縄文時代 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「旧石器時代」の次は、

 

《NEWS》2019.2.20朝日新聞デジタルより

徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡の発掘調査で、★縄文時代後期(約4千~3千年前)の赤色顔料(水銀朱)の精製に使ったとみられる石杵(きね)や石臼など1千点以上が見つかった。同遺跡では、弥生時代中期の水銀朱の原料などが見つかっていたが、1500年以上さかのぼり、生産拠点として国内最古級になる。県教育委員会と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。調査では、縄文時代後期の集落跡から、石杵と石臼計300点以上のほか、表面に水銀朱が塗られた耳飾りや土器など計700点以上も見つかった。同センターによると、同時期の水銀朱の精製に関わる遺物は、三重県度会(わたらい)町の森添遺跡で約30点見つかったのがこれまで国内最多とされていたという。発掘された土器の中には、九州地方の土器の特徴を持つ物が含まれており、地域交流をしていたことがうかがえるという。また、縄文時代後期の竪穴住居跡2棟と、祭事に使ったとみられる石を円形に並べた遺構16基も見つかった。住居と祭事の場所が一体となった集落が確認されたのは、西日本では初めてだという。調査は那賀川の堤防工事に伴い、今年3月末まで実施。調査後、遺跡は埋め戻すという。県埋蔵文化財センターは23日午前10時と午後1時に、調査成果を発表する現地説明会を開く。参加無料で、申し込み不要。加茂谷中学校とお松大権現に臨時駐車場を設ける。問い合わせは同センター(088・672・4545)へ。同志社大学の水ノ江和同教授(考古学)の話:水銀朱の制作工程が全てそろっている。住居と祭事の場所が一体となっており、当時の景観がよく分かる。遺跡の残りも良く希少だ。一部でも移築して後世に残してほしい。

 

 

・・・「箱もの」ミュージアムを持たない羽曳野市なので、このような施設ができたことは嬉しいことです。

 

《あたらしい道》

http://atarashiimichi.or.jp/

「縄文の杜ふれあい館」オープンのお知らせ

583-0872羽曳野市はびきの 3-3-18/072-956-7776

6月24日(日)朝9時30分より「縄文の杜ふれあい館」におきまして落成祝賀会が開催されました。当日は多くのご来賓の方々に見守られるなか、衆議院議員・長尾敬様、羽曳野市長・北川嗣雄様、大阪府議会議員やまのは創様、あたらしい道代表役員・板崎雅光により、テープカットが行われました。引き続き「縄文の杜ふれあい館」の内見会が行われ、本館のコンセプトである「真の日本人の学舎」の重要性、日本の将来にとって本館の必要性を強く感じたなど、ご賛同のお言葉を多数頂戴いたしました。

2018年7月10日朝10時オープン。いよいよ「縄文の杜ふれあい館」をお楽しみいただけます。7月中は休館日なしで開館中!ご家族みなさんでご来館ください。

http://atarashiimichi.or.jp/fureaikan/

 

 

《参考》『歓談:臍は天の座である』著:内藤勝

https://www.books-sanseido.co.jp/soeisha_books/5688

新しい道とは…創始者・松木草垣女史(1901~1998)は、生まれながらにして万物の元「創造主神の種」を身の内に宿し、天の意図を身を挺して示す運命をもって生まれる。1959年、母体となる★「神光苑」を設立。583-0872羽曳野市はびきの3丁目3-18/072-956-7971

以後、元の日本に回帰すべく“みたま"そのものの誠の人づくりの天の場となる。

【内藤勝】

昭和19年2月15日千葉県生まれ。武道学園剣道部師範科卒業。日本大学学院農獣医学部博士課程修了。日本経済史、農業政策、環境経済論専攻。小野派一刀流・礼楽堂門人。明治神宮・至誠館剣道部門人。元信州大学非常勤講師。元嘉悦大学経営経済学部教授。あたらしい道 昭和58年道友。

 

・・・偏見を持ってはならないと常々心がけてはいるものの、やっぱり「敷居」が高い。訪問した際、正直にそのことを申し上げたうえで見学させていただきました。

 

 

★2019.2.23入口最初の映像コーナーに新作が・・・

いつも、ご来場ありがとうございます。今度は、3月1日から新たなアトラクションが登場。入口入って最初の4ビジョンコーナーの映像が新作になって上映されます。なんと、4ビジョンの画面いっぱいに吉野のお山の千本桜が・・・最高のスペクタクル映像昨年の満開の吉野山千本桜は、下千本・中千本・上千本・奥千本が同時に満開となりました。こんな映像見たことないドローンで撮影したまるで空中散歩?空中散策?鳥になったわたし形容詞が見つからない・・・絶対に見に来てくださいね。ホントもう吉野のお山に行く必要なしです。お友達を誘って見に来てくださいね。花と団子?もあるかも・・・絶対にうらぎりませんから待ってま~す。

 

 

・・・展示物の多くはレプリカですが見ごたえがあり、撮影もOKなので嬉しい限りです。

 

 

・・・「縄文の杜ふれあい館」横にあるのが、

 

《塚穴古墳》(来目皇子墓)羽曳野市はびきの3丁目

塚穴古墳は内部に切り石造りの横穴式石室がある、7世紀前半に築造された1辺54メートルの大型の方墳です。現在は宮内庁により来目皇子埴生崗上墓として治定、管理されていますが、平成17年度以来行われた周辺部の発掘調査で、堀の外側に築かれた大規模な土手が、墳丘を取り囲んでいることがわかりました。古墳の南側の土手は幅16メートル、高さ2.5メートルで上下2段に築かれ、一部は自然の地形を削り出しているものの、かなりの部分が人為的な盛土によって造られています。その際には、正確な測量によって丁張りが行われ、地表面から切り取った差し渡し30センチメートルほどの土の塊を要所に使い、砂や粘土質の土を交互に水平を保って積み重ねるなど、高い土木技術が駆使されています。古墳北側の土手は38メートル、高さ3メートルで、むしろ築山と呼ぶ方がふさわしいつくりです。南の土手とは異なり、上から土を投入しながらくり返し斜面を整える工法をとっていますが、やはり質に応じて土が使い分けられ、計画的に手慣れた作業が行われています。このように塚穴古墳の周囲は、北と東西を背景の丘のように高く幅の広い土手が、また、正面にあたる南では、直線的で人工的な外観の土手が整備されています。130メートル四方におよぶ広大な範囲もさることながら、墳丘と堀、土手からなる墓域の構造には、墳墓を護り、威容を高める新しい思想がうかがわれます。設計や築造技術の上で、飛鳥時代の古墳の手本とも言える塚穴古墳は、被葬者が推古天皇11(603)年に亡くなり、後に河内の埴生の岡の上に葬られた来目皇子と推定されることとあいまって、極めて重要な存在であると言えます。

 

 

【来目皇子】(?~603)

用明天皇を父とする。聖徳太子の同母弟。推古10(602)年、新羅遠征の将軍となり、二万五千の軍勢を率いて筑紫の島郡に行き、そこで船舶を集め出征の準備をした。しかし、来目皇子は推古10(602)年に病に倒れ、翌年筑紫で没した。周防の裟婆(さば)で殯(もがり)が行われ、山口県防府市の桑山の山頂には殯(もがり)のあとにつくられたとされる塔ノ尾古遺跡が残されている。 のちに河内の埴生山に葬られた。久米寺は、推古天皇の眼病全快を感謝して来目皇子が建立したと伝わる。

 

・・・「古墳」巡りをしながら、旧石器時代や縄文時代のことも知っていただけたら、羽曳野市までわざわざ来られた値打ちがありますよね。