八尾市(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「二室塚古墳」を見たかった理由は、★印です。まだ届いていませんが、「ガウランド日本考古学の父」に掲載されている写真と比較してみたいからです。

 

 

二室塚古墳

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1434

300基近い古墳からなる高安古墳群の服部川に所在する、6世紀後半頃に造られた横穴式石室墳です。石室の構造は、右片袖式の玄室を2つ連結したもので、全国的に類例のないものです。複数の石室を有する複室構造といわれる石室は、九州を中心に分布していますが、二室塚古墳の石室はこれと異なり、畿内で典型的にみられる片袖式石室を連結した構造で、このような石室は、同じ高安古墳群の郡川にある交互二室塚古墳(右片袖式に左片袖式の石室を連結)にしかありません。二室塚古墳の石室は、当時の政権の中心であった畿内において、独自の複室構造として造られたものであり、畿内の横穴式石室を考える上で大変貴重なものです。また、二室塚古墳は、日本近代考古学の草創期である明治時代に、「日本考古学の父」といわれる英国人★ウィリアム・ガウランドが、米国人ロマイン・ヒッチコックとともに、ガラス乾板による写真撮影を行い、「双室ドルメン」として、いち早く海外に紹介した古墳として貴重な学史を有する古墳です。ガウランドは、大阪造幣寮(現在の造幣局)の技術指導のため、わが国に招かれたお雇い外国人でした。彼は、日本各地の古墳の調査研究を行い、その業績は古墳の科学的研究の基礎を築いたものであり、「日本考古学の父」といわれています。ヒッチコックもまた、お雇い外国人であり、卓越した写真技術を持ち、日本の古代研究等にも大きな業績を残しています。彼らは、明治20~21年(1887~88年)に、高安古墳群を訪れたと考えられており、その写真には、当時の二室塚古墳石室の姿が明瞭に残されています。【出典:『史跡の道・ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2007年)】

 

 

・・・次は最後の目的地「法蔵寺」、かなりの距離そして上り坂だということで、みんな歯を食いしばって歩きました。

 

 

《法蔵寺》

581-0872八尾市郡川6-3/072-941-6364

http://www.houzouji.jp/

寛延元年(1748)土佐の長宗我部氏の子孫である好山和尚により曹洞宗のお寺として開山する。本尊は聖観世音菩薩。好山和尚は土佐(高知県)の真如寺(土佐藩主山内家の菩提寺)において薙髪、遊方した後摂州の天桂禅師に従い嗣法する。当寺はその山内家の祈願寺として建立されたゆかりで、現在でも山内家藩主8代豊敷(とよのぶ)9代豊雍(とよちか)のお位牌が当寺にお祀りされている。また、本堂前にある「大覚山」の扁額は、好山和尚の筆によるものである。

 

 

★河内名所図会を訪ねて(その1)

https://www.city.yao.osaka.jp/0000014003.html

世界遺産になっている京都や奈良などのお寺や名所・旧跡は国内だけでなく、海外からも多くの人々が訪れます。このような観光のルーツは、江戸時代にさかのぼります。今では、いろいろなガイドブックやインターネットを使って、事前にその土地の情報を集めることができますが、江戸時代では「名所図会」と呼ばれる全国各地の名所・旧跡を集めた書物が観光ガイドブックの役割を果たしました。この書物には挿絵も多くあり、当時の人々が八尾を訪ねるときに使ったのが、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」(文章・秋里籬島、挿絵・丹羽桃渓)でした。今回は、この名所図会に紹介され、現在でも全国有数の群集墳である「高安古墳群」をご案内します。高安山の山すそを南北に通じ、京都から高野山への参詣道であった東高野街道沿いにあり、千塚と呼ばれていた「高安古墳群」は、高安郡の名所の一つとして多くの人々に知られていました。郡川の「法蔵寺」の挿絵には、境内の周りに7つの古墳があり、洞穴のように描かれているのが、横穴式石室の入口です。現在でも法蔵寺には市指定史跡の開山塚古墳をはじめ、数多くの古墳が残されており、河内名所図会の正確さが分かります。名所図会の挿絵と現在の様子をぜひ見比べてください。この河内名所図会は、江戸時代の観光のためだけでなく、明治時代の古墳調査にも参考にされた貴重な史料でした。

 

 

《開山塚古墳》

http://bunka.city.yao.osaka.jp/detail/index?cultural_id=109

開山塚古墳は、法蔵寺境内にある直径30m前後、高さ5.8m前後の円墳で、6世紀中~後半に造られました。主体部である両袖式の横穴式石室は全長13.05mあり、亡くなった人を納めた棺を入れる部屋となる玄室の大きさは、長さ4.67m、幅3.37m、高さ4.2mです。玄室への通路となる羨道は、長さ8.38mを測ります。これは、高安千塚古墳群の中で最も大きいものです。江戸時代の★「河内名所図会」に描かれた法蔵寺境内には、開山塚古墳をはじめとする5基の古墳が記されています。また、大森貝塚の発見で知られる米国人エドワード・S・モースが、明治12年(1879)に調査を行い、論文で発表した石室図面と計測値は、実際の実測調査と一致しており、考古学史の中でも意義深いといえます。[平成17年3月17日に市指定史跡後、平成27年3月10日付で国史跡になる。]

 

 

・・・これにて撮影会は終了、解散の「信貴山口駅」までは下り坂なので助かります。