・・・前回は露香さんの「出生地」にこだわって調べましたが、あまり大きな成果は得られませんでした。さて、ひょんなところで★「平瀬市五郎」という名前を発見しました。
【町田忠治】(1863~1946)
http://music.geocities.jp/keiun03/
政治家。秋田の生まれ。「朝野新聞」「郵便報知新聞」記者を経て東洋経済新報社を創立。のち、政界に入り、農相・商工相などを歴任。昭和20年(1945)日本進歩党を結成、総裁となったが、翌年公職追放により引退。
★秋田県立博物館研究報告第23号
/館長館話・実施報告抄「町田忠治の時代と謎」より
https://www.akihaku.jp/publication/report/report.htm
(前略)岩崎総裁から山本達雄総裁に変わった際に明治31年(1898)10月日銀騒動が起こり、32年3月彼も日銀を辞職した。帰京しようとしている時大阪の富豪山口家から同家の山口銀行に助力して欲しいとの懇請を受けた。「山口家の当主はまだ幼少であるが、そこにいる君等のような古い番頭や、親戚の人々が全く他人の町田を迎えてどうする気か、もしまた主人の家に万一のことがあった場合はどうする」「一切お委せする」というようなことで、山口銀行総理事を引受けたのである。実は大阪財界に迎えられたのは祖父長恭の大坂勤務が因縁であったという。秋田人としては極めて興味深いことなので★『町田忠治翁伝』から引用してみる。
※「町田忠治翁伝」(町田忠治翁伝記刊行会)1950.8
/著:松村謙三(1883~1971)町田忠治の秘書官1929~
http://www.tym.ed.jp/kokusai/yukari/matumura.html
https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/section/detail.jsp?id=220
https://www.nikkei.com/news/topic/archive/?uah=DF230220126456
その間を斡旋仲介したのは、日本銀行支店の関係から★片岡直輝氏及び★平瀬市五郎氏であったようである。特に平瀬市五郎氏は翁の日本銀行時代同じく大阪支店におり、主任級の地位にあった人で家柄も相当に古く、もと★「ちぐさや」という両替屋で、いわゆる館入りの一人であり、大名の財政金繰りの調達を引受けていた家柄である。翁の祖父長恭氏が再三の大阪在番にあたり、苦しい秋田藩の資金調達をした時分から平瀬家とは特に呪懇にし、深い関係があった。長恭氏の孫である翁と、その平瀬家の後嗣たる市五郎氏とが偶然日本銀行で同僚としてめぐりあい、父祖の関係からも特に懇意になったのであろう。平瀬氏が日本銀行京都支店長時代のこと、大阪夏の陣に戦残した秋田藩の忠臣渋井内陣の墓が京都下寺町の本覚寺にあることを発見し、翁に話し、翁は同氏の世話で、遺骨を秋田に送って改葬し、その跡に紀念の碑を建てたことなどもあった。山口家からの直接の懇望を承諾するに到るまでには、平瀬氏の斡旋大いに力あったことと思われる。翁が山口銀行を株式組織に改めた時、監査役に平瀬氏を推薦したなどその交誼は始終変わらなかった。翁が山口家に入り大阪経済界に雄飛するに至った因縁は、かくの如く、遠く祖父長恭氏の縁故に結ばれているのである。誠に奇しき運命といわねばならぬ。
・・・大阪歴史博物館「平瀬露香」展カタログに掲載されている「平瀬家系図」には、「平瀬市五郎」という名前は見当たりませんでした。
【平瀬市五郎】(山下惣左衛門の長男・山下市五郎)1855生
父:山下惣左衛門
※平瀬家に★養子として入る。
妻:山本トシ(山本三四郎の二女)
長男:平瀬愛雄1884→日本銀行営業局長、1936日本銀行理事
男:平瀬三雄1890
男:平瀬信吉【山下信吉】(山下イクの養子)
長女:平瀬陸★(平瀬三七郎の妻)1886生
女:平瀬ツル(白山殖産社長 白山清太郎【白山善五郎】の妻)
女:平瀬マツ【渡辺マツ】(渡辺良太郎の養女)
女:平瀬フサ(白山殖産取締役 白山茂次郎の妻)
・・・平瀬三七郎とあるが、平瀬家第8代当主「平瀬三七雄」であろう。
【平瀬三七雄】(1876~1927)
富子助次郎氏の長男にして明治9年3月出生、先代★平瀬亀之輔氏の養子となり40年1月家督を相続。「大阪貯蓄銀行」専務取締役、外東洋製紙、教育生命保険会社の監査役を兼ねる。晩年には、御堂筋の拡張工事に伴い本宅・控宅ともに取り壊され、新たに京都室町一条にかつての控邸と全く同じ屋敷を建てる。52歳没。
★平瀬家第9代当主・陸(1886~1971)
夫の没後、昭和2年相続。義弟・春勝(1904生)
・・・露香さんも養子、息子・三七雄さんも養子、その妻・陸さんの父・平瀬市五郎さんも養子。それぞれが「家系」を守るために「養子縁組」や「政略結婚」を繰り返してきたのですね。

【片岡直輝】(1856~1927)
(前略)海軍を去った後の1892年(明治25年)7月、直輝と同郷であった河野敏鎌内務大臣の推挙を受け秘書官に任命されて文官時代が始まった。同年9月、河野内相が文部大臣になると再び文相秘書官となるが、1893年(明治26年)3月、文相が井上毅へ親任されるに際して依願免官となると、内務省に復帰し大阪書記官に任命される。上水道敷設、大阪港建設、下水道整備などを指揮し才腕を振るったが、1896年(明治29年)4月、内務省を去り文官時代を終える。そして同年6月、★日本銀行に入行する。まずは見習いとして銀行の実務を経験し、同年10月に大阪支店長心得に、そして1897年(明治30年)2月、大阪支店長に抜擢をされる。当時の日銀大阪支店長といえば関西財界を支配する力があり、1899年(明治32年)3月に日本銀行支配役を免ぜられるまでの日銀時代に、後の実業家としての地盤が築かれることとなる。日銀を去った後の1899年(明治32年)、大阪瓦斯の社長に推挙され、同社社長となる。大阪瓦斯の設立は1896年(明治29年)だが、その後に襲った経済不況によって経ち行かなくなり名義だけの存在となっていた。それを浅野総一郎が株式の過半数を取得・買収した後、関西経済に通じている直輝を同社社長として迎えた、という経緯がある。
《参考》「財界人物我観」著★福沢桃介/現代語改「片岡直輝」(3) より
http://fmomosuke.blogspot.com/2012/09/3_20.html#!/
叙上の如く、片岡は人物の養成に努めたのみならず、事業の救済にも、頼まれると一臂も三臂も労を惜しまなかった。大正三年の頃、欧州戦争が始まるや、北浜銀行が破綻した。頭取岩下清周が社長を勤めていた大阪電気軌道会社は、その余波をうけて金融全く途絶し、当時工事を請け負った大林組は、大軌から請負金の大部分を支払って貰えないので、破産の瀬戸際に迫られた。大軌並びに大林組から、その救済方を依頼された片岡は、よしというのでまず大軌内閣を改造し、大槻龍治を社長にすえ、永田、藤野らの有力者を取締役にして、整理してしまって、遂に大軌を復活させ、同時に大林組を救いあげた。また、浪速銀行は、経営者の怠慢から業態が悪化し、そのままにしておいたならば破産の悲運に陥らさるを得ないので、片岡は薩摩系統の十五銀行と合併し、以てこれを救済する案を立てた。最初、松方正義は、この合併に反対したそうだが、片岡の熱心な運動によって合併が成立した。後年この銀行は破綻したが、ともかく一時没落を免れたのは、全く片岡の力である。片岡は極めて無愛想だ。弟の直温ほどではないけれども、初めて会った人は、何となくいやな心持ちがする。だが、付き合っていると、だんだん味が出るといって、一度つきあった者は生涯交情を絶えないという。片岡は、身の丈五尺三寸位、いわゆる中肉中丈で、身体強壮、母が八十何歳まで生きたという長生の血統だから、八十歳以上は無論生きられたであろうが、実業家の通弊として、花柳の巷に出入りする機会が多く、不養生のために比較的早死したのだろう。片岡の長所は、何といっても、その親分肌にある。それに胆力があり、剛情我慢で、思慮もある。学者という程ではないが、仏語をやり、英学も相当に出来た。また、顔に似合わぬ粋人で、風流韻事を解し、南地の旗亭大和家を陣所として、「大和屋会」なるものを組織し、毎月友人乾分を集めて歓談したものだ。その会に出席する者は、大阪一流の紳士、すなわち、永田仁助、渡邊千代三郎、★平瀬三七雄、坂仲介、野村徳、島徳蔵、松方正雄らであった。片岡は大の左利きで、常に白鷹を愛用し、宴会にはもちろん、旅行中でも、必ず白鷹を携帯して、これをちびりちびり飲んで、得意満面となり、酔うと必ず意気な喉で一手販売の都々逸を唄った。
【福沢桃介】(1868~1938)
http://www.town.nagiso.nagano.jp/kankou/midokoro/nagiso/midokoro_43.html
旧姓は岩崎で、福澤諭吉の★婿養子となり福澤姓を名乗る。相場師として日露戦争後の株式投機で財を成し、その後実業界に転ずる。主として電気事業に関与し、名古屋電灯を買収して社長となり木曽川などで水力開発を手がけ、後に大手電力会社大同電力の初代社長となった。これらの電気事業での活動により「電気王」「電力王」と呼ばれるに至る。また、実業家としての活動の傍ら、一時期衆議院議員(1期)も務めたことがある。
・・・ここまで露香さんにこだわってきたのは、調査研究の初期段階から基本資料としてきた「大阪博物場~楽園の盛衰」文:後々田寿徳(故人)の中に記された一文、
★露香は財界人との交流はほとんどなかったが、「胸襟を披いて話す人はなかった、只一人~ほんのただ一人~町田久成(号石谷)があった」
・・・この文は、郷土研究「上方(14)」1932年(昭和7)2月号/前田貞郷「露香翁の追憶」からの抜き書きということなので、復刻(合本)を入手しました。
【町田久成】(1838~1897)
http://www.meijiishin150countdown.com/cust-map/210/
http://www.meijiishin150countdown.com/topics/discovery/1417/
町田久成。父は日置石谷城主町田久長。19歳で江戸に出て昌平黌に学び、帰藩後は小姓組番頭・大目付となる。慶応元年、藩命によりイギリスに渡り、留学生を監督した。帰国後も活躍。★東京帝国博物館(のちの東京国立博物館)初代館長に就任。本人は園城寺の桜井敬徳に帰依し仏門に入り、その墓域に葬られた。町田家祖先の墓は石谷城跡の北方100Mのところに位置し、大小の墓碑が並ぶ。
※上野の東博初代館長である町田久成胸像を寄贈するにあたり、その台座費用の援助をお願いします。 町田久成は薩摩藩英国留学生のリーダーとして英国ロンドンに留学し、帰国後、上野の森に日本で初めて博物館を作りました。
https://camp-fire.jp/projects/view/11794
2016年11月14日、東京国立博物館平成館前に、初代館長を務めた町田久成の胸像が建立されました。胸像は★中村晋也先生によって制作され、久成のご子孫である町田忠夫様からご寄贈されました。この胸像を通して、久成の功績や偉業が多くの方々に知られることを願っております。
・・・ただ国立博物館・初代館長というだけで、露香さんが胸襟披いて語り合う人だったとは思えません。1882年3月東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任、同年10月に東京帝室博物館長を辞職。そして後に出家して三井寺光浄院の住職となり僧正となる、複雑なイキサツがあったようです。それらの辛苦と人柄こそが、露香さんとの深い信頼関係を築いたのだろうと推察されます。