《参考》「みんふど」/合資会社マットシティ
540-0031大阪市中央区北浜東1-15ビル・リバーセンター6階/06-6314-6408
少し広ければ、駅からは遠くてもいいのに。水辺であれば、古くてもいいのに。天井が高ければ、内装はなくてもいいのに。庭があれば、部屋はコンパクトでいいのに。ただの★"箱"でいいのに・・・。そんな希望がなかなか伝わらないもどかしさを感じたことありませんか?効率追求の波は不動産屋さんの世界にも押し寄せ、取引効率のよい=説明の簡単な文句を言われにくい=新しい均質化されたものを中心に取り扱うようになり、不均質な不動産を扱わなくなりました。その結果、不均質な不動産は取り残され、みんなの前から姿を消してきたのです。取り残されつつあるそんな不動産でも使い方によればおもしろいものがあると知っているメンバーが集まり、もう一度みんなに情報提供するために「みんなの不動産」を立ち上げました。
★村野藤吾ビルのラスト区画(お問合番号:10480)
541-0048大阪市中央区瓦町1-7-3/竣工:1952
http://minfudo.com/syosai.php?id=10480
近年、再評価の機運が高まる建築家・村野藤吾。いよいよ★新歌舞伎座も解体される中、だれでも借りれるという意味で、ますます希少価値が高まる現役の小さなビンテージビルだ。今回は1-2階の画廊部分が賃貸化されたぜ。ガラスブロックの外観や美しい階段が有名だが、この1-2階も村野が画廊の為に設計しただけあって見どころが満載だ。堺筋に面した1階は約37坪の吹き抜け大空間。2階は手前と奥に吹き抜けを見下ろすロフト。一筋縄ではいかない構成の空間を衆目監視の下、どう使いこなすか、腕の見せ所だぜ。メインストリートに面したこれだけのストック、価値のわかる御仁にお借りいただくことを祈るばかりだ。
最上階の庭自慢のカットサロン「botanico」から2016年1-2階に弦楽器商★「丸一商店」の入居まで6年の歳月を経て再生されてきたフジカワビルのラスト区画です。3階の西側半分で名物のガラスブロック壁面がある部屋です。現在はギャラリー仕様なので手前に展示用造作壁があり、そのままギャラリー使いはもちろん、壁や天井を撤去し明るく重厚なオフィスにも変化させることができます。村野藤吾らしいディテールがちりばめられた共用部分も含めて見立てると艶のある素敵なスペースができそうです。
《フジカワ画廊》大阪店
541-0048大阪市中央区瓦町1-7-3フジカワビル3F/06-6231-4536
http://www.fujikawa-galleries.com/home.html
1936創業者、美津島徳蔵(水嶋)は1936~45年の10年間、作家のギャラリー「美交社」〈大阪・代表者美津島一(実兄)〉のもとで藤川と名乗り、実質的な経営に当たる。
1947フジカワ画廊設立 美津島徳蔵、洋画親和会を同志と共に設立、理事となる。
『フジカワ画廊開設披露展』
1949美津島徳蔵、日本洋画商協同組合を同志と共に設立、理事就任。
1951『セザンヌ、ルノワール展』(神奈川県立近代美術館)日本最初の公立近代美術館開館記念展にセザンヌ「読書する少年」1894〜96年 25号を出品協力。
1952『第一回独立美術協会六人展』
『牛島憲之展』(フジカワ画廊での最初の牛島憲之展)
1953大阪市東区(現中央区)瓦町に画廊ビル建設。(設計・監督★村野藤吾氏)
ビル新築披露:『泰西名画展』(海外の部)『現代代表作家展』(国内の部)。
1961東京店開設(日本橋通)68年宝町、72年銀座へ移転。
1969『大阪店改装記念展』
1971創業35周年記念『ギュスターブ・モロー展』、『ブールデル展』、『現代絵画・彫刻展』(東京セントラル美術館、フジカワ画廊大阪店、福岡店にて開催)
1972『東京店移転披露展』創業40周年記念、美津島徳蔵藍綬褒章授賞記念祝宴開催。世話人★村野藤吾、牛島憲之、土方定一、河北倫明の各氏。祝辞:大平正芳氏。文化庁長官、各美術館館長はじめ出席者数百名。(東京:帝国ホテル、大阪:ロイヤルホテル)
1984東京画商相互会を発展的解消、全洋連創設、美津島徳蔵、名誉会長に推挙される。山本清男氏所蔵(佐伯祐三の名作数十点を含む)山発コレクションを大阪市へ寄贈を仲介する。これにより大島靖大阪市長★「近代美術館」設立を決定。
1989大阪市へ近代美術館設立準備作品購入資金として1億円寄付。京都日仏会館建設資金寄付。
1992御堂筋美化運動を讃え、『近代彫刻代表作展』開催(大阪店)
1995阪神淡路大震災による近代美術館復旧義援金、阪神淡路大震災特別義援金を寄付。
1997美津島徳蔵死去、美津島幸江が代表取締役社長に就任。
2007画廊を東京に集約し、本店を東京に移転。代表取締役社長水嶋幸江の勇退により、石川秀昭が代表取締役社長に就任。
2017年2月フジカワビルにフジカワ画廊大阪店を再開
・・・すごい「沿革」、まさか大阪市「近代美術館」設立のきっかけにフジカワ画廊が大きく関係していたとは驚きです。
《丸一商店》
https://www.maruichi-shoten.co.jp/
大阪に本店、東京に支店を置く老舗絃楽器輸入商。絃楽器や絃楽器周辺小物、ピアノの輸入、また各種ブランドの日本総代理店、正規輸入元を務める。2016年まで45年余りに渡り社屋を構えた大阪市中央区の高麗橋より、瓦町へと移転しました。
1927大阪府堺市で楽器輸入業を開始
1928ドイツ最大手弦メーカー ピラストロ社との取引開始
1937現在の大阪市中央区内平野町にて合資会社丸一商店を設立
1946中央区道修町へ移転
1959ドイツ最大手弦楽器メーカー、カールヘフナー社の総代理店となる
1961ドイツのピアノメーカー、グロトリアン社との取引開始
1963中央区安土町へ移転
1964日本で初めて商取引としてストラディヴァリウスを輸入
(Ex Park 1717)東京芸術大学へ納入
1965丸一商店東京出張所を開設
1971大阪本社を大阪市中央区高麗橋へ移転
2011丸一商店株式会社に改組登記、現在に至る
2016大阪本社を大阪市中央区瓦町へ移転
《NEWS》2016.3.13産経WEST【都市を生きる建築(56)】より
村野はフジカワビルが完成した1953(昭和28)年の翌年に、代表作のひとつである広島の世界平和記念聖堂を手がけている。丹下健三設計の広島平和記念資料館と共に、戦後の建築として初めて重要文化財に指定された名作だ。当時村野は60代の前半で、建築家として脂の乗っていた時期。フジカワビルはそんな時代の珠玉の小品である。間口10メートル弱で5階建の外観は、四角い箱形のシンプルな形状だが、壁面の構成はなかなか複雑だ。2階から4階までの外壁を覆うのはガラスブロックで、その中に透明ガラスの水平連続窓をはめ込み、輝きの異なるガラスが入れ子状になっている。更にその両端にバルコニー状の凹みを設けているが、人が出られるようにはなっていない。デザイン上の効果を狙ったものだろう。2種類の「光」の面を、何もない「空間」で挟み込むことで、単純なガラスの箱とは異なる、独特の透明感を纏っている。両端の手摺り状の部分はレリーフになっていて、これは村野自身が★「アダムとイヴ」をモチーフに原案を考えたという。幾何学的な構成と装飾的な要素の共存は、村野建築の大きな特徴のひとつだ。(★高岡伸一/建築家・大阪市立大学特任講師)
・・・素晴らしいタテモノに素晴らしいお店が入居する、あたりまえですね。建物の正面はガラスブロックで覆われたモダンなものであるが、その両端に設けられたベランダの手摺のグリルは村野がデザインしたもので、階と位置によってデザインが異なるという凝りようである。
《住宅建築》編集:建築思潮研究所
2017年2月「特集:過去と未来を結ぶ知恵と技
★画廊時代からの村野デザインが生きる楽器店「丸一商店(フジカワビル)」
設計=村野藤吾★改修設計=高岡伸一
過去の建築をどう残していくかは、現代における課題となっています。今回は、戦前の建物から戦後のモダニズム建築に至るまで、その多様な改修保存の実例7軒を紹介しています。元のディテールを活かす改修設計や構造補強の工夫、現代での活用の仕方の工夫など、様々な知恵と技で、その建物本来の魅力を引き出し価値を高めています。建物を残し未来へ伝えていくために、どのように残していくべきかという建築との「対話」が求められています。