大山(だいせん)陵古墳 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「仁徳天皇陵」を発掘するというニュースが飛び込んできましたので、特集します。 

 

《大山陵古墳》 

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/016/index.html

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵」として★第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵」や「仁徳陵古墳」とも呼ばれています。 

《参考》仁徳天皇百舌鳥耳原中陵内の宮内庁による「開発工事」の即時中止を求める質問主意書2013.2.1 

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a183009.htm

 

【仁徳天皇】 

https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/126

応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。難波に都を定め、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。なお、『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃または珍に比定する説があるが、確定していない。

 

 

《東錦昼夜競「仁徳天皇」》絵師:楊洲周延(1838~1912) 

http://www.yamada-shoten.com/onlinestore/ukiyoe.php?eshi=%E5%91%A8%E5%BB%B6&search_key=eshi

明治を代表する浮世絵師・楊洲周延が明治19年(1886)に制作した代表作。神話の時代から江戸時代にかけての、様々な歴史故事や伝説、妖怪譚などを題材とした、全50点に及ぶ連作。 

歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(家禄5石6斗2人扶持)の長男として生まれる。ただし、出身地が高田と江戸のどちらかは不明。弥八郎は中間頭を務め、徒目付を兼任した。文久2年(1862年)の記録によれば、25歳の周延も「帳付」(家禄10石2人扶持高銀3枚)という役職についている。周延は、幼い頃に天然痘にかかりあばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった時も写真は1枚も無かったという。幼少時は狩野派を学んだようだが、その後浮世絵に転じて渓斎英泉の門人(誰かは不明)につき、嘉永5年(1852年)15歳で国芳に絵を学んで、芳鶴(2代目)を名乗る(有署名作品は未確認)。文久元年(1861年)国芳が没すると三代目豊国につき、二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して浮世絵師となった。さらに豊国が元治元年(1864年)12月に亡くなると、豊国門下の豊原国周に転じて周延と号した。 

 

《NEWS》2016.6.21日本経済新聞より 

非公開でも研究は続く/仁徳陵の謎を探る 

全国で20万基以上あったとされる古墳の中で最も大きいのが、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する堺市の前方後円墳、大山古墳だ。墳丘は全長486メートル。三重の周濠を持ち、一帯に広がる百舌鳥古墳群の盟主として君臨している。この古墳群に現存する古墳44基のうち、大山古墳を含め23基は宮内庁が陵墓や陵墓参考地として管理。一般の立ち入りを原則認めていない。大山古墳では★明治初期にあらわになった石室が見つかり、石棺や副葬品の絵図が描かれたことがある。 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html

以降、外部の研究者が現地を本格調査したことはないが、それでも古墳研究全体の進展と歩調を合わせて謎の解明がこつこつと続いている。以前の古墳研究では被葬者が眠る主体部のみが重視されがちだったが、近年は濠や堤、外域まで詳しく調査。情報の蓄積が進む。年代推定の物差しとして重要なのが墳丘に並んでいた円筒埴輪だ。製作技法などの分析が1980年ごろから進み、築造年代がより細かく推察できるようになった。一方「宮内庁は陵墓の補修に伴った調査の成果などを90年代ころから小まめに情報発信している」と一瀬和夫・京都橘大学教授は指摘する。大山古墳では宮内庁は94~97年に墳丘を測量・踏査。その際などに見つけた埴輪や土器を公表しており、貴重な研究材料となっている。被葬者については「やはり仁徳天皇だ」との見方を含め今なお諸説あるが「築造年代については近年、5世紀前半を軸に絞られ、議論の幅は50年もない」と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長は話す。21世紀に入り、百舌鳥古墳群は大阪府羽曳野市や藤井寺市に広がる古市古墳群と併せて、世界文化遺産への登録を目指す動きが活発化。あちこちで保全と活用を目指して調査や発掘が進んでいる。2013年、ニサンザイ古墳の周濠内で木橋跡を発見。前年には航空レーザー測量で陵墓を含め計82基の精密な3次元図面も作製した。大山古墳では大地震による地割れや地滑り跡が刻まれた墳丘の詳しい状況が明らかになった。ただ大山古墳はあまりに巨大だ。「専門機関を設けても総合調査には10年、100年単位が必要。まずは課題を一つ一つ解決していくことが大切だ」。白石館長はこう語る。

 

 

《NEWS》2016.6.23日本経済新聞より 

「明治の盗掘説」真相は 仁徳陵の謎を探る 

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH14H09_U6A610C1AA2P00/

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH14H0A_U6A610C1AA2P00/

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH16H03_W6A610C1AA2P00/

米ボストン美術館には大山古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。こんな説が小説などを通じて広まっている。確かにこの年、堺県が「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑などの詳しい絵図も残る。宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は★岡倉天心が買い付けたものだった。当時の記録で唯一残る会計報告書には「古代の墓から出土」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした――。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」 

  

幕末や戦後に植林をする運動が起こり、大仙陵古墳の上には多くの木々が植えられたとされています。そのため、古くはハゲ山だったとされていますが、現在では緑溢れる景観となっています。なお、禁足地とされる理由としては国家機密に当たるほど重要な品々が治められていたからという噂があり、第二次世界大戦後には真っ先に★GHQによって発掘調査が行われ、数々の発掘物が国外に持ち出されたと云われています。

 

 

《NEWS》2018.9.2 

「仁徳天皇陵」新たな絵図/大阪 

堺市にある仁徳天皇陵とされる古墳で、江戸時代に堀を埋めて農地の開墾が進められていたことを示す絵図が残されていたことを地元の研究者が発表しました。堺市博物館は古墳周辺の環境や変遷がわかる貴重な史料だとしています。絵図は縦1メートル20センチ、横92センチで仁徳天皇陵とされる古墳とその周辺が詳しく描かれ、およそ270年前の江戸時代に書かれたとみられます。墳丘の周りの土地には耕作者とみられる人の名前が記されていて、他の時期の絵図と比べると幕府の政策を背景に古墳の堀を埋め立てて農地を拡大していたことがわかるということです。堺市博物館によりますと、当時、盛んに行われた検地にあわせて描かれたものとみられ、古墳周辺の環境や変遷を知る上で、貴重な史料だとしています。絵図は堺市の大学で客員教授を務める中井正弘さんが20年ほどまえに知り合いの大学教授から譲り受け独自に研究を進めてきました。中井さんは今回の絵図について「時代によって古墳への見方が異なることを示す史料で、研究などに生かしてもらいたい」と話していました。 

★太成学院大学紀要 

新知見の大山古墳(仁徳陵)古図の検討と世界文化遺産登録をめざす動きについて/文:中井正弘 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/taiseikiyou/20/0/20_179/_article/-char/ja

今回,新たに知見できた江戸時代延享期の大山古墳(仁徳陵)の絵図を詳細に検討すると,現状の姿や復元模型などとは異なっている。江戸時代の新田開発策によって周濠と堤がかなり耕地化され,外観に大きな変化が見られる。しかし,よく検討すると築造時の周濠と堤の原型を知ることができる。築造時の復元をするには,各時代の政治や政策による変形の検証が大事になってくる。そのための研究に役立てたい。 また,行政を中心に進められている百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録運動の問題点にも論及したい。  

【中井正弘】 

http://toursakai.jp/sasso/2017/03/10_2304.html 

関西大学法学部卒。堺市泉北ニュータウン在住。現在、日本ペンクラブ会員・「大阪春秋」編集委員・太成学院大学客員教授

 

 

《NEWS》2017.11.27朝日新聞デジタルより 

陵墓に眠るのは誰なのか/宮内庁と学者の見立てに相違 

大阪府の百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産の国内候補になったことで、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」などの陵墓が注目されている。だが、宮内庁が被葬者としている天皇や皇族には、学術的には疑問も少なくない。陵墓とは、歴代の天皇・皇后の墓である「陵」と、皇族が葬られた「墓」の総称だ。宮内庁のホームページによると、同庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の候補地)など、計899件を管理している。堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88基の古墳からなる。このうち、宮内庁が陵墓として管理しているのは46基。全長486メートルと日本最大の大山古墳(仁徳陵古墳)、同425メートルで第2位の誉田御廟山古墳(応神陵古墳)をはじめ、全長200メートル以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁管理の陵墓古墳だ。宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難しそうだ。大阪府と地元3市でつくる「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」は、宮内庁が天皇陵に指定する古墳を「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」などと呼んでおり、考古学者や歴史学者から批判の声があがっている。天皇陵の指定は幕末から明治にかけて、8世紀の「古事記」「日本書紀」(記紀)や10世紀の「延喜式」の記述を元に進められており、現在の学術的な年代観とは矛盾するものも多いためだ。例えば、履中天皇陵に指定された堺市のミサンザイ古墳は、埴輪(はにわ)の分析による年代では5世紀前半の築造とされる。一方、履中の父・仁徳天皇の陵とされる大山古墳は5世紀半ばの築造。「日本書紀」には父の6年後に亡くなったと記された履中の墓の方が古い。 

 

《NEWS》2018.4.19朝日新聞デジタルより 

実は525m国内最大の古墳/宮内庁ネットで公開 

国内最大の古墳・大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳、全長約486メートル)=堺市=は造営時、全長525メートル以上だったことが分かった。宮内庁がデジタル公開した「書陵部紀要」の中で、そんな研究論文を掲載した。皇室伝来の資料や陵墓(天皇や皇族の墓)・陵墓参考地を管理する宮内庁書陵部には、歴史学や考古学の専門職員が配され、調査研究の成果は毎年刊行される「書陵部紀要」で公表されてきた。発行部数が限られ、とくに関心が高い陵墓の発掘調査や測量の報告は数年分が「陵墓関係論文集」にまとめられ、2010年までに計7冊が刊行された。最新号には大山古墳の測量のほか、「卑弥呼の墓」との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳で出土した埴輪や土器に含まれる砂の観察結果などが掲載されている。大山古墳の内濠測量を巡っては、音の反響によって水深を測る装置を船に搭載し、得られた水深のデータを全地球測位システム(GPS)の位置情報と組み合わせて3次元化した。水中に残る墳丘の裾部分が確認でき、濠の底で測った古墳の全長は約525メートルだったことが分かった。造営当初の全長はさらに大きくなりそうだ。箸墓古墳で出土した特殊器台や円筒埴輪、壺形埴輪の土に含まれる砂礫(砂や小石)については、奥田尚・奈良県立橿原考古学研究所特別指導研究員が分析した。顕微鏡で観察して表面に含まれる砂礫を調べた結果、後円部で出土した特殊器台や円筒埴輪など54点は、そのすべてが吉備(現在の岡山県)の総社平野の砂礫を含んでいた。一方、前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点の砂礫は、地元の桜井市内のものと推定できると論じた。後円部に被葬者の埋葬施設が設けられているとみられ、被葬者と吉備との強い関係がうかがえる。世界遺産登録を目指す大阪府羽曳野市の古市古墳群の墓山古墳(全長約225メートル)では、墳頂部にある長持形石棺のふたの破片(長さ約1・65メートル)の写真や図面を公開。古市古墳群で最初に築かれたとみられる藤井寺市の津堂城山古墳(全長約208メートル)で明治時代末に出土した長持形石棺と同じような格子状の模様があるという。紀要は、宮内庁トップページの「皇室に伝わる文化」からリンクされる「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」で公開される。 

http://www.kunaicho.go.jp 

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/ 

 

《NEWS》2018.10.15毎日新聞より 

<宮内庁>仁徳天皇陵を★発掘へ 今月下旬から堺市と共同で 

宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。大山古墳は全長約500メートルで、三重の濠が巡る。宮内庁は仁徳天皇の墓として管理するが、学術的には未確定。調査は10月下旬~12月上旬、埴輪列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。考古学界は陵墓の公開と保全を訴えており、宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。今回、一般向けの現地説明会はないが、速報展や講演会の開催を検討しているという。宮内庁の陵墓管理委員会で委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は「古墳全体を保存活用する上で地元や研究者の協力は欠かせず、今回の共同発掘は重要な一歩だ。陵墓の公開に向けても歓迎できる」と評価した。堺市は大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録をめざしている。 

江戸時代に入ると、将軍の廟が大変立派であるのに対し、歴代天皇の皇陵が著しく荒廃している事に心を痛める尊皇家が現れるようになり、国学の影響などもあって、陵墓の修復が上表されたり、本格的な山陵調査を行う者が現れるようになり、朝儀再興を支援した五代将軍綱吉の時代に入ると、幕府も本格的に陵墓の調査に着手するようになりました。 

そして、幕府や一部の藩、国学者、有識者などが、皇陵を比定(ここは何天皇の御陵、というふうに一つひとつ当てはめる事)して緻密な探索・考証・改修を行い、特に、幕末期に宇都宮藩主・戸田忠恕によって行われた修陵事業「文久の修陵」により、各地の陵墓はほぼ現在の形態に整備され、その後は明治政府がその作業を引き継いで、陵墓の考証決定を行いました。 

ところが、陵墓の比定や整備を行った当時は、勿論数多くの文献や地元の伝承などを調査し、現地での実地調査も行うなど、当時としては最善の努力が行われましたが、科学技術を以てする考古学的な検証などは全く行われていなかった訳ですから、その後、考古学分野に於ける調査・研究が進み、目覚ましい成果が挙がってくるようになると、考古学の立場からは、陵墓の考証決定に疑義が持たれる点や矛盾が生じる点などが指摘されるようになってきました。

 

・・・いろいろありますが、とにんく期待しましょう。そしてこれからも、いろいろあることでしょう。