・・・「大阪工大(関西工学専修学校)」創立の地に行きましたので、「大阪歯大」創立の地も紹介しておきたいと思います。
《大阪歯科大学》
【楠葉キャンパス】573-1121枚方市楠葉花園町8-1/072-864-3111
【牧野キャンパス】573-1144枚方市牧野本町1-4-4/072-856-9951
【天満橋キャンパス】540-0008大阪市中央区大手前1-5-17/06-6910-1111
https://www.osaka-dent.ac.jp/index.html
★「創立100周年記念事業」大阪歯科大学広報より
本学が明治44年に大阪歯科医学校として設立された★発祥の地である現在の大阪市福島区野田に、記念碑を建立すべく進めています。幸い大正時代に作成された地図が見つかり、その地図にはっきりと「私立大阪歯科医学校」と記載されているので、発祥の地はほぼ特定されています。公有地(野田公園内)に建立するための大阪市への申請ならびに地元の皆さんのご理解と応援を得るべく進めています。
(報告書より)平成23年10月11日、大阪市福島区野田4丁目の野田緑道(公園)に おいて、本学はじめ関係者46名の出席のもと、発祥の地記念碑除幕式が執り行われた。平成22年7月の第1回委員会から平成23年8月まで5回の委員会を開催し、本学発祥の地の確定、記念碑の形状・内容および石材業者の選定、大阪市への許可申請、地元町会への説明と推薦依頼などの作業を行った。当地が大阪市の公有地であったため、大阪市への許可申請にあたり、地元町会から賛同の署名、福島区長の推薦を得て申請し、平成23年6月6日に大阪市長の設置許可が下りた。10月11日、当地において 福島区長、前福島区長、野田4丁目町会長および町会の皆様にも出席願い 、野田恵美須神社の神事により除幕式を行った。
・・・大阪市中央卸売市場の西側にありました。
・・・「野田」から「福島」へ移動して、「関西商工学校発祥之地」も訪問しました。
《関西大倉中学校・高等学校》
567-005茨木市室山2-14-1/072-643-6321
※関西大倉同窓会「サイカス」20号2010.7.5より
https://www.kankura-dousoukai.jp/
●校史編集室だより「関西大倉学園発祥跡地の記念石碑」
明治35(1902)年に設立された関西商工学校(関西実業高等学校)と明治40(1907)年に設立された大阪大倉商業学校が昭和23(1948)年に合併して、関西大倉高等学校と改称、新発足したことは周知の通りです。大淀の地(現大阪市北区大淀南2丁目)にあった関西商工学校の学舎が新生関西大倉高等学校の学舎になりました。2校が合併した当時は全日制と定時制があり、商業科・電気科・土木科が置かれ、中学校が併置されていました。翌年の昭和24(1949)年には普通科も設置されました。その後、前身校の関西商工学校と大阪大倉商業学校の良き伝統を継承、さらに発展していくなか、年々入学者も増加の一途をたどっていきます。大淀の校地も狭隘になり、また、学園の前に「なにわ筋」が開通するなど、一帯は騒音とスモッグの巷と化し、教育の場としてあまりふさわしくない環境となってしまいました。そのため、髙木美喜次学校長を中心に、緑豊かな教育の理想郷を求める計画が推し進められ、その結果、昭和38(1963)年、大淀の地から現在の茨木の地に移転しました。新天地での第一歩が踏み出されたのです。現在の学園の隆盛の源は、関西商工学校と大阪大倉商業学校であることを忘れてはならないと思います。今、その両校の跡地に、それぞれの卒業生の手によって記念碑が建立されていますので、これらをご紹介いたします。
●関西大倉中学校・高等学校の校舎(旧関西商工学校の校舎)は、大阪市大淀区大仁本町(現大阪市北区大淀南)に立地していましたが、昭和38年、敷地を朝日放送に譲渡し、茨木に移転しました。昭和43(1968)年、関西商工学校発祥の地の記憶を残すため、大仁会(関西商工学校同窓会名)の有志により、顕彰碑が建立されました。★旧校地での建立は難しかったため、碑は近くの八阪神社境内にあります。顕彰碑には以下のような碑文が刻まれています。(正面の碑名のみ横書きで、他はすべて縦書きです。)
【正面】顕彰碑・関西商工学校発祥之地関西商工学校は、遠く明治三十五年この地に創設された。当時我国は、商工業の技術者指導者に乏しく、実業発展の一大障害であった。工学博士平賀義美先生は、これら人材の必要を看取し実業青年の教育を実践された卓越せる教育先覚者であった。当時この周辺は大阪府西成郡鷺洲町大仁と称し、広漠たる田園であり、昼間商工業の実務に携わる好学の青年が参集し、本校に蛍雪の労を積んだのである。其処には機械、電気、造船、建築、土木、紡績、商業の七科を置き、二ケ年での高等専門教育を教授し、累算一万八千余名の卒業生を世に送り、我国実業界に多大の貢献を為す処であった。母校は世界第二次大戦後、大倉商業と合併し、茨木市に関西大倉高等学校として再出発したのであるが、往年関西商工学校に学んだ者が、母校を追慕するの余り、この発祥地を卜とし、校祖平賀義美先生の功績を讃え併せて希望を未来にかけ、その可能を信じて努力した。吾等青年時代の勉学記念塔となす所以である。
【裏面】史跡保存の趣旨:我が関西商工学校が茨木に移転する迄の四十有余年間の卒業生は社会有用の材となり、業界学界官界政界に頭角を表わし、特に実業の世界に於ては、幾百千の経営者、指導者、社長を生み、各界に裨益する処甚大である。現在国家褒章及び叙勲に浴するもの枚挙に遑なく、其他大学教授あり、衆参議員あり、国家及び自治体の顕職者及び議員あり真に多士済々である。これ即ち校祖平賀義美博士の高邁なる建学の精神は達成され赫々たる母校の名誉は、吾等一同の本懐とする処である。顕彰碑建設に当たっては銘板の通り全国各地の同窓生より、激励と浄財が寄せられた。吾等同窓生は、師恩への感謝と社会への報謝の誠を捧げると共に、今日、日本人の誇る、明治百年の記念日にこの碑の成就を見たことを洵に欣びとするものである。 謹白(史跡保存の趣旨文の下には、寄付者名簿の銘板が填め込まれています。)
【正面右側面】昭和四十三年十一月三日明治百年記念建之/関西商工学校発祥史跡保存会交友大仁会/建立世話人:発起・吉田亀太郎/企画:山田勝治郎/撰文:栗田金太郎/参与:樋口佐兵衛、同三上英雄、同井上福蔵/幹事:常田英二、同古城章政、同道田泰治郎/相談役:山田義一、同永田鼎三、同杉原政勝
【正面左側面】関西商工学校創立明治三十五年十月三日、昭和三十八年茨木市に移転のため朝日放送に敷地譲渡。現在のABCテレビスタヂアム。校舎跡 旧大阪府西成郡鷺洲町大仁五十三、現大阪市北区大淀南二ノ二。
※現在、八坂神社境内「顕彰碑」は2016年に母校に移設されました。(「サイカス」32号2016.6.30より)
●大阪大倉商業学校は、大阪市北区常安町(現北区中之島)の府有地を無償で借り受け開校されました。しかし昭和20(1945)年3月14日の空襲で校舎は全焼し、その後、教室を求めて転々とし、最後は江戸堀国民学校(現花乃井中学校)に仮校舎を定められました。そして昭和23年9月に、先述のように関西商工学校と合併しました。昭和59(1984)年、大阪大倉発祥地である中之島の地に、如蘭会(大阪大倉商業学校同窓会名)により記念碑が建立されました。京阪中之島線の建設や周辺の再開発に伴い、記念碑も一時撤去されていましたが、大阪市教育委員会のご支援をいただき、2009年9月に、中之島遊歩道の一角(市バス中之島4丁目停留所の背後)に移設されました。記念碑の碑文は次の通りです。
【正面】大阪大倉商業学校跡地
【裏面】昭和五十九年吉日建之如蘭会
【正面左側面】明治四十年大倉喜八郎翁によりこの地に開校昭和二十年三月空襲により焼失移転
・・・平成24年(2012)に、関西商工学校(大淀学舎)跡地(大阪市北区大淀南・旧大淀区大仁本町)に「関西商工学校発祥之地」の記念碑が学園により建立されました。