《参考》「京(みやこ)の橋しるべ」
http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000149842.html
京都市では、災害時における都市機能の確保を図るとともに、平常時においても市民生活を守るため、平成23年12月に策定した「いのちを守る橋りょう健全化プログラム」に基づいた耐震補強や老朽化修繕を計画的に進めています。この取組状況を市民の皆様に分かりやすく情報提供するとともに、京都市内にある歴史的な価値のある橋を紹介し、市民の日常生活を支える「橋」を身近なものとして親しんでいただくために、「京(みやこ)の橋しるべ」を作成しました。今後、定期的に発行し情報発信を行っていきます
《四条大橋》
八坂神社「社家記録」によれば、四条大橋は1142年(永治2年)、勧進により架けられたという。平安時代末期は行政の機能が低下し、朝廷が造橋所を設けて賦課により架設することが少なくなっていたためである[1]。以後、この橋は度々流失して架け直された。発見されている最古の記録は1228年(安貞2年)で、このとき五条大橋も流されている。1577年(天正5年)の架け替え以降、橋が流されたのは、1676年(延宝4年)、1728年(享保13年)、1778年(安永7年)、1786年(天明6年)、1802年(享和2年)、1846年(弘化3年)、1850年(嘉永3年)、1852年(嘉永5年)である[2]。また、洪水だけでなく延元の乱(建武の乱)でも破壊された。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、鴨川の東にある六波羅の交通のため幅の広い橋が架けられていた。近世には三条大橋や五条大橋が街道の起点(終点)である官橋であったのに対し、四条大橋は八坂神社への参道の民橋で幕府の管理下になかったことから、これらに比べると小さな橋だった。
《参考》鴨川・賀茂川、高瀬川の橋
http://www.djq.jp/river_liblary/kyoto_river_kamo.html
・・・その南側にあるのが、
《団栗橋(団栗通)》
団栗橋の東詰に団栗の大木があったのが、名の由来という。西岸の西石垣(さいせき)通・木屋町通と東岸の宮川町を結び、東は建仁寺の北の★団栗通に通じる。1709年(宝永6)京大絵図に所在が記され、天明8(1788)年正月の「天明の大火」は火元が団栗の辻子の家の出火で二日間にわたり燃え続けた大火事で、「団栗焼け」「団栗火事」「申年の大火」とも言われたそうです。京都で発生した火災の中でも史上最大規模といわれ、火は宮川筋に沿って南下して東の強風のために鴨川を越え洛中へも飛び火して、大災害をもたらしたそうです。この火災で3万7000軒の家が焼け6万5000世帯が罹災。御所や二条城・京都所司代、東西両本願寺をはじめ240の寺社も焼け京都市街地の8割が灰燼となったそうで、この火事は応仁の乱の戦火による焼失を上回ったようです。
・・・さらにその南側に架かっているのが、「松原橋」です。
《松原橋(松原通)》
東は清水寺門前から、西は佐井西通の一筋西まで。東の端、清水寺門前から東大路通までは清水道ともよばれる。寺町通から西は平安京の五条大路にあたる。松並木の綺麗な通から「五条松原通」と言われるようになり、後に「松原通」の名前だけが残った。豊臣秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから二筋南に五条通の名前が移った。つまり、★牛若丸と弁慶が出会ったと言われる「五条の橋」は、松原通に架かる橋が正当であり、現在五条大橋西詰におかれている2人の像は二筋南におかれていることになる。なお現在の松原橋は1935年の鴨川水害で倒壊流失後に架け替えられたものである。牛若丸と弁慶の出会ったとされる橋も、鴨川であるとする説の他、鴨川には橋は架かっておらず、沿道の五條天神社の近く、西洞院通に沿って流れていた川に架かっていた橋であるとする説もある。現在は多くの区間が一方通行の細い道で、東大路以東が西行き・東大路-木屋町間が東行き・木屋町-河原町は拡幅され両方通行、河原町-烏丸間が東行き一方通行、烏丸-大宮通間が西行きの一方通行、(佐井通-西大路通間を除く)大宮以西は拡幅され両方通行と車で松原通を通り抜けられない。堀川通をはさんで商店街が続く。近年、通りを盛り上げるイベントが開催されている。昔は祇園祭の山鉾巡行も行われていたりする歴史のある通りである。八坂神社と伏見稲荷大社の祭りの境界線がこの辺りである。
《株式会社「京都西川」》
600-8034京都市下京区河原町通松原上る幸竹町385/075-351-1351
https://www.kyoto-nishikawa.co.jp/
京都西川は、1566年に近江の国(現在の滋賀県近江八幡市)において創業しました。ちょうど桶狭間の戦いから6年後、織田信長が天下統一を目指していた頃でした。その頃の寝具とは一般的に「寝むしろ」「寝ござ」であって、「ふとん」が民衆に広まるのは明治時代に入ってからのことでした。現在はスタイルも多様化し、その機能、形態も科学的な面からつくられるようになりました。
—ふとん着て 寝たる姿や 東山—
江戸時代の俳人★服部嵐雪が詠んだ俳句のように、女性がゆったり寝ているような優雅で柔和な東山の山容を、私たちは朝に夕に眺めることができます。京都には長い歴史と伝統の中で培ってきた文化や創作物が数多くあります。国内外で次々と作り出される目新しい工業製品と比較しても、京都の創作物が存在感を保ち続ける理由は、歴史と文化が築き上げた京都流の様式美がベースにあるからでしょう。そしてこの様式美こそが日本人のこころにゆったりと横たわる美意識だと思います。これらの文化や創作物も幾度かの変化を遂げます。小さな変化もあれば、革新的な大掛かりな変革の場合もあります。いわば伝統を継承しながら革新を続け、京都人の厳しい審美眼をクリアしながら生き残り続ける創作物こそ「ほんまもん」の京都ブランドを冠することができるのでしょう。そしてその「ほんまもん」を国内や海外へ京都文化として発信することこそが「京都発」です。 明治維新後、明治・大正・昭和・平成と時代が足早に変遷し、僅か150年の間に市民の生活スタイルが大きく様変わりました。近代的なふとんもこの変化の中から産み出された製品です。京都発—眠りの文化。いつの時代もお客様にゆったりとした安らぎを与える「ほんまもんのふとん」をつくり続けたいと思います。
《NEWS1》2017.11.15京都新聞より
人?絵画?花柄毛布が独創アートに
花模様の毛布を用いたアート展が、京都市下京区で開催されている。毛布で覆った発泡スチロール製の人形を記念撮影をするように並べたほか、いすや背景の壁も全て毛布で覆われており、会場は独特の雰囲気に包まれている。国内の毛布製造業者でつくる日本毛布工業組合が今年から11月20日を「毛布の日」と定めたことなどを記念したアート展で、毛布アーティスト★江頭誠さんの作品「Suit(スーツ)」を展示している。作品にはアクリル毛布が100枚以上使われている。柄の部分を切り取ったり縫い合わせたりして、17体の人形やいす、花瓶、花、額入りの絵画のように仕立てた。学校や会社での記念写真をイメージしていて、観覧者も毛布でできた上着とネクタイを身に付けて作品の一部になることが可能。寝装寝具製造卸の京都西川が企画。同社本社で開催されており、「鑑賞するだけでなく、作品の中に入り込む楽しさも満喫して」としている。30日までで土日祝日は休み。無料。
【江頭誠】(1986~)
https://makotoegashira.wixsite.com/artwork
1986年三重県生まれ。2011年多摩美術大学美術学部彫刻学科卒業。戦後の日本で独自に普及してきた花柄の毛布を主な作品素材として用いて、大型の立体作品、空間性を活かしたインスタレーション作品を発表する。2015「第18回岡本太郎現代芸術賞展」特別賞受賞2016「SICF17」グランプリ受賞。
《NEWS2》2018.7.10京都新聞より
寝装寝具の西川3社が統合協議/昭和初期に枝分かれ
寝装寝具製造卸大手の西川リビング(大阪市)、京都西川(京都市下京区)、西川産業(東京都)が、来年2月1日の経営統合に向けて協議していることが9日、分かった。昭和期に同じ企業から枝分かれした3社が再結集し、売上高700億円超の企業グループが誕生する見込みだ。3社はいずれも、1566年に初代西川仁右衛門が近江国(現在の滋賀県)で創業した蚊帳や生活用品の販売業を起源に持つ。昭和初期に、それぞれ別法人になった。経営統合は、低成長経済や競争激化などで事業環境が厳しさを増す中、各社の資源を集めて体制を強化する狙いと見られる。統合の比率などの具体的な条件は今後詰める。本店所在地は東京都中央区になる予定。西川産業、西川リビングの2017年1月期、京都西川の同年8月期の売上高の合計は約741億円になる。
《株式会社「枡儀」》
600-8047京都市下京区松原通寺町西入石不動之町695
枡儀ラクーオビル/075-341-0245
1713年、初代小浜屋吉兵衛により京都本能寺門前の地で創業致しました。以来、多くの方々にご愛顧を頂きお陰様で2013年に創業300周年という大きな節目の年を迎える事ができました。枡儀命名の由来は、江戸時代まで遡ります。創業者小浜屋吉兵衛が京の都に上京して間もないころ、享保年間に発生した享保の大飢饉に遭遇しました。人々は喰うや喰えぬの厳しい時代、そんな最中やっとの思いで米升一合の米を入手することができたのですが、吉兵衛はそれを独り占めするのではなく共に働く仲間と分け合ったと語り継がれております。どんな苦しい時でも共に苦楽を分かち合う、そんな「公助の精神」が枡儀の原点です。この話を引用して5代目儀兵衛が屋号を小浜屋から米升の「枡」と義理人情の「儀」の字を引用して「枡儀」に改名したと言われております。数多の困難の時代を乗り越え、その歴史と伝統を受け継ぎ今日まで事業を継続してくることができましたのは、当社がご縁を頂いた多くの皆様からのご愛顧の賜物であります。そのことに対する感謝の気持ちを忘れることなく、そしてその恩恵に報いるためにも当社を育んでくれた地域社会の発展に寄与し、また代々受け継がれてきた良き伝統を重んじ、事業を通じて次の100年も社会に貢献し続けられる企業であり続けることが我々の使命であると考えております。
・・・老舗のオンパレードです。
《南岩倉「明王院」不動寺》(松原不動)
600-8047京都市下京区松原通麩屋町東入る石不動之町
青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で、俗に「松原不動」という。持統天皇5年(691)に、道観大徳が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の「石仏不動明王」を安置してから現宗に改まったといわれている。平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の4つの磐座(石蔵)に経巻を収めたが、明王院はその四岩倉の一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。天暦年間(947~957)、賀茂川氾濫に遭い、堂舎はことごとく流没し、一時比叡山の苔苑法師によって再興されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。 天正年間(1573~1592)、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王を得て、聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので、霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し、これを再び奉安したという。太平洋戦争末期京都にも空襲が来ると言われて、本尊を本堂下の磐座に避難させた。それから約70年やっと元の厨子に安置し、2012年11月24・5日★牛若丸・弁慶の旧「五条大路」活性化の一環としてご開帳を盛大に執行した。
《タワシ耳かき 》
https://nelture.com/lp/mimikaki/
しなやかで弾力性があるが当たりは柔らかなしゅろ繊維のタワシは、毛先を触ってみるととても気持ち良い。そのしゅろ繊維と人工毛をブレンドして耳かき用に小さく作っているのだから、とても気持ち良く耳掃除ができそうだ。タワシは、体を洗える「やさしいたわし」を作っている老舗の高田耕造商店の開発によるもの。
・・・レトロなパッケージなので昔のアイデア商品かと思いきや、最近開発されたものでした。
《HOSHI COUPE Kyoto》
600-8401 京都市下京区松原通東洞院東入燈籠町601-3/075-351-2093
http://hoshicoupe.com/hoshicoupekyoto/hoshicoupekyoto.html
ホシクープは本店をNYに構え、世界に類のないアーティスティックなヘアーサロンとして、お店はそれぞれの国に合うデザインで店内をクリエイトしています。京都店は古い町家を使い、防空壕も残されており、その防空壕はNYのマンハッタンが凝縮されたようなアートスペースとなっています。最近の店内は、防空壕から飛び出して来たオブジェがお客様の横に佇んでいます。NYのメトロカード100枚を使ったヘアスタイルからなる作品が圧巻です。京都店のスタッフ達は海外での経験を持ったスタイリスト達で、英語はもちろん、美容技術も比類なきものを持っています。スタッフ一同、 皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
★防空壕ギャラリー
http://hoshicoupe.com/bokugogallery/bokugogallerymainpg001.html
ホシクープKyoto店内の地下スペースにあります。以前は文字通り、防空壕として使われていました。現在はギャラリーとなっていますが、地震などが起こればまた防空壕として使われることになるかもしれません。アートといつも一緒に居たい、という考えからギャラリーはつくられました。スペースは限られていますが、特定のジャンル、表現方法には捉われず展示していきたいと考えています。海外からのアーティストもどんどんピックアップしていきたいです。
・・・「松原通」を歩いてきたのは、この「防空壕ギャラリー」を見たかったからなのですが、ヘアーサロンにお客さんがおられましたので、入るのをためらいました。周辺を回って時間かせぎをしましたが、結局あきらめました。事前に電話をして、再訪問したいと思います。