《川上雅宣堂》
600-8415京都市下京区松原通烏丸東入因幡堂町690/075-351-4479
http://www.kawakamigasendo.jp/
大正末期、釜や鉄瓶を扱う職方兼道具店として、京都柳馬場五条上ルに初代末太郎により「川上道具店」は創業致します。昭和初期、現在の烏丸松原へ店舗を移転、戦時中のあおりを受け、一時休業を余儀なくされますが、二代孝男により戦後「川上雅宣堂」と屋号を改め、茶道具・新古美術店として再び開業致します。その後、裏千家流の月釜、東陽坊保存会(建仁寺)、また鈴声会(真如堂)のお世話役を預かるなど、茶会や学校茶道など、多方面で先生方や関係者の方々の信頼を受け、今日に至ります。日本の心を伝える茶道を、また日本の美術工芸品を後世に伝えるために、お道具からの立場ではありますが、少しでも貢献できればと考えております。
・・・シャッターは閉まっていましたが、入口の立派なカエルを発見しました。そして、
《平等寺「因幡堂」》建立:1003(長保5)年4月8日
600-8415京都市下京区因幡堂町728/075-351-7724
真言宗。因幡堂縁起(重文)によれば、997年(長徳3)橘行平が任を終え帰国の途中、夢告により海中から薬師如来を引き上げ、祭ったのが当寺の起こりという。歴代の天皇も厄年には勅使を派遣し、祈祷をうけたという。建物は1886年(明治19)の再建で、本尊薬師如来像(重文)は幾度もの火災も免れ堂内に安置されている。日本三如来の一つ。毎月8日に午前10:30より薬師護摩祈祷、手作り市を開催。狂言「因幡堂」「鬼瓦」は当山が舞台で、特に★大蔵流と関係が深い。能楽狂言大蔵流の主な五家は、「大蔵家」「山本家」「茂山千五郎家」「茂山忠三郎家」「善竹家」です。
《参考》狂言「鬼瓦」
田舎大名が、京都に長期滞在している。当時としてはおきまりの、所領安堵のための訴訟にやってきたのだ。ようやくのことで將軍の免許状を入手し、帰国できることになるが、これも日ごろ信心している★因幡の薬師如来のおかげと、太郎冠者を連れてお礼参りに出かける。「国許では、かようなことは知らいで、きょうかあすかと待ちかねているであろうぞ」「仰せらるるとおり、今か今かとお待ちかねでござりましょう」うきうきした大名は、国許へもこの薬師如来を勧請しようと思いつき、建物の様式を見覚えておこうとする。そのうちに、ふと屋根を見上げて、「あれはなんじゃ」と問う。★「鬼瓦でござる」との答(いら)えに、大名はなおもしげしげと見入っていたが、どうしたわけか泣き出してしまう。「これはいあかなこと。イヤ申し、こなたは何をそのように嘆かせらるるぞ」「さればそのことじゃ。あの鬼瓦が、だれやらによう似たと思うたれば、国許へ残いておいた、女どもの顔にそのままじゃわい」目のくりくりしたところ、鼻のいかったところ、口が耳の後ろまで「クワッ」と引き裂けたところなど、まるで生き写しだというのである。すっかりシュンとしてしまった大名を、太郎冠者は早く帰ってご対面をと励まし、二人で大笑いとなって幕となる。
・・・なんと「おおらかで」「ほっこり」する狂言ですね、一度観てみたいものです。
《参考》茂山千五郎家「お豆腐狂言」
茂山千五郎家では「お豆腐のような狂言師」という言葉が語り伝えられています。その言葉は、十世正重(二世千作)への悪口に由来しております。正重は、京都の方々に気軽に狂言を楽しんで頂こうと、地蔵盆・結婚式・お祝いの会など色々なところに出向いては、余興に狂言を上演しておりました。室町時代に“武家式楽”と位置づけられて以降、江戸時代の終わりまで「能楽(能と狂言)」は特別階級の文化でありました。明治時代でもまだ、能舞台以外での上演はいけない、他のジャンルの芸能と共演してはいけないなど、保守的な考え方が根強かったころ、タブーを犯して活動する正重に対して、「あいつはどこにでも気軽に出て行く、お豆腐のような奴だ」といわれました。現在、京都のお豆腐といえばブランド品ですが、当時は食卓にのることが一番多いおかずが「豆腐」でした。「茂山の狂言は我々のやっている特別な芸能文化ではなく、どこの家の食卓にも上がる豆腐のような安い奴らや」という意味の悪口を言われたのでした。しかし二世千作は「お豆腐で結構。それ自体高価でも上等でもないが、味つけによって高級な味にもなれば、庶民の味にもなる。お豆腐のようにどんな所でも喜んでいただける狂言を演じればよい。より美味しいお豆腐になることに努力すればよい。」と、その悪口を逆手にとりました。それ以来、私達は家訓としてこれを語り伝えております。その昔、京都では「おかずに困ったら、豆腐にでもしとこか。」と言いました。同じように「余興に困ったら、茂山の狂言にでもしとこか」と、気軽に呼ばれることをむしろ私達は喜びたいと思っています。いつの世も、どなたからも広く愛される、飽きのこない、そして味わい深い。そんな「お豆腐狂言」をめざしております。
《木と根(kitone)》
600-8401京都市下京区燈籠町589-1F1/075-352-2428
作家さんの器や木工製品などの日用道具、そこに喫茶室(カフェ)を併設したお店です。kitone(木と根)は、2005年3月燈籠町の路地裏にある古い倉庫をお借りしてはじまりました、とても小さな店です。それぞれは、いろんな場所からやってきます。器を中心に、木工雑貨や日常の道具類、織物、布小物、青竹細工、あけび籠、山葡萄細工、金物等。是非、実際の道具らをご自身の手にとってご覧下さい。
・・・素敵なカフェ、このレトロな「タテモノ」そのものがアートです。さらに周辺を散策します。
《松永貞徳花咲亭址》
下京区間之町通松原上る西側(花咲大明神前)
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si006.html
松永貞徳(1571~1653)は京都出身の俳人。和歌を細川幽斎(1534~1610)に、連歌を里村紹巴(1524~1602)に学び、和学・歌学を一般の人に教えた。晩年、俳諧の指導者となり,その俳諧を貞門俳諧と称した。六十代半ばで隠居し、この地の花咲亭に移った。この石標は松永貞徳の花咲亭跡を示すものである。
《源語伝説五条辺「夕顔墳」》
600-8077京都市下京区夕顔町堺町通高辻下る
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si010.html
夕顔は『源氏物語』の登場人物で、乳母の「五条なる家」付近の荒れ果てた家に住んでいるところを、光源氏が見い出し、通った女性である。夕顔が家前に咲いていたことからこう呼ばれた。この石標は夕顔伝説の地を示すものである。なお、この石標の建つ町内を★夕顔町という。
《第4帖「夕顔」》
https://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5019.html
光源氏が六条御息所にお忍びで通っていた頃に、家来の惟光の母、大弐の乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)が重病になり「五条なる家」へお見舞いに出かけました。家に着き門が開くのを待っていると、その隣家の荒れ果てた家の壁伝いに咲いていた白い花がふと目に入り、花の名前『夕顔』を聞いて、一枝取ってくるようにと光源氏が侍臣の惟光に言いました。すると、その家の女童が扇を持って現れて、『この扇に花を乗せていくと良いですよ、手で持つには不格好な花ですから』と渡してくれました。その渡された扇の裏に夕顔(頭中将の愛人という境遇)からの上品に書かれた和歌がありました。この和歌に興味を示した光源氏が返歌をします。
●夕顔/心あてに それかとぞ見る白露の 光そへたる 夕顔の花
●光源氏/寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔
《参考》「夕顔ノ塚 」/『都名所圖会』より
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_099f.html
夕顔塚は五条あたり 今の堺町松原の北にあり 源氏物語に出る夕がほの前此所に住みたるよし いひ伝へり 新古今 夕がほをよめる 白露のなさけをきけることのはや ほのぼの見へし夕顔の花 前太政大臣(藤原頼実)
《参考》ユウガオ(夕顔)
ウリ科の植物で、原産は北アフリカの熱帯原産のつる性一年草。日本には平安時代に中国から伝わったと言われています。茎は5~10mになり、巻ひげのつるは他物に絡み伸びます。葉はハート形です。夏の日没前後に開いた白い花が翌日の午前中にしぼむ事から、ユウガオと命名されました。アサガオ・ヒルガオ・ヨルガオはヒルガオ科の植物ですが、ユウガオは★ウリ科の植物であり、違う属性の植物になります。夜の8~9時頃に開花するので、闇夜に浮かび上がる夕顔の白い花びらはとても幻想的に見える事でしょう。また、大きな果実を実らせます。名前からでは想像がつきませんがヒョウタンと近い種になります。また果実は大型で長円筒形と短洋梨形をしており、かんぴょうや置物などに利用されます。
・・・「夕顔」があるのですから「朝顔」もあるだろうと調べますと、
《朝顔の墳》
600-8063京都市下京区松原中之町493/075-352-9155
松原通麩屋町西入る南側の『まきの整骨院』の奥にあるそうですが、もちろん非公開です。
《第20帖「朝顔」》
https://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5035.html
巻名は光源氏と朝顔の歌「見しおりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん」および「秋はてて露のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔」による。朝顔が★ムクゲ(槿)の古称でもあることから、まれに「槿(あさがお)」と表記されることがある。どの植物を「あさがお」と呼んだのかについては、時代によって異なるようで諸説あります。万葉の時代には★「キキョウ」のことをさしていたのが、日本にムクゲが渡来した頃から、朝咲く美しい「ムクゲ」の花をさすようになり、そしてさらに平安時代初期に、現在の「アサガオ」をさすようになったというのが通説のようです。
・・・「時代考証」をしっかりやらないと、とんだ誤解が生まれてしまいますね。