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《NEWS》2012.2.8共同通信より 

仁徳天皇陵で「正辰祭」宮内庁が初めて取材許可 1613回目の命日 

世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定している堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)で8日、仁徳天皇の没後1613回目の命日祭「正辰祭」が行われた。皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。全国の天皇陵や陵墓参考地など約600カ所でそれぞれ年に1度行われているが、国民の目に触れる機会はほとんどなかった。宮内庁は今回、共同通信に対し、メディアとして初めて取材と撮影を許可した。堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録をめざし、同庁に陵墓の情報公開を望む声が高まる中、天皇陵での祭祀の実態を知る貴重な機会として関心を集めそうだ。仁徳天皇陵は3重の堀と堤に囲まれており、正辰祭は一般の人が立ち入れない最も内側の堤上にある拝所で行われた。午前10時、同庁書陵部古市陵墓監区事務所(大阪府★羽曳野市)の職員や地元関係者ら12人が手を清めた後、堀にある橋を渡り、巨大な墳丘の前方部を臨む拝所へ。鳥居の前に設けられた台に供物の米、酒、海の幸のするめ、山の幸のリンゴとミカンと大根、塩、水を載せた五つの三方を職員が一つ一つ丁寧にささげ、参列者全員が拝礼。職員らは終始無言で、静寂が包む中、儀式は約20分で終了した。同庁によると、供物費は皇室の私的経費である内廷費から支出される。古代の天皇の命日は文献の没年月日を当時の太陰太陽暦から現在の太陽暦に換算。仁徳天皇は2月8日に当たるという。学界には仁徳天皇を古代中国の史書「宋書」に記された「倭の五王」の1人とみる説や、父の応神天皇と同一人物とする説があり、墳丘の年代や被葬者像をめぐって議論が続いている。 

 

《参考》2010.11.27日経スタイルより 

宮内庁調査官が明かす「896の聖域」天皇陵の真実 

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO18843180V21C10A1000000

日本には一般の立ち入りが許されない「聖域」が896ある。歴代天皇など皇室の祖先の墓として、宮内庁が管理する陵墓だ。大仙古墳(仁徳天皇陵、大阪府)をはじめ巨大古墳の多くが陵墓となっており、文化財保護法の適用外とされて公開や調査が厳しく制限されている。だが先日話題を集めた牽牛子塚古墳(奈良県)などの発掘成果や、百舌鳥・古市古墳群(大阪府)の世界遺産候補の暫定リスト入りを受け、「本当の被葬者は違うのでは」「史跡に指定し、文化財として取り扱うべきだ」との声は高まる一方。宮内庁はどう対応するのか、聖域の守り人である宮内庁の福尾正彦・陵墓調査官に現状と今後を聞いた。 

「戦前は背中に羽根をつけ、カラスの格好をしたそうです。現在は立ち入る前に拝礼はしますが、儀式や仮装まではしません。ただ心の中では同様のことを行っています」「陵墓は皇室の祖先のお墓です。今も祭祀が執り行われています。静安と尊厳を保つのが本義です。文化財としての側面もあり、研究者には学術的な目的による立ち入りや、保全・修理工事に伴う事前調査(発掘)の現場見学を認めています。調査成果は速やかに公表し、出土遺物は貸し出しもしています」「考古学や土木など外部の専門家で構成する陵墓管理委員会を庁内に設け、保全や修理について詳細なアドバイスを受けているほか、文化財保護法が定める手続きに沿って管理しています。史跡の指定がなくても、保全と管理は宮内庁が十分役目を果たしています」(以下略) 

★歴代天皇陵一覧/宮内庁 

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/

 

 

 

《古市陵墓監区事務所》 

583-0857羽曳野市誉田6-11-3/072-955-4403 

陵墓監区事務所は全国に5か所あって、5事務所が全国の陵墓(全部で★896)を管理しています。ここは大阪府を中心に和歌山県・兵庫県の淡路島・奈良県の一部及び四国各県の1府7県に所在する陵墓等を管理しています。 

第16代仁徳天皇陵はじめ歴代天皇陵17陵/皇后その他歴代外陵3陵/陵に準ずる分骨所・火葬塚3箇所/皇太子以下の皇族の墓9箇所/髪歯爪塔・その他26箇所/陵墓参考地10箇所 

 

《NEWS》2011.8.13スポニチより 

宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が所蔵する獣帯鏡など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。5点が米国に渡った経緯は不明だったが、同館に勤務し、仏像などの東洋美術を収集していた思想家★岡倉天心が1906年に京都、奈良へ出張した際、計1450円(米価比で現在の約580万円)で一括購入したことも判明。大山古墳では1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑などを描いた図面が残る。学界には同館所蔵品を「この時流出した」とする説と、「墳丘や甲冑と年代が合わない」との否定説があり、出土地をめぐる議論が再燃しそうだ。新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。書陵部の徳田誠志首席研究官が2008年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔張り柄頭(つかがしら)、馬具の一種の三環鈴(さんかんれい)と馬鐸(ばたく)2点の計5点を調べた。国内外の出土例から獣帯鏡は5世紀後半~6世紀前半、他は6世紀前半と判断。大山古墳は墳丘の須恵器から5世紀半ばとの説が有力で、「5点をセットで埋納したなら、その古墳の築造は6世紀前半。(大山古墳とは)年代が異なる可能性が高い」と結論づけた。また岡倉が作った購入品リストなどに5点は「古代の墓で出土した青銅製品」とあるだけで、大山古墳を示す記載は一切ないことも判明。徳田首席研究官は「日本では明治時代末から『仁徳陵出土』とのうわさがあったが、遺物や同館の書類に関連をうかがわせる点はなかった」と話した。同館に購入先の記録はなく、売り手は分かっていない。

 

 

 

◆《ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)》◆ 

https://www.mfa.org/

★岡倉天心は1904年にボストン美術館へ入り、1910年には東洋部長となった。ボストン美術館には快慶作・弥勒菩薩立像など、天心のコレクションも入っている。★富田幸次郎(1890~1976)は天心の弟子で、10代の時から半世紀以上ボストン美術館に在職し、1931年から1962年までは東洋部長の地位にあって、日米の文化交流に貢献した。日本の絵巻物の代表作である「吉備大臣入唐絵巻」は、1932年、富田を介してボストン美術館に入った。当時の世相下で、富田は日本の貴重な美術品をアメリカに売った「国賊」とののしられた。実はこの絵巻はボストン美術館に入る数年前から日本国内で売りに出ていたものだったが、不況下の日本で買い手がつかないため、ボストン美術館が購入したというのが真相だった。 

 

《参考》「名古屋ボストン美術館」 

460-0023愛知県名古屋市中区金山町1-1-1 

http://www.nagoya-boston.or.jp/index.html

アメリカのボストン美術館の姉妹館。名古屋ボストン美術館自身は資料の収集・保有はせず、展示資料はすべてボストン美術館から借り受けるシステムとなっていた。1999年(平成11年)美術館開館。金山駅前の金山南ビルの2フロアを使用している。開館から2004年5月21日までは上のフロアを古代オリエント・古代ギリシア・古代ローマ美術の常設展(「古代地中海世界の美術」)に使用していた。その後は廃止し、企画展用のスペース「オープンギャラリー」とした。2018年10月8日をもって閉館した。その後の施設利用は名古屋市が公募することを検討している。 

 

《NEWS》2018.9.13朝日新聞デジタルより 

10月8日に閉館する名古屋ボストン美術館(名古屋市中区)の後継施設の公募について、河村たかし名古屋市長は「まだ公式なコンペはしていない」と明らかにした。市は7月末にも公募を始めると6月市議会定例会で表明していた。募集条件の調整に時間を要し、遅れているという。同館は窓がなく、特殊な空調を使うなど展示専用の施設として設計されている。飲食店やイベント会場に使うには数十億円の改修費が必要で、市は展示施設のまま運用する考えだ。しかし、公募に先立つ他の美術館や博物館などへの意向調査では、利用に前向きな声は多くなかった。そのため賃料を現行より下げるなど、条件の詰めを急いでいるという。同館は1999年開館。金山総合駅前で市が所有する複合ビルにあり、米ボストン美術館から借りた作品を展示してきたが、資金難のため閉館する。市は年内に後継施設を決め、2019年4月にもオープンしたい考えだ。担当者は「事業者にとって魅力的な条件を固め、できるだけ早く公募を始めたい」と話している。

 

 

・・・ミュージアム(ハコモノ)経営・運営は、本当に難しいですね。

 

 

【岡倉天心】(1863~1913) 

319-1703茨城県北茨城市大津町椿2083/0293-46-5311 

http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/index.htm

★「天心記念五浦美術館」は、岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として平成9年11月8日に開館しました。当館のある北茨城市は、県都・水戸から約70km、首都・東京から約160km、福島県との県境に位置しています。五浦海岸の大小の入江と美しい松林は「日本の渚100選」に、海岸の波音は「日本の音風景100選」に選ばれている景勝地です。またここは、明治39年に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍した歴史的な地です。その近くには、今でも当時をほうふつする★六角堂や日本美術院跡地をはじめとする史跡が点在しており、散策を楽しむことができます。 

岡倉天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボ★ストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『TheBookofTea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。

 

 

《参考》映画「天心」 

http://eiga-tenshin.com/

明治初期。★廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、仏寺や伝統美術が失われようとするなか、“アーネスト・フェノロサと岡倉天心”は「日本の美」を救おうと奔走していた。その後天心は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の校長に就任。横山大観、菱田春草、下村観山ら若き才能を育成し、美術界のエリートコースを歩んでいたが、西洋画派との対立により辞任。日本美術院を立ち上げるも、天心が提唱し大観、春草らが編み出した新画法が「朦朧体」と揶揄され、次第に苦境へと追い込まれる。新天地を求めた天心は、茨城県五浦に「六角堂」を建て、日本美術院を移転し、新たな日本画の創造を目指し、壮絶なまでの創作活動に没頭していくのであったが…。100年前に「クールジャパン」を創った男たちの、魂の物語がここに誕生した。

 

 

・・・最近「映画」行ってないので、ぜひ観たいです。