《朝日新聞社株式会社「阪神支局」》日建設計2006
662-0917兵庫県西宮市与古道町1-1/0798-33-5151
・・・一度は訪問しなくてはと思っていましたが、ようやく実現しました。
《NEWS》2018.9.30神戸新聞NEXTより
西宮在住の抽象画家・中島さん/平和祈る作品展
兵庫県西宮市在住の抽象画家、中島千恵さんと教室の生徒が出展する作品展「平和と鎮魂を祈念して」が10月1~5日、西宮市与古道町の朝日新聞阪神支局3階ギャラリーで開かれる。31年前に記者2人が死傷した朝日新聞阪神支局襲撃事件に衝撃を受けた中島さんは「言論を暴力で排除しようとする姿勢に小さな抵抗を続けたい」と、2007年から毎年同ギャラリーで作品展を続けている。会場には中島さんの新作を交えた水彩画や油彩画28点と、生徒8人の作品9点が集まった。「作品の色合いは私の心情」と話す中島さん。世界中で頻発するテロに対し平和への祈りを青色に込めた絵画「慈しみの中で」や、鮮やかな赤色や青色の円に、淡い水色や黄緑色の円が重なり、色の変化を楽しめる水彩画「大自然」など、パステルカラーを使った明るい色合いの作品が並ぶ。西宮・夙川の桜並木から着想を得たという油絵「桜の衣をまとう」は、絵の具を何度も重ねることで花びらの厚みを表現した。会場の照明は、照明プランナーで長女の森本博美さん(東京都)が手掛ける。
【中島千恵】
ル・サロン永久会員(フランス)、N.Y.A.Jainギャラリー会員(アメリカ)、国際美術連盟会員、日本美術家連盟会員。オランダ・フランス・中国・ドイツ・ロシア・タヒチに於ける国際展にてグランプリ賞ほかを受賞。1993年よりパリ・オスロ・ニューヨーク等で個展やグループ展に出展し国際的に活躍中です。日本国内では、個展はもちろんのこと、数多くの展覧会に招待作品として出品。1995年以降は、阪神・淡路大震災被災者のためやアフガンの子どもたちのためのチャリティ展も開催。フランス・イタリア・スイス・スペイン・英国・アメリカ・ドイツなど各国のメディアから取材を受ける機会も多いインターナショナルな現代抽象画家です。西宮市在住。
「父が商社に勤めていたので、私はインドのボンベイ(現ムンバイ)で生まれ六歳まで暮らしました。大きな屋敷で庭が密林のようだったことを覚えています。カースト制度が残るインドですから、父の靴を磨き靴紐を結ぶ係の人、1日中窓を磨く人など大勢の使用人が家で働いていましたね」当時の中島さんは、どちらかといえば神経質な子供だったそうですが、紙とクレヨンを与えられれば1日中機嫌よく遊んでいたとか。「私はほんの小さな子供の頃から画家になるのが夢でした。小学1年生で帰国しましたがインドにいるときから、もうすでに画家になることは決めていました。その決心は大人になるまで一度も揺らぐことはありませんでしたね。こんな人は画家の中でも珍しいみたいですよ」帰国して西宮に住んだ中島さんは早速ご近所の絵画教室に通いました。「実に熱心に通いました。子どもは飽き性ですから、どんどん仲間がやめていって、生徒は私一人になっても通っていましたね」中学生になった中島さんは知人の紹介で芦屋美術研究所で絵を勉強することになりました。「研究所に通う人は大人の男性ばかり。すでにプロの方々やプロを目指す絵描きさんたちの間に女の子が一人ぽつんといたので、皆さん親切にかまってくれましたよ」中学・高校生のころから、中島さんは大人たちに混じって多くの公募展に応募し高い評価を受けました。「大学生になると、自分は絵で何を表現したいのか、絵を描くことの意味を今まで以上に真剣に考えるようになりました。やはり私が追求したいのは人間。それも形や外見ではなく、個人の内面的なものに強い関心を持っている。そして人と人が関わりあっていく中で生まれてくる事象に興味があるのだと気づきました。それらを絵画で表現するには人物の形態を克明に描写するのではなく省略し、形を単純化させて描くことが必要でした。具象から半具象へ、更に抽象の世界へと突き進んでいきました」アートの世界を迷うことなく一筋に歩んできた中島さんには、どこか浮世離れした清々しさが漂い、現実の生活臭さが感じられません。「いえいえ、私は結婚もして家事・育児をこなし、睡眠時間を削って作品を描き続けてきたのですよ。掃除機をかけながら眠ってしまうことすらありました。しかしこれらのことも絵を描く上で貴重な経験となりました。生活の中から学ぶことは多いですよ。何より子育ても家事もそのときにしかできない素晴らしい瞬間ですからね」1996年のある日、インターネットで中島さんの絵を発見したアメリカ人の美術評論家クリス・ゲイガー氏は驚きを持って中島さんの絵を美術専門紙「アート・スピーク」に紹介しました。「中島千恵の絵は単に視覚的な楽しさを与えるだけでなく、心の安らぎをも感じさせることに成功し、彼女の精神的な真実を、審美的な状態にまで転換していったのである。彼女は、普遍的なメッセージを彼女の作品において表現することができる芸術家である」中島さんは国内のみならず、パリ・オスロ・ニューヨーク・ホノルルなど世界各地で個展やグループ展を開催。また同時に、阪神・淡路大震災の被災者やアフガンの子供たちのためのチャリティ展も開催してきました。
【森本博美】※「照明探偵団」
照明探偵団通信 vol.17「ロンドンレポート」
【小山和郎】(1932~2011)
伊勢崎市出身で在住の詩人・俳人★小山和郎さんが2011年4月7日、肝臓がんのため同市内の病院で亡くなった。78歳。代表的詩集に「冬の肖像たち」がある。詩誌「東国」の発行にも携わり、東毛地域中心に群馬や栃木の詩人の「オーガナイザー」としても存在を残した。若いころに結核を患い、療養所(国立療養所大日向荘)でできた友人が亡くなっていくのを悼み詠んだ「明日も喋ろう弔旗が風に鳴るように」という俳句が、1987年に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件の後、同支局内に掲げられた。「言論を守る団結の合言葉になったと聞いている」と弟で共同通信編集委員★小山鉄郎さん(62)は説明する。療養所を出た後は伊勢崎にとどまることを決め、印刷業を営みながら詩集も出版した。土屋文明記念文学館発行の群馬文学全集(全二十巻)で、伊勢崎出身の詩人、根岸正吉を取り上げた第十巻の編集も担当した。葬儀・告別式は十日午前九時半から、伊勢崎市波志江町三五五三、いせさき聖苑で。喪主は長女繭子さん。
★明日(あす)も喋(しゃべ)ろう 弔旗が風に鳴るように
《参考》「群馬詩人クラブ」
https://gunmashijinclub.jimdo.com/
【詩誌は、いま】クロニクル『東国』文:川島完
(前略)が、この連綿の下で発行元の小山和郎の身体を、病が時々襲う。するとどうしても「東国叢書Ⅱ」の刊行は後れ、「東国」の定期発行も崩れる。自由さ故、会員になった者は一五〇人を超えるが、創刊からの参加者は今一人もおらず、私の入会した4号以降では井上英明のみである。そして小山の死を迎えた。詩誌を長く続ける意味を時々考える。しかし発表したい人がいる限り、その意義はあろう。現在年二回、必ず合評会を開くことで継続発行している。もう四五年になる。(会報287号より)
・・・風に鳴るように、このまま帰れない。海に向かって歩きます。