶の繁栄を願って、この地に稲荷明神を勧進して当神社を建てました(1681)。

 

 

《鞴祭(ふいごまつり)》

鞴(ふいご)を使い火を扱う鍛冶屋・金工職人・金物商たちのお祭。商売道具である鞴(ふいご)の労をねぎらって年に一度はそれを休ませ、火の安全と仕事の繁栄を祈願し、★金山彦神・金山姫神・お稲荷様などを祀るするのがこの祭の目的です。土地によっては別名「踏鞴(たたら)祭り」とも呼ばれています。ふいご祭は全国の刃物主要都市で開催されていますが、その起源は堺にあるそうです。15世紀の中頃、鉄砲鍛冶の中心であった堺の鍛冶屋が伏見稲荷の御焚の日(霜月8日)にお札をうけて鍛冶場に祀っていたことから、11月8日は鞴(ふいご)祭となったという話で、堺の鍛冶屋や物商は★開口(あぐち)神社にお参りに行かれるそうです。

 

 

《生國魂神社「鞴神社」》

543-0071 大阪市天王寺区生玉町13-9/06-6771-0002

https://osaka-info.jp/page/ikukunitamajinja-fuigomatsuri-tokentanrenshinji

豊臣秀吉の大阪城築城に際し城下町も整備され、生産性を高める施策のもと、畿内の職能者は城下に集められ職能毎に集団で住居することとなりました。生國魂神社の氏子地域である大阪市中央区鎗屋町はそれらの施策により鍛冶に関わる匠が集団で営んでいた地域であり、そこに住まう刀匠の信仰を集めていたのが鞴神社です。鞴とは、火おこしの道具の事で、製鉄や機械など工具を取り扱う業種などの守護神です。刀剣鍛錬神事を実演されるのは、全日本刀匠会近畿支部の方々で、手順の等の解説があり、大変わかりやすくなっています。

 

《金山彦神社》

582-0014柏原市青谷2060

https://osaka-info.jp/page/kanayamahikojinja

金山彦神社は地元の氏神様として、その信仰は脈々と受け継がれてきました。また、御神名の金山すなわち黄金の山という名前から、富と幸福をもたらしてくれることを信じ、各地より参詣する人も多いといいます。この地の山手にある金山媛神社とともに、鉄工・金属業・農土木業など、火に関わる事業に功徳があるといわれています。

 

 

《金山彦神》

『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(金山姫神)と対になるともされる。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。鉱石を火で溶かしたさまが、★嘔吐物に似ているところからの連想なのだとか。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。 岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の★金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。

 

金屋子神

中国地方を中心に、鍛冶屋に信仰される神。一般には女神であるとされるが、男神とする説もある。金山彦・金山媛や天目一箇神と同一、もしくは何らかの関係がある神とされるが、全く別神とする説もある。金屋子神社には神仏習合した火の神として三宝荒神の姿で描かれた掛け軸も残されている。 金屋子神の総本社とされる島根県安来市広瀬町西比田にある金屋子神社には、以下の伝説がある。 高天原から、雨乞いをしている村人に応えて、播磨国志相郡岩鍋(現在の兵庫県宍粟市千種町岩野邊)にまず天降った。しかし、自ら、元々西方に縁のある神であるとの理由で、白鷺に乗って、西方の出雲国能義郡黒田奥比田(現 金屋子神社の社地)の山林に着き、★桂の木にて羽を休めていたところを宮司の祖先である安倍正重が発見し、長田兵部朝日長者が桂の木の横に神殿を建立したという(途中、吉備国中山にも立寄ったとの伝説がある)。各地で金屋子神は自ら村下(むらげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行ったとされる。金屋子神の姿にはいくつかのバリエーションがあり、単独で描かれる場合には★狐に乗った姿であることが多い。これは密教に出てくる荼吉尼(だきに)天のモチーフにちかく、お稲荷さんのイメージと重なっている。

 

 

《参考》「みかん」

「鞴祭り」のミカンを食べると、風邪にかからないと信じられていたため、門前で盛大にまいたり、近所の子どもたちにふるまってきたそうです。そもそも、★酸を持つミカンの木は、鍛冶屋の家の庭には植えなかったそうなのです。そんなミカンを(鞴を使わない日だからこそ)あえて供えることで、仕事を休むしるしとしたのかもしれません。

略して「紀文」(きぶん)、「紀文大尽」と言われた紀伊国屋文左衛門は、江戸時代・元禄期の商人といわれている、半ば伝説上の人物。その文左衛門が20代の頃のことです。紀州では驚くほどミカンが大豊作だったにもかかわらず嵐で航路が閉ざされ、江戸へ運べなくなり価格が暴落してしまいました。そこに目をつけた文左衛門。オンボロ船を修理し、買い集めたミカンを乗せ、命がけで嵐の太平洋を渡ってなんとか無事江戸へ到着したのだそう。ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れ、莫大な財を成すにいたったということです。実は、このとき文左衛門が運んだのが、江戸の★《鞴祭り》のためのミカン。この祭りにおけるミカン需要の高さが、凄かったことがわかるエピソードです。

※東北芸術工科大学「美術家工芸コース」

http://blog.tuad.ac.jp/kougei/?m=201511

 

 

・・・学生さんたちもキチンとお参り、いいことです。脱線するといろんなことがわかって、とてもおもしろい。ますます深みにはまりそうです。