応神天皇陵 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・仁徳天皇陵に続いて、 

 

《NEWS》2017.7.1産経ニュースより 

砕石トラブル乗り越えコスモス10万本/応神天皇陵古墳隣接の市有地 

世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥・古市古墳群」を構成するひとつ、応神天皇陵古墳(大阪府羽曳野市)に隣接する市有地で、約10万本のコスモスが見頃を迎えている。市が文化庁に無許可で砕石を敷き詰めるなどのトラブルもあったが、ようやく本来の目的を達成。7月上旬頃までピンク色や白色などのコスモスを楽しむことができるという。今回整備された約2700平方メートルの市有地は、国史跡にも指定されており、市は平成27年に花畑整備を計画。国史跡内での開発行為は文化庁の許可が必要なため、府教育委員会(現・府教育庁)を通じて文化庁に申請し、28年1月に認められた。一方、市は同古墳群の世界文化遺産登録を目指すPR活動の一環として、同じ場所で野外イベントを企画。降雨時に足元がぬかるむ懸念があったため、道路整備に使う砕石を敷いたが、この工事を文化庁に★無届けのまま行ったという経緯がある。この問題は府教委と文化庁も把握。原状復旧を求められ、市議会でも取り上げられる問題となり、花畑という当初の計画は宙に浮いてしまった。今回は世界文化遺産の国内推薦を選ぶ国の文化審議会が7月に開催される見込みということなどもあって、改めて魅力PRを狙い花畑整備を実施。最初に文化庁へ申請した「花畑整備」の許可を生かす形で実現した。当初、広さは約5千平方メートルの予定だったが維持管理の関係から最終的に半分強ほどになったものの、来年は菜の花を植える計画もあるなど、この場所を花畑として定着させていく方針という。市の担当者は「さまざまなことがあったが、これからは『憩いの場』としていきたい」と抱負を語った。

 

 

・・・今秋も、美しく咲き誇っています。

 

《参考》藤井寺市観光ボランティアの会2018.10 

http://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/volunteer_top.html

「今の季節のおすすめコース」に「応神天皇陵古墳のコスモス道を歩く」を掲載しました。 

 

※羽曳野市の取り組み 

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shichou/sekaibunka/torikukmi/55.html

 

 

《誉田御廟山古墳(応神天皇陵)》 

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_chuki/2386.html

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425メートル、後円部直径250メートル、高さ35メートル、前方部幅300メートル、高さ36メートルを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立法メートルにものぼり、大仙古墳を★上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に石が葺かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。 墳丘のまわりには二重の周濠が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品あります。

 

※古墳築造に使った土の量/★石川昇「前方後円墳築造の研究」より 

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kaisetsu/2328.html

 

【石川昇】 

http://www.kahaku.go.jp/

国立科学博物館ボランティア専門官、教育ボランティア推進室長、広報・サービス部広報課長、学習支援課長。 

 

《もずふる》2018.10.17 

https://www.facebook.com/%E3%82%82%E3%81%9A%E3%81%B5%E3%82%8B-1703917646589960/

応神天皇陵古墳外濠外堤のコスモスがついに満開になりました!今日も多くの方が見に来られていました。今月いっぱいくらいが見頃です。ぜひぜひお越しください! 

 

《コスモス》 

熱帯アメリカ原産。メキシコからスペインに渡りマドリード王立植物園に送られ、コスモスと名づけられた。日本には1879年(明治12)に渡来した。これは美術学校の教師★ラグザーがイタリアから持ち込んだものである。秋の季語としても用いられる。語源「コスモ」(cosmo)はギリシャ語の「宇宙」の「秩序」を意味し、「コスモス」とはラテン語で星座の世界=秩序をもつ完結した世界体系としての宇宙の事である。 対義語は、「カオス(ケイオス)」混沌である。 

一年生の草本。茎は高さ2~3mになり、よく枝を出す。葉は対生で二回羽状複葉。細かく裂け、小葉はほぼ糸状になる。頭花は径6~10cm、周囲の舌状花は白から淡紅色、あるいは濃紅色。中央の筒状花は黄色。葯は黄褐色。通常は舌状花は8個。開花期は秋で、短日植物の代表としても知られる。秋に桃色・白・赤などの花を咲かせる。花は本来一重咲きだが、舌状花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されている。本来は短日植物だが、6月から咲く早生品種もある。

 

 

《NEWS》2007.4.17大阪日日新聞より 

応神天皇の陵と伝える古墳は、わが国で最も体積量が大きいといわれている。古墳が今の羽曳野市誉田に造られているので、地名をとって誉田御廟山古墳とも呼ばれる。応神は『日本書紀』によると十五代天皇で、五世紀前後に在位していたとされる。現在、宮内庁がまつる天皇陵は、皇室家の陵墓ということで、明治時代以降、国民の立ち入りを厳重に禁止している。その上、巨大古墳は広い濠(ほり)に囲まれ、うっそうとした樹木に覆われているので、中の様子は拝所ごしにも容易にうかがえない。当然、文化財として発掘調査を行うこともできない。ところが、江戸時代までは天皇陵といっても、かなり自由に墳丘内に出入りすることができたようだ。当時の景観を示す絵図や出来事を書き留めた文書が多く残っている。そのうちの一つに、享和元(1801)年刊の★『河内名所図会』がある。古市郡の中で、応神天皇陵と、陵の南側に応神天皇の宗廟として創始された誉田八幡宮を大きく扱っている。中でも、応神天皇陵の挿図から江戸時代後半ごろの神社とのかかわりを知ることができる。誉田八幡宮は、応神天皇などを祭神とする。中世以後、源氏の氏神として鎌倉・室町将軍に崇拝され、豊臣・江戸時代には秀吉や秀頼、徳川将軍の厚い保護を受けた。江戸時代の境内地には、長野山護国寺と呼ばれる神宮寺の塔頭十五坊伽藍が並び、社人十三家も擁して、その規模は壮大であった。彼ら社僧が陵の祭祀・管理を務めたのである。天皇陵は前方後円墳の形を取るが、図会は前方部を省略し、後円部のみを描く。濠に囲まれ、堤や墳丘上は松の木が多く植えられている。同図で特に注目されるのは、墳丘頂上に六角形の堂と建物を取り囲む六角形の塀が設けられていることである。六角堂に詣でる参道として、長い石段もすそのから付けられている。現在、応神天皇陵の拝所は前方部側にある。しかし、本来は絵のように八幡宮側の後円部をまつるのが普通であった。今も、毎年九月十五日の秋季大祭には、陵に通じる放生橋から神輿が後円部側に渡御する神事が行われている。図会は、「陵上に近年、六角の宝殿を建る。外側にも亦、六角の塗塀を立たり。(中略)陵道一町計、左右に桜を植て、石灯炉二十基、其下に宣命場中門あり」と記している。六角の宝殿は奥院と呼ばれており、享和元年の少し前に建てられた。また、参道は宣命場中門から一町ほどで、百メートル強の長さであった。参道には二十基の石灯籠が中段あたりまで設置され、左右には桜の木を植えたことも分かる。しかし、明治初年の神仏分離とともに、寺の大半は取り壊され、陵も神社の手を離れ、明治政府が管理するようになった。それに伴い、陵に設けられていた建物や付属物はことごとくつぶされ、現在、それらの遺構は残っていない。今では、森厳さを漂わせ、何びとも寄せ付けない陵域であるが、つい百数十年ほど前までは、信仰の対象として奥院などがまつられていたことが知られるのである。(大阪府松原市/日本古代史研究者・西田孝司) 

【西田孝司】 

松原市文化財保護審議会委員、松原市社会教育委員長

 

 

《古墳コラム》今一番関心のある古墳/近つ飛鳥博物館長:白石太一郎 

http://www.mozu-furuichi.jp/jp/column_assembly/vol001.html

百舌鳥・古市古墳群の周辺環境は私の子どもの頃とは変わってしまいましたが、古墳に近づいたときの感慨は今も昔も同じで、自然と厳粛さを感じます。百舌鳥・古市古墳群の中でも、今は特に応神天皇陵古墳に関心があります。この古墳の南側に、応神天皇を祀る誉田八幡宮がありますが、江戸時代には、お祭りの神輿が応神天皇陵古墳の後円部にある六角堂まで上がっていたことがわかっています。平安時代中頃の11世紀に、応神天皇陵が八幡神、すなわち応神天皇のお墓だということで、ここにお堂が建てられたという記録があります。これが江戸時代の六角堂の前身にほかならないと思います。すなわち、11世紀にはこの古墳が応神天皇陵と信じられていたことになります。古墳時代研究の場合、どうしても文字資料が限られていますので、個々の古墳の被葬者を特定するのは困難ですが、誉田八幡宮と応神天皇陵古墳の位置関係を考えると、そこに葬られているのが応神天皇である可能性はきわめて高いと思います。研究者として大変惹きつけられる古墳です。 

【白石太一郎】(1938~) 

大阪府大阪市に生まれる。大阪星光学院高等学校を経て、1968年同志社大学大学院博士課程単位取得退学後、(財)古代学協会研究員、奈良県立橿原考古学研究所所員、国立歴史民俗博物館教授、同副館長(この間、総合研究大学院大学教授、放送大学客員教授を兼任)、奈良大学文学部教授などを歴任する。考古学による日本の古代国家・古代文化形成過程の解明をめざす。雄山閣考古学賞(2002)受賞。国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。大阪府立近つ飛鳥博物館館長。

 

 

・・・古墳の中に入れないのなら、せめて周囲・周辺を楽しく美しくするしかないよなあ。