八尾市(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《近鉄「信貴山口駅」「西信貴ケーブル」》

https://www.kintetsu.co.jp/railway/rosen/A50004.html

https://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40005.html

関西有数の霊場信貴山毘沙門天への交通機関としては、1922(大正11)年奈良県側に信貴生駒電鉄(現・生駒線)が開通しました。一方、大阪からの便を良くするため、西ルートとして、1930(昭和5)年大阪電気軌道(大軌)が開通させたのが信貴線でした。同時に、鋼索線(信貴山口~高安山間1.3キロ)、山上鉄道線(高安山~信貴山門間2.1キロ)も開業。上本町~信貴山門間を40分で結ぶ新路線が誕生しました。なお、信貴線は信貴山口からさらに北上して、奈良線枚岡までつなぐ予定でした。しかし諸般の事情により7年後、計画は中止となりました。第2次大戦中、東西2つもルートを持つのはぜいたく?と、西側ルートは一旦消滅しました。現在は信貴線内のみの折り返し運転です。山上線は1957(昭和32)年3月運輸営業廃止。

https://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40022.html

太平洋戦争の激化により、1944(昭和19)年、鋼索線はレールを供出し営業を休止。併せて山上鉄道線も営業を休止し、そのまま廃止となりました。1957(昭和32)年春の信貴山朝護孫子寺新本堂落慶に合わせて同年3月、鋼索線は10年ぶりに最新の設備で復旧、営業を再開。同時に旧山上鉄道線は専用自動車道に改修し、直営バスによる運行となって現在に至っています。1957(昭和32)年の営業再開時に製造された全鋼製車。車内からの眺望をよくするため、天井の下半分がガラス張りで、窓が大きく明るい。愛称は7が「ずいうん」、8は「しょううん」で、虎を描いた塗装は信貴山に因んでいます。

 

 

・・・さて、今回の撮影会はここ「信貴山口駅」で解散となりました。多くの方々は駅構内へ、私は「服部川駅」にバイクを置いていますので、散策しながら歩いてもどりたいと思います。

 

 

《光明寺》

581-0865八尾市服部川8丁目163/072-941-0500

http://kawachisaigoku.jp/temple_map/38_koumyouji/index.html

光明寺は元禄四年(1691)、秀山が中興したと伝えられる融通念佛宗の寺。正式寺号を、紫雲山来迎院光明寺といいます。来迎院という名は融通念佛宗の開祖、良忍上人が京都大原に建立した来迎院と同名で、「あたたかくお迎えする」こころを意味します。また光明寺というのは「光明遍照の寺」の略。

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1259

明治5年、小学校教育が始まった時、いまの中高安小学校のルーツである光明寺がこの地区の学舎として選ばれました。歴代の住職が漢学、儒学を教えていたり、中高安小学校開校時の校歌を作詞・作曲するなど、文教の一面をのぞかせる寺でもあります。中高安小学校は、その後光明寺より道を隔てた南側の山中岩治郎宅へ、さらに服部川の八幡神社へと移り、ここで万願寺村の簡易小学校と合併し、現在の中高安小学校と呼ばれるようになったということです。

 

《佐麻多度神社》

581-0864八尾市大字山畑340

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1232

式内社で当地山畑の産土神である、旧社地は100メートルうえの扇状地の谷口天神山にあったが、明治31(1898)年現地へ移った。山畑神社はこの社の末社で春日御子大明神なり。敷地は東西7メートル南北10メートルあり、この付近から素焼の陶棺が出土、今は東京博物館にある。境内に力石(165キログラム)があり、明治初期にはこの石をもちあげて力くらべを楽しんだ。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1981年)】

 

 

《山畑地蔵(宝積寺)》

581-0864八尾市大字山畑340

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1258

山畑地蔵尊由来:本地蔵尊は、安永年間(1780年頃)山畑百二十九番屋敷地蔵に出現される。村人は、不思議な出来ごとゆえ、この村に縁ある地蔵尊とあると、合議の上当所に安置し、延命地蔵尊とし家内安全、病気祈願ことに子供の守護尊としあがめる。そして村人は、健康で過ごす喜びにひたり常に花線香の煙の絶えることなく信仰を深め文政十年(1827年)弘法大師を合祀し仮堂を建立する。その後明治二十五年(1892年)七月地元の発起人により村人有志とともに本堂を建立し、地蔵講をつくり、盛大に祭事を行う。昭和に至って二月講中山畑区世話人が引継ぎその都度修理復元しながら祭事を続けたが昭和五十四年(1975年)五月本堂の老朽化がすすみ屋根の雨漏り著しく世話人三十六名合議の末、山畑区の皆様の協力のもとに、弘法大師を復元し本堂を新築することになり心からの奉賛を受ける。七月二十二日、堂の解体を行うと二百年来村人をご守護くださった延命地蔵尊は、風化作用のためお姿は変わりはて復元の余地なし、世話人三十六名により二代目延命地蔵尊を迎え八月四日上棟、八月二十三日、開眼披露を行う。ご命日八月二十三日は、石段から境内一帯は老若男女で溢れるばかり、また子供の誕生ごとに奉納される提燈の数は、三百振を越える賑やかさである。この祭事は、守護される子供たちや延命を祈願する成人により永遠に引き継がれる。【出典:『山畑地蔵尊の由来・説明板』(如月会、2002年)】

 

《俊徳丸鏡塚古墳》

581-0865八尾市服部川8丁目

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1252

この地は謡曲弱法師、浄瑠璃摂州合邦ヶ辻で名高い俊徳丸の故地で有名である。物語はこの高安の里の信吉長者の子であった俊徳丸が、継母に呪われて失明し、四天王寺の境内で物ごいの生活をする身となった。ところが以前、四天王寺で舞楽童をつとめた俊徳丸を見そめて恋仲となった同じ里の蔭山長者の姪がこれを聞いて観音に祈願したところ病はなおり、二人は晴れて夫婦になったという。しかしこの塚は、横穴式石室をもつ六世紀の古墳であり、実川延若寄進の焼香台がある。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会)】

俊徳丸が高安から四天王寺へ通ったといわれる道筋が、今に残る★「俊徳道」だといわれており、近鉄俊徳道駅など沿道付近にある施設・旧跡に「俊徳」の名が冠されている。ただし、その道筋は俊徳丸が住んでいたとされる山畑地区からは少し北に離れている。

 

《参考》十三街道・俊徳街道

大阪市の玉造駅付近あるいは四天王寺南門付近から、十三峠を超え奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道。古くは、大阪・玉造と八尾市の玉祖神社を結ぶ道として、玉祖道とも呼ばれた。中世には十三峠道あるいは「俊徳道」、明治時代以降の近世には『十三街道』『俊徳街道』と呼ばれるようになった。厳密には、十三街道と俊徳街道は別の街道であるが、地理的・歴史的に一体と見なす場合が多い。

 

 

《薬王禅寺》

581-0872八尾市郡川6丁目

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1477

このお堂には、中央に薬師如来、右に不動明王、左に弘法大師坐像、賓頭盧(びんずる)さんがおまつりしてあります。今を去る三百有余年昔、郡川山麓のこの地に高雄山薬王寺に奉安されていた薬師如来、並びに不動明王は霊験顕著なること古老の言い伝えがあり、遠近の男女の信仰すこぶる盛んでありました。しかし悲しいかな明治維新直後、無住となり、寺は荒れ、混乱の中、土地も人手に渡り、やがて廃寺となってしまいました。それ以来、本尊薬師如来、不動明王の尊像は、止むおえず一時、常楽寺境内に於いて仮奉安されましたが、わずかに雨露をしのぐ実状でありました。時移り昭和十五年、はからずも当時郡川に住んでおられた植田安太郎氏がある夜、不思議にも薬師如来の霊夢をこうむり、御子息の正治氏(現在、静岡県沼津市在住)と共に薬王寺の復興に専心されました。また時同じくして、当時この土地の所有者であった大阪市の田中新右衛門氏も薬師如来の霊夢をこうむり、篤信により、土地の一部を堂宇建設敷地として寄附を申し出られ、村民有志相謀り再建の念願を達成しようとしました。しかし時があたかも戦雲急をつげ為に涙を呑んでお堂の建設を見送らざるを得ぬ状態になりました。戦後十年、時世も落ち着き、平和の日を取り戻すと、薬王寺復興の時機も愈愈熟そうとし、檀信徒の長年の思いが念願成就されたものであります。薬王寺薬師如来、不動明王を帰依し以て薬師如来の身心安楽と併せて不動明王の阿字の本体に浴し、現在に至っております。【出典:『木製説明板』(常楽寺住職)】

 

 

《服部川公民館》

581-0865八尾市服部川8-159/072-941-8817

「服部川総池南樋ノ口」と刻まれた石材が保存されています。公民館の建つ場所は服部川総池の南側を埋立て敷地としたそうで、現在池の西側に沿って通る道路も昔は畦道の様な狭い堤防道だったそうです。公民館建設時に池の南側に設けられていた竪樋が撤去され、その一部が保存されているものだと思われます。その横にあるモニュメントも気になりますが、詳細は刻まれていません。

 

・・・ポツポツ雨が降ってきたので、カッパを着込んで帰路につきました。