やしきたかじん | すくらんぶるアートヴィレッジ

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★平成30 年度文化庁芸術祭参加作品「カンテレ開局60周年特別番組」 

《なめとんか「やしきたかじん」誕生物語》 

2018年11月20日(火)午後7:00~8:59(関西ローカル) 

https://www.ktv.jp/nametonka/

出演:駿河太郎、中村ゆり、大東駿介、山口智充、西村和彦、石田明(NON STYLE )、桂ざこば、オール巨人、大平サブロー、秋野暢子、トミーズ健、遙洋子、木本武宏( TKO )、月亭八光、三船美佳、村川絵梨、団長安田(安田大サーカス)、岡山祐児(オーケイ)他。 

https://www.ktv.jp/kanteletimes/detail.html?pageid=607e867ea41644a688b8717edc07924e

 

 

《NEWS》2018.11.19朝日新聞デジタルより 

「やっぱ好きやねん」たかじんの下積み時代ドラマに 

「やっぱ好きやねん」などのヒット曲で知られ、「関西の視聴率男」と呼ばれた故・やしきたかじん。その歌手としての下積み時代を描いたスペシャルドラマ「なめとんか やしきたかじん誕生物語」が、20日午後7時から関西テレビで放送される。10代から亡くなるまでを、40歳の駿河太郎が1人で演じ分ける。父の笑福亭鶴瓶はたかじんと交流があり、今回のドラマでは2人の友情も描かれる。駿河は、病に侵された晩年の姿に近づこうと、8キロ減量して撮影に挑んだという。駿河は「関西でたかじんさんを演じるのは、楽しみな半面、かなりのプレッシャー」とこぼしていた。自身も20代の頃、バンドマンとして音楽の道を志した過去がある。「たかじんさんの人生だけど、半分、自分のことのよう。(売れない時期の)悔しい気持ちはよく分かる」と語った。劇中では「東京」「ゆめいらんかね」など約15曲を披露し、親友役の大東駿介から「(カバー曲の)CDを出したらいいのに」と言われる出来栄えとなった。脚本は本人の著書や当時を知る人への取材を元に練り上げ、売れない若手時代に焦点をあてている。さらに複数の実在の人物を重ね合わせたキャラクターを創作するなど、親しみやすいフィクションに仕上げた。制作スタッフの多くが、番組「たかじん胸いっぱい」などを通して本人と親交があり、思い入れもひとしおだ。木村弥寿彦プロデューサーは、爪をかむクセやたばこの吸い方などたかじんさんの生前の姿を思いだし、演出に生かした。「豪快なイメージが強いけれど、人に優しく、きちょうめんなところもある人だった。人々に愛されるたかじんさんが、どうやって誕生したのかを伝えたい」 

 

 

【家鋪隆仁】やしきたかじん(1949~2014) 

大阪市立成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した「コーヒーインタイム」が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院大学経済学部に進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌いを克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移った後、東京都東村山市に数カ月住む。その後、京都に戻って龍谷大学経済学部へ入学するも中退。同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行うようになる。当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。

 

 

1971年に京都レコードから『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的且つ退廃的、「現在の日本国において、娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。1973年5月15日には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。1974年に東京・二子玉川に移住して地下鉄工事のアルバイトなどをしながら生活するが1年ほどで再び京都に戻る。その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。1977年に宝塚歌劇団史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、同歌劇団が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時同歌劇団の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている。さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。また、この時の経験がトラウマとなり、その後テレビドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる。これを機に猪俣とは親しくなり、コマーシャルソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになる。1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「第2回大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分程ある長い歌でグランプリを獲得。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。(以下略)

 

 

・・・とにもかくにも「たかじん」は、「悲喜こもごも」という表現がピッタリの人生だったように思います。ということで、テレビを観る前に墓参りしてきました。 

 

《法音寺》 

543-0071大阪市天王寺区生玉町6-12/06-6771-8176 

http://blog.livedoor.jp/baseballstats-syuppan/archives/32962817.html

慶長17(1612)年3月創建。昭和20(1945)年3月14日大阪大空襲により焼失。戦後再建された。画家★上田公長の墓所である。 

 

【上田公長】天明8(1788)年~嘉永3(1850)年 

大坂の画家。船場の木綿問屋・六代目阿波屋忠次郎の長男として生まれたと言われるが、元稲荷座大夫某の子という異伝もある。四条派の絵師・松村呉春に師事、後に中井藍江の門人となってして一家を成した。一説には、呉春の門に入って松村景文に画を学び、長山孔寅、松本観山、中川山長に師事したともいう。紀州徳川家藩主・徳川斉順に召されて御用絵師となり、上田姓と陰葵の紋を拝領。更に十二代将軍・徳川家慶の前で御前揮毫をしたともいう。当時板行された人名録や絵師番付には、必ずといっていい程名が見られ、近世の大阪画壇を語る上で欠かせない人物の一人である。文政(1818年‐1830年)の頃には安堂寺町に住んでおり、後に天保(1830年‐1844年)、弘化(1844年‐1848年)頃、南久太郎町に移り、嘉永(1848年‐1854年)頃、道修町に、そして安政期には古手町に居住していた。主として地誌本などの挿絵を描いており、略画の絵手本も残している。代表作として、『公長画譜』天地二冊(天保5年(1834年))、『公長画譜 二編』乾坤二冊(嘉永2年(1849年)や、嘉永3年(1850年)刊行の『水雲略画』一冊、及び同著の復刻・分冊した『公長略画』乾坤ニ冊(文久3年(1863年))、『上田公長粉本』といった画譜類が挙げられる。こうした画譜類はあまりに絵を乞う者が多く、弟子に教える暇が無いために出版したと言われる。また、江戸後期の国学者・歌人である加納諸平が撰し、西村中和・小野広隆らと合作をしている地誌本『紀伊国名所図会』第三編(天保9年(1838年))、地誌本『河内国名所図会三集』七冊、などの版本もある。

 

 

・・・あらためて、合掌。