・・・★法円坂に行く機会があり、「大阪医療センター」に立ち寄りました。以前「病院ミュージアム」で紹介しましたが今回は、
《参考》「法円坂」
地名の由来には、かつて所在した法案寺(生國魂神社の神宮寺)の転訛や、浄照坊の開祖である法円がここに邸宅を構えていたなどの諸説がある。
《国立病院機構「大阪医療センター」》
540-0006大阪市中央区法円坂2-1-14/06-6942-1331
★旧大阪陸軍病院を前身として、1945年(昭和20)9月に大阪府★河内長野市(現在の大阪南医療センターの所在地)に開設され、12月に「国立大阪病院」として発足した。1947年(昭和22)4月に大阪市東区(現:中央区)法円坂(現在地)に移転。1997年(平成9)1月に厚生省から近畿の防災拠点病院の指定を受けたあと、東京都立川市の国立病院東京災害医療センター(現:国立病院機構災害医療センター)に対する西日本の災害医療センターに位置づけられた。2003年(平成15)7月に国立療養所千石荘病院と統合し、「国立病院大阪医療センター」に改称。翌年4月に厚生労働省から独立行政法人国立病院機構に移管され、現在の「独立行政法人国立病院機構大阪医療センター」に改称された。
《花神》著:司馬遼太郎
1996年「街道をゆく濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現★国立病院機構大阪医療センター)に入院。2日後の2月12日腹部大動脈瘤破裂のため死去した。72歳没。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた★大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。『花神』とは、花咲爺のこと。日本全土に革命の花が咲き、明治維新が成立するためには花神が必要とされた。木戸孝允こと桂小五郎の言葉によれば、「維新は最後に出てきた大村がいなかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」と。幕末維新といえば、近藤勇、土方歳三、沖田総司などの新撰組の面々や、西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作など有名どころがずらりと並ぶ。そのなかで、この小説の主人公、大村益次郎、もしくは村田蔵六という名を聞いても、多くの人は「だれ?」と答えるだろう。戦前では、近代兵制を創始した軍神として知られていたのだが。彼は組織の内にいる、ある仕事にとりつかれた平凡な人間であった。ただ、少し他の日本人と違っていたのは合理主義者であったということだ。司馬さんによれば、「革命期には思想家が現れ、非業の死をとげる。ついで戦略家の時代。三番目に登場するのは技術者である」という。
★「大阪市内で戦争と平和を考える」HPより
https://jinken-kyoiku.org/heiwa/oj-rentaihi.html
《歩兵第8連隊》
歩兵第8聯隊の兵舎は1874年(明治7)の創設当初は、★今の国立大阪病院のあたりにあったが、1897(明治30)年に、今、難波宮跡地となっているところに移転した。第8聯隊は、その後、中部第22部隊と変わったが、第37聯隊とともに第4師団では基幹部隊となり、15年戦争中は、中国、南方方面を転戦した。最後は、タイのランパンで軍旗を焼いた。兵舎は1969年(昭和44)頃まで残っていたと言う。表門付近に1975年(昭和50)4月「歩兵第8聯隊跡」の碑がつくられた。
《歩兵第37聯隊》
この聯隊は、日清戦争後、対露戦争をにらんで、1896(明治29)年11月につくられた。兵舎は、8聯隊が新兵舎が出来て向かいに移ったので、明治31年この場所★今の国立大阪病院の南部分にあたるところに置かれた。後に中部23部隊と名前を変える。第8聯隊と同じく、中国、フィリピン・タイ方面に転戦し、タイの北部のモンレンで軍旗を焼く。この部隊は、野間宏の「真空地帯」のモデルにもなったところである。三つの碑が建てられている。
中央には「歩兵第37聯隊跡」裏「昭和61年11月歩37會建立」北側には「歩兵第37聯隊創立100周年記念碑」その裏には「明治31年3月24日歩兵第37聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。平成10年3月吉日歩37会建立」南側には「克忠」(ごくちゅう)碑裏には「此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。」
《大村益二郎碑》
https://jinken-kyoiku.org/heiwa/ch-oomura.html
国立大阪病院の東南角に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑」がある。1941(昭和16)年、大阪の軍・官・財界の拠金によって建てられた。★日米開戦の年に陸軍創設者の碑をたてて、軍をたたえた。
【大村益次郎】(1825~1869)
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/38.html
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。生年が文政7年(1824)とする説もある。天保13年(1842)防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846)大坂に出て緒方洪庵★「適塾」で学ぶ。適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。嘉永3年(1850)父親に請われて帰郷し、四辻で開業し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚した。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍★創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。新政府に出仕し、明治2年(1869)7月兵部大輔として兵制の近代化に着手したが、同年9月京都で攘夷派浪士に襲われ負傷し、療養中に死亡した。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。
・・・せっかくここまで来ましたので、「金箔瓦」を拝ませてもらいます。
《大阪市博物館協会「大阪文化財研究所」》
540-0006大阪市中央区法円坂1-6-41/06-6943-6833
★難波宮調査事務所「資料展示室」
http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M07.html
難波宮跡公園南東隅にある調査事務所には、難波宮跡を中心とした、大坂城跡、森の宮遺跡などから出土した資料(約5,000年前から数百年前)を公開する小さな展示室があります。大阪歴史博物館に比べあまり目立ちませんが、生の資料をごく身近に感じることができる施設です。難波宮散策に合わせ、お立ち寄りください。
・・・「金箔瓦」を観て元気をもらった後は、「真田山」へ。