アサガオ(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「アサガオ」への特別な思い入れは、ブログ「ART-hike」6に掲載したところですが、この「玉手箱」づくりも「アサガオ」からスタートしました。

 

【朝顔やつるべとられてもらい水】詠★加賀の千代女

Ah! Morning Glory! The bucket taken captive! I begged for water.(大拙)

A morning glory Has taken the well-bucket: I’ll borrow water.(リチャード・ライト)

 

 

・・・さて「アサガオ」と聞くと、男性の多くは「小便器」を思い浮かべるのではないでしょうか。そして、アーティストの多くは「デュシャン」に心(思い)馳せることでしょう。

 

《参考》「古便器の変遷」/INAXライブミュージアム「窯のある広場・資料館」より

http://www.livingculture.lixil/ilm/kiln/report/detail03/

貴人たちの間では、古くから「樋箱(ひばこ)」と呼ばれる引出の付いた木製の便器が、溲瓶(しびん)と同じように室内で使われていました。鎌倉時代になると糞尿を溜めて肥料に使うようになり、樋箱の上部だけを床に据えた大便器や、朝顔が開花した形に板を張り合わせた小便器などが登場し、床下には直接甕(かめ)をおくようになります。しかし、このような形をした便器を使ったのは上流武士や富豪に限られ、庶民は排便用の穴を床に開け、その下に素焼の甕を据えた汲み取り式の便所や、甕に直接踏み板を二枚渡しただけの便所を使っていました。樋箱には、着物の裾を掛けておくために鳥居型やT字型の「衣掛け」とか「衣隠し」とよばれる突起が後部についていましたが、次第に「金隠し」といわれる板を前面に立てるようになります。そして江戸時代末から明治時代にかけて、これらの木製便器は、清潔で耐久性のあるやきものの便器に変わっていきました。陶磁器製の便器が盛んに生産されるようになるのは明治時代の中期以降です。明治24年(1891)に愛知県と岐阜県で濃尾大震災が起き、旅館や料亭、富裕層が復旧家屋の上方(お客様)便所用に、瀬戸(愛知県)でつくられていた染付便器を設置するようになると大流行し、東海地方を中心に全国に普及していきます。華麗に染付が施された便器が一世を風靡すると、有田(佐賀県)や平清水(山形県)でもつくられるようになります。その他のやきもの産地でも、常滑(愛知県)では土管に多く見られる塩釉や、飴釉、褐色釉を掛けた便器が、信楽(滋賀県)や赤坂(福岡県)では、白地に青釉を縦や横に流し掛けした便器がつくられました。明治38年(1905)頃になると、陶器製は変わらず染付が主流でしたが、陶器より高価な磁器製便器は青磁釉を施したものが好まれるようになり、特に関東方面で人気を博します。さらに、明治45年(1912)頃になると、人々の衛生観念が向上して吸水性のない磁器製便器を積極的に使うようになりました。

大正12年(1923。関東大震災発生)頃には、陶器製の大便器も小判形が主流となり、青磁釉のものが多く出回ります。そして、昭和に入ると白色便器の関心が高まり、白磁の便器が増えました。

 

 

《百年の「泉」―便器が芸術になるとき―》出版: LIXIL出版 (2018/4/25)

あの便器がなければ、いまの現代美術はない──。現代美術のカリスマ、マルセル・デュシャンが、既製品(レディメイド)の「小便器」に《泉》という作品タイトルをつけて展覧会に出品するも、展示を拒否された「事件」が発生したのは1917年。それから100年。いまでも、一つの便器がもたらした革命が、多くの謎に包まれながら、現代美術界に大きな影響力を持ち続けている。便器に美しさはあるのか?便器はアーティストの制作物なのか?なぜ、いまや各地の美術館で便器が展示されているのか?難解といわれがちな現代美術の原点を、豊富な参考図版とともに、デュシャン研究者や現代アーティストがそれぞれの視点からわかりやすく検証する。平芳幸浩、藤本由紀夫、河本信治、ベサン・ヒューズ、毛利悠子、浅田彰、牧口千夏ら寄稿。★京都国立近代美術館で開催された展覧会「泉/Fountain 1917–2017」の関連書籍として刊行。

 

◆【京都国立近代美術館】◆

「制作」から100年!デュシャンの《泉》をいま改めて紐解く

20世紀美術に大きな影響を与えた、マルセル・デュシャンの《泉》。発表からちょうど100年を迎える今年、京都国立近代美術館で約1年間にわたりこの作品の謎に迫る展覧会が開催されている。20世紀美術にもっとも影響を与えた作品ともいわれる、マルセル・デュシャンの《泉》。1917年にこの作品が「制作」されてから、今年でちょうど100年となる。男性用小便器に、"R.Mutt"という署名をして「泉」というタイトルを付けたこの作品は、発表当時大きな物議を醸したが、芸術という概念や制度自体を根本から問い直す現代美術の先駆けとして、現在に至るまで大きな影響力を保っている。60年代のコンセプチュアル・アート以降は、この作品を解釈・解読すること自体が創作行為ともなり、関連作も多数制作された。本展では、《泉》の1964年の再制作版を1年間展示するとともに、現代の美術家によるデュシャン解読の作例を紹介。異なるキュレーターによる5回の展示替えを行いながら、改めてこの作品を紐解いていく。各会期ごとに、キュレーターを講師に迎えたレクチャーシリーズも開催。

《キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain 1917-2017》

http://www.momak.go.jp/Japanese/collectionGalleryArchive/2017/specialTheme2017curatorial12.html

2017年4月19日〜2018年3月11日/於:京都国立近代美術館

京都市左京区岡崎円勝寺町/075-761-4111

Case1:マルセル・デュシャン29歳、便器を展覧会に出品する

会期:2017年4月19日~6月11日/キュレーション:平芳幸浩

Case2:He CHOSE it.

会期:2017年6月14日~8月6日/キュレーション:藤本由紀夫(美術家)

Case3:誰が《泉》を捨てたのか

会期:2017年8月9日~10月22日/キュレーション: 河本信治(元・当館学芸課長)

Case4

会期:2017年10月25日~12月24日

Case5

会期:2018年1月5日~3月11日

《平成30年度 第4回コレクション展(計130点)》

2018(平成30)年10月16日(火)~12月16日(日)

★没後50年マルセル・デュシャン特集

http://www.momak.go.jp/Japanese/collectionGalleryArchive/2018/collectionGallery2018No04.html#duchamp

マルセル・デュシャンによる20世紀最大の問題作《泉》の誕生100年を機に同作品を一年間かけて検証した昨年につづき、今年は没後50年と、デュシャンの節目の年が続いています。先に紹介した映画『ミッドナイト・イン・パリ』では1920年代パリの夜のカフェで芸術家たちが集うなかにデュシャンの姿はありません。アレン監督の意図は定かではありませんが、事実、当時のデュシャンは競技チェスに没頭する日々を過ごし、パリの美術界とは距離を置いていたのです。1887年フランスのノルマンディー地方ブランヴィルに生まれ、二人の兄と同様パリで美術を学んだマルセル・デュシャンは、1912年アンデパンダン展に運動表現を取り入れた絵画《階段を降りる裸体No. 2》を出品した際、キュビスムのグループの反発により展示拒否事件を起こします。この作品は翌1913年ニューヨークのアーモリー・ショーに出品されスキャンダルの的となり、1915年には自らも渡米。1917年には友人らと企てて第1回アメリカ独立美術家協会展に《泉》と題する男性用小便器を作品として送りつける「リチャード・マット事件」を起こしたり、《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称《大ガラス》)の構想・制作に没頭したり、キャサリン・ドライヤーやマン・レイらと近代美術の教育機関ソシエテ・アノニムを設立したりと、ニューヨーク時代にはデュシャン評価にとって重要な活動がいくつも遂行されています。パリへ戻ってきたのは1924年。チェス競技に没頭するかたわら、《大ガラス》の創作メモをまとめた《グリーン・ボックス》や、自作の複製ミニチュアを詰め込んだ《トランクの中の箱》などの「出版」活動、マン・レイとの映画《アネミック・シネマ》共作、また展示デザインや表紙デザインなどの仕事を手がけていますが、次第にデュシャンもレディメイドの存在もほとんど忘れられてしまいます。

  戦時中にアメリカへ移住したデュシャンは、戦後はラウシェンバーグら後進の芸術家から支持され、再び脚光を集めるようになります。フランス美術界は1977年ポンピドー・センター開館記念展の回顧展によって、遅まきながら(あるいは始まりとして)デュシャンを「現代美術の父」として召還しました。長年ひそかに制作していたことが1968年の没後判明した《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》(通称《遺作》)のほか、数多くのデュシャン作品を含むアレンズバーグ・コレクションは、作家本人の意志により現在フィラデルフィア美術館に収蔵され公開されています。

 

 

◆【東京国立博物館】◆

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1915

東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展

「マルセル・デュシャンと日本美術」/平成館 特別展示室第1室・第2室

2018年10月2日(火)~ 2018年12月9日(日)

マルセル・デュシャン(1887 - 1968)は、伝統的な西洋芸術の価値観を大きく揺るがし、20世紀の美術に衝撃的な影響を与えた作家です。この展覧会は2部構成で、第1部「デュシャン 人と作品」(原題The Essential Duchamp)展は、フィラデルフィア美術館が有する世界に冠たるデュシャン・コレクションより、油彩画、レディメイド、関連資料および写真を含む計150余点によって、彼の創作活動の足跡をご覧いただきます。デュシャンの革新的な思想に触れることで、知的刺激に満ちることでしょう。第2部「デュシャンの向こうに日本がみえる。」展は、もともと西洋とは異なった社会環境のなかで作られた日本の美術の意味や、価値観を浮かび上がらせることによって、日本の美の楽しみ方を新たに提案しようとするものです。デュシャンの作品とともに日本美術を比べて見ていただく世界ではじめての試みです。この展覧会では「芸術」をみるのではなく「考える」ことで、さまざまな知的興奮を呼び起こしてください。

 

 

《オマージュ(hommage)》

創作物や作者などにささげる敬意、賛辞。「リスペクト」「トリビュート」に近い。また、そのような敬意を表すために作られた作品。オマージュという言葉自体はフランス語。「パクリ」は、敬意や尊敬の念なく、独自のアイデアや表現を加えない、単なる模倣や盗作(コピー)。対して「オマージュ」は、オリジナルへの敬意や尊敬を理由として作られたもの。オリジナル、もしくは、オリジナルに独自のアイデアや表現のアレンジを加えたもの。オリジナルとは全く別物でも、オリジナルへの敬意や尊敬が込められていれば、オマージュになり得る。オリジナルの啓蒙を目的とするため、著作権を侵害することはない。

よく混同されるのが「パロディ(parody)」。これは、他の作品を批判・風刺・笑いなどを目的として改変したり模倣したり引用すること。多くの創作の分野でみられる行為であり、音楽なら替え歌、サブカル界隈ならパロディネタなど。サブカル界隈ではギャグシーンにおいてよく使われてます。「パロディ」という言葉は古く、語源は古代ギリシアまでさかのぼります。元々のパロディは他の詩歌を真似した詩歌のジャンル。大昔から他の作品を模倣することでさらなる面白さを生みだす。日本でも「本歌取り」という和歌の技法が。これも元ネタの作品を改変したり引用することで面白さを作り出すもの。オマージュとの違いとしては、元の作品を批判したり、否定的な場合もあるところ。オマージュは元ネタに肯定的です。また、元ネタがはっきりしているのもパロディの特徴。元ネタが分かるからこそパロディが面白い。パロディは明らかに元ネタを利用する以上、著作権的には怪しい部分もあります。特に否定的なパロディは問題になりやすいでしょう。著作権・パロディについては国ごとに法律で許される範囲が違いますが、面白い国で言えばフランスなんかはパロディは著作権侵害でないと明確にされています(パロディ条項)。

現代ではさらに「二次創作」という、原作者とは別人の、いわば第三者が原作を元に作成した創作物がある。元々は1990年代後半ごろに同人界隈でパロディの言いかえとして登場した表現であるが、原作者監修のメディアミックス作品等(他の作家が似せて描いた漫画など)を含む場合もある。 多く場合は「二次創作」と言えば、 原作者(もしくは主権利者)が一切関与していない非公式のファンによる作品をさす。中には二次創作から更に創作が進み、三次創作、四次創作…と続く場合もあるが一般的な言葉ではない。

 

・・・さて「泉」について、

 

《1917「泉」》作:マルセル・デュシャン(1887~1968)

1917年に制作されたレディ・メイド作品。セラミック製の男性用小便器に“R.Mutt"という署名と年号が書かれ、「Fountain」というタイトルが付けられている。このタイトルは、ジョゼフ・ステラとウォルター・アレンズバーグが決めたともいわれる。1917年にニューヨークのグランド・セントラル・パレスで開催された独立芸術家協会の年次企画展覧会に出品予定の作品だった。この展覧会では、手数料さえ払えば誰でも作品を出品できたにも関わらず、《泉》は委員会から展示を拒否。その後、作品はアルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」で展示され、撮影され、雑誌★『ザ・ブラインド・マン』で批評が行われたが、オリジナル作品は消失してしまう。

《参考》「Blindman, No. 2」/Ed. Henri-Pierre Roche, Beatrice Wood, and Marcel Duchamp

http://dada.lib.uiowa.edu/items/show/25

1960年代にデュシャンの委託によって★17点の「レプリカ」が作られ現存している。

 

1915年にニューヨークに到着したデュシャンは、パリ時代に開始した、既製品に言葉を書き込んだ作品を継続します。アーモリー・ショーで築かれた名声のおかげで、デュシャンはニューヨークに到着してすぐに多くの人から招かれて援助の機会を得ることができました。彼は既にパリで知り合っていたフランシス・ピカビアに再会し、彼の紹介でボストン出身の詩人でお金持ちのウォルター・アレンズバーグに出会います。アレンズバーグはアーモリー・ショーを契機に近代美術作品のコレクションを開始し、デュシャンの作品に非常に興味を持っていたそうです。両者はすぐに親しくなり、デュシャンはアレンズバーグのアパートに3ヶ月ほど住み込み、その後アレンズバーグはデュシャンのためにアトリエを借り、家賃を負担しました。その援助の代わりにデュシャンが計画している作品、いずれできる作品の所有権を譲る契約を交わしました。彼のアパートは67丁目の33番で、アレンズバーグと同じアパートです。廊下を挟んだ向かいの部屋をアトリエとして借りてもらったようです。デュシャンが1915年から「レディメイド」と呼び始める、その最初の作品である「自転車の車輪」が1913年に制作されています。1918年に撮影された写真、レディメイドが置いてあります。その写真に写っている「自転車の車輪」は再制作?で、オリジナルはデュシャンがフランスのアパートを引き払った後、妹のシュザンヌが掃除をした際にゴミと一緒に捨ててしまったと言われています。

 

 

・・・そもそもが★「レディメイド」であり、その「原作」とされるものが遺棄(放棄)もしくは行方不明であるという事実。そして、★「レプリカ」が多数作られているという現実。さらに、多くの信奉者によって★「オマージュ」作品がつくられるという現象が生じている。まさしく「デュシャン」という拡散は、現代ネット社会を予見していたのかもしれません。私も「玉手箱プロジェクト」において、「デュシャン」拡散に加担したいと思うわけです。つづく