《聖光寺》
600-8032京都市下京区寺町通綾小路下る中之町584/075-351-7584
錦綾山と号し、浄土宗鎮西派に属する寺である。寺伝によれば、当地には平安時代後期、仏師★康慶の居宅があり、その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(鎮西上人)の草庵があったといわれている。弁長は、ここから8年間、法然上人の許に通い、浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられている。当寺は元久元年(1204)、弁長の帰郷に際し、康慶がその別離を悲しみ、弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、聖光庵と名付けたことに始まるといわれている。本堂には、鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来立像を安置し、寺宝としては清海曼荼羅、当麻曼荼羅の二幅を蔵している。また、境内には大石良雄の母と、綿屋善右衛門好時(★天野屋利兵衛)の墓がある。
【康慶】(生没年不詳)
平安時代末期~鎌倉時代初期の仏師。子に★運慶★定覚。南都仏師の正系・康朝の弟子、また、康朝の父・康助の弟子ともいう。1152年、吉祥天像を制作。1177年、後白河法皇(第77代)の蓮華王院五重塔造仏の功により法橋の僧位を得た。1180年、平重衡の奈都の焼討ち後、興福寺復興に一門を率いて参加、南円堂の本尊・不空羂索観音像(国宝)などの造像を行い1189年、完成した。1194年以前、法眼の位を得る。1196年、最後に東大寺大仏殿の脇侍像・四天王像の造立を行う。慶派の基礎を築いた。弟子に★快慶★定慶がいる。
【綿屋善右衛門好時(天野屋利兵衛)】(?~1708)
江戸時代の呉服商・金融蔵之立替・綿屋善右衛門。安田善右衛門、安田好時。室町二条に店があり、一条智恵光院に住んだ。1691年、大石内蔵助の母・お熊の方のために聖光寺の一室を借り受け、供養埋葬を行う。浅野内匠頭の蔵奉行・貝賀弥左衛門は、妻娘を伴い討入を打ち明け、妻娘の後を託したという。1702年、大石内蔵助の討入に際して小道具、装束を調達したという。大石、義士らに資金提供した。1703年、討入後切腹した貝賀の遺髪を京都・本妙寺に葬り、後にその妻・おさんも埋葬する。娘・お百は養女とし斉藤源兵衛へ嫁がせる。大石が京都・瑞光院に主君のために立てた供養碑を工面した。京都・西方寺に小野寺内父子、本妙寺に吉田忠左衛門らの墓を立てている。浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」(1748)では赤穂義士を支援したという義商・「天川(河)屋義平」は、綿屋善右衛門ともいう。綿屋善右衛門の墓は聖光寺にある。「仁誉貞実好山居士(安田好時之墓)」と刻まれている。
《京都大神宮》
600-8031京都市下京区寺町通四条下る貞安前之町622/075-351-2201
明治のご維新を迎え、江戸時代末期より盛んであったお伊勢参りが叶わない人々の為に、全国都道府県に、伊勢神宮が遥拝出来る設備を設けるとともに、伊勢神宮大麻の頒布などを行うことへの要請がありました。京都大神宮は、当初、伊勢神宮の布教機関であった神宮教の京都教会所に由来し、神宮奉斎会京都地方本部として、創建されました。明治六年七月、伊勢神宮の内宮・外宮より、天照皇大神、豊受大神の御分霊をお迎えし、諾冊二神、八柱大神、大地主神、倭比売命を配祀、明治八年、社殿を建立しました。明治14年には、神宮遥拝所を創建、神風講社を設立。戦後、「京都大神宮」として、再出発しました。本殿は、★一条家の玄関及び書院を移築したもので、唐破風の優美さは、日本有数といわれており、この唐破風を模した建築物も作られたと伝えられています。また、手水舎の水盤は、太閤秀吉公で名高い★「伏見城」にあったものを寄進、移築されたと伝わっています。
《参考》「大雲院跡」
下京区寺町通四条下る西側
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si044.html
大雲院は、織田信長(1534~82)の帰依を受けた浄土宗僧貞安(1539~1615)が、本能寺の変で亡くなった信長・信忠(1557~82)父子の菩提を弔うために建立した寺。信忠の法名に因んで大雲院と称した。もと烏丸御池にあったが、天正18(1590)年、豊臣秀吉(1536~98)の命によりこの地に移された。境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。その後、度々、火災で焼失し、明治初期に再建されたが、周囲が繁華街となったことで、1972年(昭和47年)に、髙島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して再移転した。2014年、京都市下京区の河原町通四条の発掘調査で、旧大雲院の敷地跡から豊臣秀次の供養塔の一部とみられる石材が見つかった。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があった。
《龍池山・大雲院》
京都市東山区祇園町南側594-1/075-531-5018
浄土宗の単立寺院。天正年間(1573~92)織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、父子の知遇を得ていた貞安上人が、信忠の法名「大雲院殿三品羽林仙巌大居士」をもって二条烏丸に創建。創建当初の大雲院は御池御所(現在の烏丸二条)の位置にあり、その後豊臣秀吉の手により寺町四条へと移転。天明・元治の大火で焼失。明治初期に復興、1973年(昭和48)現在地に移転した。本堂の背後に山鉾を模した「祇園閣」がそびえる。信長父子供養塔がある。寺内は通常は非公開であるが数年おきに期間を限って公開され、公開の際は祇園閣に登ることや、墓地の石川五エ門墓所や織田信長らの慰霊碑の参拝もできる。書院の内部公開は行われない。
祇園・東山界隈に移転したこの場所は、一代で巨万の富を築き、現在の大成建設や帝国ホテルの創始者でもある★大倉喜八郎氏の別荘地でした。現在の大雲院はもともと大倉喜八郎氏の別邸「真葛荘(まくずそう)」の一部だったのです。老後保養の地として別邸「真葛荘」を建てた大倉喜八郎氏は「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」との意思で、ゆくゆくは一般に公開し、京都の名物にすることを考えて敷地内に”銅閣”を建てる事を決めたそうです。そこで築地本願寺や平安神宮を手掛けた事で有名な、昭和初期の代表的な建築家★伊藤忠太氏に設計を依頼したのです。大倉喜八郎氏は当初、少年時代に見た、「突風に吹かれて逆立った雨傘」のイメージで作るように求めていたそう。しかしさすがにそれは設計的に無茶だったようで、伊東氏は祇園祭の山鉾をモチーフにして設計、その形から「祇園閣」と命名されました。この「祇園閣」は屋根がしっかりと銅板葺きにされており、大倉喜八郎氏の夢”銅閣”が京都に誕生したのです。そして時は流れ、「真葛荘」へ大雲院が移転。この結果「祇園閣」は大雲院の所有となり、大雲院が公称しているわけではありませんが、銅閣を有するお寺『銅閣寺』がここに誕生したのです。大雲院が昭和62年に開祖400年を迎えた記念に、祇園閣内部の通路・階段壁面に世界遺産でもある中国の”敦煌莫高窟”の壁画が模写されました。祇園閣は国の登録有形文化財となっていますが、その内部に世界遺産が描かれているわけです。
・・・何度も遠くから眺めてきた「祇園閣」が「大雲院」だったとは、またまた行きたいところが増えてしまいました。そんなことを考えながら、「高瀬川」沿いを駅の方へ向かっていますと、
《真町の地蔵尊》
涙の地蔵
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html
森鴎外の小説「高瀬舟」にあるように罪人を島流しに送り出す時、無事に帰れるようにと、涙を流してお願いしたお地蔵さんで、当時山崎屋「廻船問屋」にあったものです。
池大雅(作)
元文年間(1736~1741)に、池大雅が建仁寺の僧侶に、お地蔵さんの在り方を聞いて筆をとり白川の自然石に張り合わせたお地蔵さんで当時、町の会議所にあったものです。昭和51年8月吉辰/真町々内会長・井上三郎
《高瀬川》
もともとは江戸時代初期に豪商★角倉了以が物資を流通させるために開いた運河でした。およそ300年の間、京都・伏見間の水運の大動脈として重宝されていたようです。現在では、鴨川において京都側と伏見側に分断されています。徳川幕府の時代、島流しになる京都の罪人はこの川筋を上下する小舟・高瀬舟で大阪へ送られました。ある日、弟を殺した喜助という男が高瀬舟に乗せられますが、他の罪人には見ることのない晴れやかな顔をしています。護送を命じられ一緒に乗り込んだ警護役の庄兵衛が不振に思い、彼に尋ねるとそこには考えさせられてしまう意外な理由があり…。この物語で、鴎外がメインテーマとしているのは、「財産と欲望の関係」と「安楽死について」の2つです。庄兵衛は、「慾(よく)のないこと、足ることを知っている」喜助に感嘆し、そしてやむを得なく「殺人犯」になってしまった彼の境遇にどうしても腑に落ちないものを感じます。鴎外がこの小説で投げかけた「安楽死は是か非か」という疑問は、この小説が発表されて90年以上たった今でも、新聞やニュースで繰り返し報じられる大きな社会問題となっています。「知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕(ゆうべ)」に高瀬舟に乗ってきた喜助と、役人の庄兵衛。物語の最後は、「次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面(おもて)をすべって行った」としめられています。この時間の流れの中で庄兵衛は様々なことを思いますが、結局はうやむやのまま彼の思いも暗い闇に封じたのではないでしょうか。現在は喜助が舟から見た景色とは様変わりしているでしょうが、江戸時代、高瀬舟が乗せていた色々な思いを想像しながら、川沿いの木屋町通を歩いてみるのもいいかもしれません。
・・・そんな「高瀬川」で、残念な出来事がありました。
《NEWS》2018.11.7朝日新聞デジタルより
高瀬川の彫刻、壊される
中京区の木屋町通沿いの高瀬川のせせらぎに彫刻が並ぶ「京都高瀬川彫刻展」で、彫刻が割られる被害があったことが、作家や主催者への取材でわかった。蹴られて台座から落とされたとみられるという。被害を受けた男性作家は近く、府警に器物損壊容疑で被害届を出す。壊された彫刻は高さ約1メートルの「静かな逆襲」。京都彫刻家協会の前会長★江藤佳央琉(本名・江藤薫)さん(63)=左京区=が花崗岩でつくった。重さ40キロほどで、コンクリートブロックを重ねた台座に載せられていた。江藤さんによると、10月30日夜までは問題がなかった。高瀬川沿いには翌日、ハロウィーンで多くの人が集まっており、江藤さんの友人が今月1日昼に壊されているのを発見。上部の約40センチの部分が割られ、台座脇に落ちていた。彫刻は接着剤で修復。台座には「心ない人の手によって作品が破損してしまいました」「鑑賞して頂く方々には大変心苦しい」という断り書きを貼った。江藤さんは「彫刻への理解を深めてもらいたくて展示したのに悲しい。彫刻作品にはそれだけの価値しかないと思われたくないので、泣き寝入りせず被害届を出すことにした」と話す。同展は、芸術家グループ「京都アートカウンシル」が10月28日~11月10日に開催。三条通から四条通までの高瀬川に26作品が並ぶ。
・・・野外での展示、リスクをともなうけれども「めげずに」続けて実施・開催してほしいです。ごく一部の心無い人のために中止したり「アキラメ」たりしたら、それこそ「アート」はちっぽけなものになってしまいます。「アート」こそが、「シタタカ」で「柔軟」でありたいと思っています。