廃仏毀釈 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「カンテレ」つながりで、 

 

《NEWS》2018.10.23カンテレニュースより 

『薬の神様』が150年ぶりに”自宅”へ/芦屋の薬屋さんで発見される 

大阪の道修町といえば、製薬会社が集まる「薬の町」ですが、そこで長年★行方不明になっていた「医学と薬の神様」の像が150年ぶりにふるさとに帰りました。大阪・道修町で神農さんの愛称で親しまれる少彦名神社。23日、中国の医薬の神様である「神農」の像に御霊を入れる儀式が行われ、少彦名命と神農の2つのご神体が150年ぶりにそろいました。長年2体が離れ離れになっていた原因、それは明治の「廃仏毀釈」です。政府が神仏分離運動を進めた際に『異国の神を祀るのはまかりならぬ』と今の少彦名神社に祀られていた『神農像』も取り払われ、その後、行方不明になったと言われていました。しかし…。 

【記者リポート】 

「医薬の神様は、芦屋の閑静な住宅街にあるこちらの薬屋で大切に保管されていたということです」神農像は『廃仏毀釈』の直前に、市内の仏具店に修理に出されていて、この85年は、芦屋市にある聖樹薬品でひっそりと祀られていたのです。今回、製薬会社が資料を整理したことがきっかけで芦屋にあることがわかり、道修町に戻ることが決まりました。 

【聖樹薬品・吉澤征子さん】「いつかは神農さん(少彦名神社)に返さないといけないということは(親戚たちから)伝え聞いていた。そういうものだと分かっていた」 

Q:気になっていたところでちょうど(製薬会社が)来た? 

【聖樹薬品・吉澤征子さん】「以心伝心かなって思った」 

【少彦名神社別所賢一宮司】「先の大戦もありましたし、阪神淡路大震災もありましたし、この世にはないのではないかと思っていた。大切に扱われていたというのは本当にありがたい」神農像は10月23日から、少彦名神社の「準ご神体」となり、少彦名命とともに薬の町の発展を見守ります。

 

 

《聖樹薬品》 

659-0083 兵庫県芦屋市西山町11-7/0797-22-3096 

http://ashiya-sunmall.com/shop/seijyu/

 

《参考》「廃仏毀釈」 

大政奉還後に成立した新政府によって1868年4月5日に発せられた太政官布告「神仏分離令」「神仏判然令」および1870年2月3日に出された詔書「大教宣布」などの政策を★拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などをさす。日本政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年2月23日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られたものの、それを除けば、全体としては大きな反抗もなく、わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した。大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、明治6年(1873年)にほとんどが壊された。明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。 

 

・・・悲喜こもごも。 

 

《少彦名神社(神農さん)》 

541-0045大阪市中央区道修町2-1-8/06-6231-6958 

http://www.sinnosan.jp/index.html

2018神農祭は、11月22日(木)~11月23日(祝)に行われます。無病息災のお守り、張子の虎をつけた笹で有名。大阪年中行事の一つで、晩秋の大阪市内最後の祭りとして別名「止め祭り」とよばれ、健康を祈願する。

 

 

・・・「神農祭」の準備がすすむ道修町ですが、その前段としての「船場博覧会」開催中です。 

 

《船場博覧会 2018》 

11月17日(土)~23日(木・祝) 

http://semba-hope.main.jp/sembaexpo/index.html

船場のまちで活動する皆さんが、毎年神農祭の時期に合わせて開催しているイベントです。企画展示やセミナー、まち歩きツアーやコンサート等のプログラムで、船場の魅力をお伝えします。2006年(平成18)「船場建築祭」(大阪市立大学都市研究プラザ主催)に始まり、2008年(平成20)「まちのコモンズ」(同プラザと高麗橋2丁目振興町会主催)に引き継がれ、2011年(平成23)からは「船場博覧会」として現在の形で開催されています。

 

 

・・・まずは、ギャラリー巡りです。

 

《ギャラリー谷崎》 

541-0041大阪市中央区北浜3-2-5/06-6227-1610 

http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/02gal.pak/03gal-tikamiti/02kikaku-gal/61-tanizaki01.html

★「和気史郎」没後30年追悼展 

【和気史郎】(1925~1988) 

1925栃木県に生まれる1944栃木師範学校本科卒業 

1952東京芸術大学油絵科(安井曽太郎教室)卒業 

1956関西独立展一席1957独立賞受賞 

http://www.dokuritsuten.com/shoushi/1957.html

1958関西総合展油絵部門一席。朝日新人賞招待出品 

1959★独立美術協会会員に推挙される 

http://www.dokuritsuten.com/shoushi/1959.html

1968日本洋画壇展招待出品1971新鋭選抜展出品 

1973安井賞候補展出品1976ヨーロッパ各地を旅行 

1977NHK・TV文化シリーズ「面(おもて)」に出演。写真家・入江泰吉と写描展 

1979広島・福屋にて個展 

1980名古屋・松坂屋にて個展。「歩みと展望-和気史郎展」京都、朝日会館画廊・蔵丘洞画廊 

1981東京銀座・松屋にて個展 

1982大阪府立現代美術センターで自選展。MBS・TV真珠の小箱「興福寺・薪能」に出演。大阪・なんば高島屋にて個展。福岡・岩田屋にて個展。中国(北京・桂林)旅行 

1983銀座・松屋にて個展1984銀座・和光にて個展 

1987★和気史郎記念館オープン 

1988晩年は独立美術協会の審査員等も兼業。この年病没。

 

《和気記念館》 

329-2221栃木県塩谷郡塩谷町玉生648/0287-45-1010 

http://www.boubou.jp/

塩谷町玉生宿の古い商家の石蔵が美術館。館内に足を踏み入れると、そこは幽玄の世界。東京美術学校(現東京芸術大学)油絵科で安井曽太郎に学んだ和気史郎。奈良・京都の雅にあこがれ大阪にアトリエを構え 1988年4月、62才で亡くなる迄苔寺や能の世界を描きつづけた。梅原猛氏、瀬戸内寂聴氏は和気を★『狂気と正気の間の芸術家』と賛辞した。大谷石造りの1号館・2号館には初期の抽象から円熟期の風景画・パステル画・裸婦画など70点が展示されている。 

《独立美術協会》 

http://www.dokuritsuten.com/index.html

里見勝蔵、児島善三郎、林重義、林武、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、伊藤廉、清水登之、高畠達四郎、三岸好太郎、福澤一郎、以上の会員を以て、1930年11月1日「独立美術協会」を創立した。

 

 

《参考》「鉄鶏会」(1958~1968) 

メンバー:古田安1958−、秦森康屯1958−、岸正豊1958−、中井克己1958−、吉岡一1958−、和気史郎1958−、大久保三一1958−、中井淳二他。 

http://shinobusakagami.com/art/%E9%89%84%E9%B6%8F%E4%BC%9A/1041/

冬はてっちり、夏は鶏を一匹つぶして食べよう、と言って名付けられた鉄鶏会は、独立の作家で中華料理チェーン眠眠オーナーである古田安を中心に、★関西独立の若手作家たちが集い、1958年に結成された前衛美術グループ。「独立展に出品している関西在住の一般出品者の親睦が目的であるべき関独クラブが一部の会員の権威主義で運営されているということに対する反撥」(美術ジャーナルNo.7 1960年4月1日発行)から、抽象表現を模索する7人の作家古田安、秦森康屯、岸正豊、中井克己、吉岡一、★和気史郎、大久保三一が初期メンバーとして1958年6月に旗揚げした。アンフォルメル絵画を志向する前衛グループとして評論家の今泉篤夫、井島勉らがバックアップ。「主流は非具象。真正面からの取り組みぶりであった」(京都市美術館ニュース1958年No.22)。その展観は一人一人が20点近くの大型作品を展示する豪快さで、当時の抽象表現を牽引する存在として大きく取り上げられた。「同じ鍋をつつくように展示したい」(古田安)というように、気の合う仲間同志で語り合い、展覧会をする鉄鶏会は、古田安を中心としたサロン的な存在であった。第4回展からは前衛美術を志向するメンバー以外の作家たちも鉄鶏会展に出品。1965年頃よりメンバーたちの海外での発表が増え、オリジナルメンバーのほとんどが海外に制作の場を移した1968年頃に★空中瓦解。

 

 

・・・和気さんの人生、かなり悲喜こもごも(狂気と正気の間の芸術家)だったようです。