平瀬露香(33) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・露香さんのお墓がある「妙福寺」の末寺「導通寺」は、「中津」にあったという。「中津」と言えば、露香さんの出生地でもあり、「別荘」もあったそうです。再掲も含めて、もう少し詳細に調べてみたいと思います。

 

【出生地】/城北篠葉村別墅(中津町★下3番) 

洫川に掛かった★「萩の橋」という小さな橋の手前を奥へ引き込んだ荒れに荒れた家がそれで、以前は野遊の場所で、向い側に萩の寺★「東光院」や「朝妻楼」があった。翁は庶出の為めにひそかに此「別荘」で生ませたので生母★高井れい女は翁を生み落すと、直に★播州阿弥陀辺に帰って、80~90迄長命されたとの事である。此別荘には維新後、紀州の狂画家★「酒井梅斎」が楽焼窯を築いて住んでいた事もあった。今は此家に附属した畑地に★警察署や税務署が建って繁華な地になっているが、別荘だけは昔の形を残している。翁は毎年誕生日に此所の産土神★「利島神社」へ参詣された。 

 

《天保新改攝州大阪全圖》天保8年(1837)

 

《大阪市パノラマ地図》大正12年(1923)/発行:1924

《中津川》 

独立行政法人水資源機構/関西・吉野川支社/淀川本部「中津川管理室」 

554-0001大阪市此花区高見1-10-46/06ー6462ー7701 

https://www.water.go.jp/kansai/nakatsu/index.html

その昔、中津川は毛馬地区付近で淀川から分かれ、曲がりくねりながら大阪湾へと流れ出る大河でした。貞享元年(1684)、淀川と中津川の分岐点では、淀川への流水量が減少する問題が起きました。淀川下流での舟の往来が困難になり、そのために淀川と中津川の分岐点に工事が施されました。工事により水の勢いを取り戻した中津川は、安定した流れを持つ川となりました。その後、明治30年から43年にかけて行われた淀川改修工事で、中津川の一部を利用して放水路(現在の淀川)が作られました。この工事によって排出された土砂を運搬し、放水路より南の地域への干害用水の供給や舟運の便を図るため、放水路の左岸堤につくられたのが長柄運河でした。この運河が、淀川改修工事以降の中津川です。この中津川は、正蓮寺川、六軒家川の河川浄化や舟運などのための維持用水(毎秒8.5m3)、沿岸工場への工業用水(毎秒2.4m3)を流下していました。中津川が流れ込んでいた正蓮寺川の北岸には「正蓮寺」という日蓮宗の寺があります。現在から約350年前、浪人・甲賀谷又左衛門がこの付近の川中で仏像を見つけました。像を見た旅の僧に「これは日蓮さまの像だ」と言われた又左衛門は、その地に庵を建て正蓮日宝と名を変えて僧となりました。これが「正蓮寺」の由来と言われています。正蓮寺のほとりを流れる正蓮寺川周辺は、昭和初期から工場地帯として発展しました。新たな工業用水の取水や河川浄化を目的に、正蓮寺川の利水事業が行われることとなり、中津川は昭和42年に埋め立てられました。

 

 

《旧「能勢街道」》 

大阪市北区中津1丁目1「萩之橋」跡(石碑がコンビニ前に立つ・大淀警察署近く・旧西成郡中津村大字★下三番)から池田市を経て妙見山の能勢妙見堂に至る旧街道です。 現在では旧街道に並行する、国道176号大阪~豊中~池田および国道173号池田~多田~能勢~篠山(但しバイパス等を除く)の通称・別称として使われることも多くあります。即ち、大阪・中津を基点とし、十三、三国、庄内、服部、岡町、石橋、池田、木部、古江、多田、一の鳥居、尾根筋を通り妙見山へ至る道路で、明治9年(1876)に「太政官達60号」で道路の種類及び等級が定められた際、★「能勢街道」は当街道は池田や能勢で産する酒や衣類、木材が当街道によって大坂へ運ばれ、更には能勢から奥に続く★丹波国の米、栗、炭、銀、銅などの搬出路でした。終着地の能勢妙見宮、服部天神宮、★東光院(萩の寺)、原田神社、多田神社など社寺が多く、少し横道へ入れば、中山寺、勝尾寺なども含めて、参拝路としても賑わっていました。明治27年(1894)、岡町~池田間は、かつては刀根山(大阪大学豊中キャンパス南方)回りの山道を通り、坂が急で物資運搬に支障をきたしていたため、現在の阪急豊中駅付近から石橋にかけ、比較的平坦な新道が開かれ、これを「新能勢街道」といい、現在の国道176号線とほぼ同じです。現在、大阪市~池田市は阪急・宝塚線と国道176号が、更に池田市~妙見山麓まで国道173号及び国道477号が並行していますが、川西市以北では、能勢電・妙見線が並行します。これら鉄道や道路の整備によって本街道は寂れましたが、現在もかつての道筋の多くが残り、生活道路として活性化され、旧「伊丹街道」と交差する岡町付近では商店街となっています。なお、明治時代の本街道は、大阪・天神橋を起点として、長柄の渡し(淀川)、十八条町、小曾根の渡し(神崎川)、高川堤防道と続きました。 

 

・・・平瀬家のふるさとは播磨「千種町」ですから、この「能勢街道」をことあるごとに行き来したに違いありません。まして、露香さんの生まれた場所であり、生みの母と引き離されたところでもあるのです。

 

 

《参考》「千種町」 

https://chikusatown.net/guide/know/history.html

奈良時代に編纂された播磨国風土記に「敷草村、敷草為神座故曰敷草」と記され、古くは「敷草村」と呼ばれ、神々のしとねと表現されていました。また、千種の里は古来より明治中期に至るまで一貫して★和鉄の里として知られ、繁栄してきました。 

 

《丹後王国論》 

日本古代史が専門の歴史学者★京都府立大学・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国と呼んだ。ただし丹後国は和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを★丹波王国と呼ぶこともある。門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。遠所遺跡から製鉄遺構だけでなく、鍛冶遺跡も発掘された事をとらえて、ここを奈良時代の一大製鉄コンビナートともいうべき、驚くべき遺構だと位置づけている。しかしながら、丹後の古代製鉄の原料である砂鉄は、現在までの調査の結果、丹後地方のものではないことが判明している。原料の砂鉄はいったいどこから来たのだろうか? この点は、まだ研究者間でも解明されていない。門脇教授によると、丹後地方には「車部」(くるまべ)という氏族がおり、この「車部」は物品の運搬を司る氏族で、丹後の古代製鉄の原料である砂鉄や、出来上がった鉄や鉄製品の運搬を担当していたのではないか、と推論しているが、その砂鉄がどこから来たか、製品はどこへ運ばれたかについては依然謎のままだ。 

 

《参考》「古代丹波歴史研究所」/所長:伴とし子 

http://kodai.holy.jp/ 

 

《播州阿弥陀辺》(兵庫県高砂市阿弥陀町阿弥陀) 

「播磨灘物語」著:司馬遼太郎より 

阿弥陀ケ宿とは、姫路から8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。★阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。宿場の南側に、★時光寺という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。 

http://www.e-harima-tourism.jp/spot/item_115.html

※『播磨灘物語』 

1973年5月から1975年2月にかけ「読売新聞」に連載された。豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(孝高、如水)の生涯を描く。友人として竹中半兵衛も描かれる。黒田官兵衛が仕える御着城主小寺政職の勢力は、播磨から備前にかけあったが中世的な家風が漂い、中央(京周辺)で台頭する織田信長に対しては否定的であった。信長の時代の到来を予知した官兵衛は、小寺家を信長の勢力圏に組み入れるよう奔走する。だが次第に当の小寺家には疎まれてゆく。そんな中、織田方の重臣荒木村重が叛旗を翻す。村重に小寺家がなびくことをおそれ、官兵衛は村重を説得しようと有岡城に向かうが、投獄されてしまう。ここで官兵衛は、自分の知恵の無力さ、はかなさを感じ、出獄したころには身も心も変わっていた。天下統一に向け動く秀吉の重臣として新たな人生が始まる。

 

 

【酒井梅斎】(1828~?) 

文政11年(1828)大坂生。名は橘三。画を前田暢堂のち前田半田(1817~1878)に学ぶ。字は子文。戯れに鳥巣閣主人と称した。尾張の山本梅逸(1783~1856)の門を出て、巧みに師の画風を伝えた。和歌山山本町に住んで絵筆をとった。明治12年頃に神戸に行き、海外輸出の陶器画の筆をとった。明治年間歿。 

 

・・・シャボン玉する悟空、その一つ一つに彼の分身のシルエットが映る。この「孫悟空図」なかなかイイなあ。

 

・・・露香さんが、毎年誕生日に参詣されたという産土神★「利島神社」。 

 

《富島神社》  

531-0071大阪市北区中津2-5-10/06-6372-2574  

http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=7618

具体的な創建時期は不明となるが、かつては、祇園牛頭天王社と称しており、その後、明治以降★「利島神社」と改称し、明治40年(1907年)には、南浜の春日神社、宮本の天満宮を、明治42年(1909年)には、十三の鷺島神社、塚本の八坂神社を合祀している。そして、明治43年(1910年)に現在の社名へと改称したとされる。ただし、昭和30年(1964年)には八坂神社は分離している(現在の塚本神社)。

 

 

・・・中津界隈は、老舗「花外楼」さんがお店を構えておられたほどの土地柄であることがわかります。 

 

《参考》花外楼「大淀別邸」 

531-0072 大阪市北区豊崎3-16-19★ラマダホテル大阪B1F/06-6375-5055 

http://www.ramada-osaka.com/restaurants/kagairou.html

http://www.ramada-osaka.com/

「ラマダホテル」は、大阪万博を翌年に控えた1969年に東洋ホテルとして開業。各国の賓客を迎え、ロイヤルホテル(リーガロイヤルホテル)、ホテルプラザと共に大阪のホテル御三家の一角を担っていた。しかし時代とともに衰退。2006年にラマダホテル大阪(総客室数548室)にリブランドしたが、結局は2013年に閉館となった。建物は解体。跡地には、御堂筋線「中津」駅直結となるタワーマンション★「ブランズタワー梅田 North」(地上50階、高さ168.44m)の建設が進んでいます。2020年1月下旬竣工予定、入居:2020年3月下旬予定。 

 

《参考》電車唱歌「箕面有馬電車唱歌」 

https://hrd.php.co.jp/keieikanri/ketsudan/post-159.php

★小林一三が発起人となり、1907年(明治40)に設立された箕面有馬電気軌道は、当初から建設資金難にあえぎ、世間の認識も低かったことから、新線の必要性を喫緊に社会に認知させ、広く出資を募らなければならなかった。小林は、パンフレットをつくり株主をはじめ関係者に配ることを思い立つ。当時まだ、企業広告は市井になく、パンフレットをまくという宣伝手法も画期的で、小林の独創力の発端ともいえる。このパンフレットは今でも時代を感じさせない出来映えである。だれが見ても理解しやすいようにと、一般人が関係者に質問をするQ&A形式になっている。「箕面有馬電気軌道会社の開業はいつごろですか」という問いにはじまって、投資家が気になる利益や配当についてもしっかりと述べる。自分の回答に小林は質問を重ねる。「それはあまりにうますぎる話ですが、何か他に計画していることがあるのですか」。今度は住宅地経営の可能性を説明し、念押しに、「箕面有馬電軌の沿道はそんなによいところですか」と質問させてさらに各論に入る。このパンフレットは「最も有望なる電車」という題で刷られ、話題を呼んだ。小林がコピーライターであるというのは、このパンフレットのコピーや文章すべてが小林の手に成るものだからである。他にも宝塚線、箕面支線の営業開始時の宣伝コピーは斬新だった。このとき小林は、ありきたりなコピーではなく、十五番もある「箕面有馬電車唱歌」という歌をつくってしまった。 

https://www.youtube.com/watch?v=yBZSkLpDeHY

東風ふく春に魁けて 開く梅田の東口 

行きかう汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋 

★「業平塚」や「萩の寺」 新淀川の春の風 

十三堤の野遊び に摘むやたんぽぽ五月花

 

 

・・・「業平塚」を調べましたが、それらしい情報は得られませんでした。かなり離れた場所ですが、淀川沿い「島本町」に興味深い「お社」がありました。 

 

《参考》「粟辻神社」 

618-0011大阪府三島郡島本町広瀬3-4-25 

http://oyamazaki.info/archives/736

古くは「粟辻明神」といい、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と★在原業平を祀っています。天慶元年(938)創立され、「春日神社」と称していたが、惟喬親王が粟辻氏の祖先にあたるので享禄4年(1531)「粟辻神社」と改称されたとも伝えられています。往古より講中が支配してきた。「粟辻安永記」には「春日明神小社」と記し、享保9年(1724)頃、堂の講より水無瀬家に願いでて免許され、そのころより粟辻明神と名付けたとあります。寛政7年(1795)に本殿を修復しています。 

惟喬親王(844~897)は55代文徳天皇の第1皇子。文徳天皇に愛されたが、母は紀氏で外家の力を頼るべくもなく、藤原良房を外祖父とする文徳天皇の第4皇子・惟仁親王(56代清和天皇)が皇太子となった。良房による藤原北家勢力確立過程における悲劇の人であった。857年(天安元年)に元服して、太宰師、弾正尹などを経て、872年上野国太守となる。その後、病のため出家し、小野の里に隠棲した。 

在原業平は、親王と義理の従兄弟であったのみならず、阿保親王を父としていたために不遇な境遇にあったことが似ていたので、親王と深い交りがあった。その間の様子は伊勢物語の中に残されている。親王と共に水無瀬の離宮から交野原に遊び(鷹狩)、「渚の院」に至って桜をめで、 

https://wakastream.jp/article/10000238gAgi

「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」と云う有名な歌を詠む。 

 

・・・業平さんは「淀川」沿いで鷹狩などを楽しんでいたようですから、「業平塚」が中津界隈にあったのかもしれません。 露香さんも思い出の地で、楽しんでおられたのなら幸いです。