平瀬露香(15) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《愛日学区「建家取調図面帳」》日本建築学会計画系論文集76巻666号より 

近世の大坂は、江戸と対比される大都市で、町割、街区の構成とともに、町家をはじめとする建築群の構成などが注目されている。(中略)住居群については、三浦要一・谷直樹・増井正哉らが明治19年(1886)の「建屋取調図面」をもとに、近代初頭の船場北西部を網羅して住居平面を類型化するとともに、町ごとに集住の類型を抽出し、表屋が通りに開口して宅地裏に土蔵を持つ宅地が並ぶ類型、通りと筋に開口する場合は、宅地裏に土蔵がある類型と、土蔵と長屋がある類型の3類型を指摘し、職住の関連に考察を進めた。また、大坂の町家については、それまでの研究成果や残された遺構などから、北船場の町家と町並みの一部が「想定復元」されている。 

大阪市立住まいのミュージアムでは、谷直樹・増井正哉・松本正己らによって、2001年に北船場町並みの一部が「建屋取調図面」や「水張絵図」などから「想定復元」されている。

 

 

《参考》「愛日小学校」 

旧大阪市立愛日小学校は、地元の豪商「升屋」が自らの居宅を寄贈して、明治5年に開校したものです。その際に寄贈された山片家の蔵書等は★「愛日文庫」として、開平小学校に保管され、貴重な文化遺産として次世代に継承されています。 

※愛日文庫 

http://www.osaka-kosho.net/essay/588/

山片蟠桃は寛政元年(1748)、播磨国印南郡米田町神爪村の農家に生まれた。宝暦十年(1760)、少年にして大坂の堂島米市場で五仲買に挙げられる豪商「升屋」山片家へ入った。商人ながら学問好みの人で「懐徳堂」門人でもあった升屋二代目当主「重賢」は、少年の並外れた知性と才覚を見るや、★懐徳堂に入門させた。中井竹山、履軒に師事した彼の学才俊秀は目を見張るものであった。山片家四代目重芳が幼少にして家督を相続すると、彼は番頭として力を発揮、ついに「升屋」は仙台藩をはじめ、尾張・水戸・越前など十数藩を相手とする大名貸となった。さらに仙台藩財政建て直しを請われた彼は、「サシ米」を発案、「米札」の考案とここでも卓越した才能を発揮した。ために、山片家から親類次席にあげられて、姓を貰い受けて山片芳秀を名乗り、また仙台藩からは貴重書の数々を拝領した。彼は商売の傍ら番頭=蟠桃の号を名乗って学問を究め、遂に有名な「夢の代」を完成させた。12巻に及ぶ大著の中で、宇宙・天文・地理・社会・経済などの森羅万象を、実学主義、合理主義で究めつくし、「地動説」「無鬼論」を論じている。明治5年8月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した。この中に、山片家旧蔵の書籍類があり、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、蟠桃が仙台藩主や白川藩主松平定信から拝領した貴重書の数々も小学校に寄贈されたのである。 

※大阪市立開平小学校「愛日曝書」 

http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e551132

 

《懐徳堂絵図屏風》 

http://kaitokudo.jp/byobu/history/02.html

初期懐徳堂を描いた「大坂学校之図」。下部に「天明二年(1782)十一月二十三日桑名克一書」の記載がある。欄外に「街 今橋筋尼崎町壹丁目、地 東西十一間四尺五寸、南北二十間」「此図也以鐵尺二寸當一畝」の注記。敷地北側に「道明寺屋醤油倉」が確認できる。これは、懐徳堂の敷地を提供したのが五同志の一人道明寺屋であったことによる。二階部分は屏風第三面中段左に貼り付けられており、二階全体について「中井二階之図」と注記されている。つまり、二階は、懐徳堂学主中井家の私的空間であったことを示す。 

 

・・・「想定復元」ジオラマの作成には、並々ならぬ苦労があったことでしょう。 

 

《参考》「大阪歴史博物館」常設展示場は10階~7階までの4フロアで担当は、 

●10・8階/(株)トータルメディア開発研究所 

https://www.totalmedia.co.jp/

★9階/(株)乃村工藝社 

https://www.nomurakougei.co.jp/

●7階は(株)丹青社 

https://www.tanseisha.co.jp/

 

・・・さて今から10年前、「大阪歴史博物館」で「平瀬露香」さんの特別展がありました。

 

 

《没後100年/最後の粋人・平瀬露香》 

2008年(平成20)1月19日(土)~3月10日(月) 

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2007/naniwajinbutsu1.html

2008年は、近代大阪最大の文化人・平瀬露香(1839~1908)が没して100周年に当たります。「今蒹葭堂」「上方の粋の神」とも呼ばれる露香は、近世大坂最大の文化人木村蒹葭堂とともに、大阪の文化力を体現した人物であり、その没後、彼のごとき多芸多才な文化人は現れていません。幕末維新の激動の中、船場梶木町の両替商「千草屋」の当主となった露香は、維新の動乱を何とか乗り切り、近代大阪財界の要職を歴任した財界人である一方、「大阪に於ける明治最後の大通」と称される大文化人として、その嗜む趣味は31の多きに上り、特に大阪における茶道・能楽の発展に貢献するとともに、大阪博物場長を務めた人物として知られました。しかしながら、やがて近代日本の進展の中で、前代の感覚を引きずった平瀬家の経営や露香自身の趣味のあり方は、時代にそぐわないものとなり、露香は時代の表舞台から姿を消したのです。第1部では、幕末・明治の激動の時代を生き抜いた平瀬露香というひとりの人物像を、平瀬家の出自と発展、明治維新後の大阪財界との結びつき、露香の風流人としての生き方とコレクション、という3つの観点から捉えることによって、大阪が誇った文化力の高さを再度検証します。そして本当に豊かな文化とは何であるかを再考していきます。 

 

・・・まだその頃は、仕事漬けの日々を送っており、残念ながら知る由もなかったことが悔やまれます。仕方なく自力で「探偵アートスクープ」を開始したわけですが、回り道・無駄骨の連続です。行き詰った時に思いついたのが、歴博のパンフを入手することでした。なぜ、こんな簡単な事に気付かなかったのかと情けなくなりますが、もし初期段階にパンフを見てしまっていたら、無駄も含めてこんなにも多くの知識を得ることはなかったと思います。「苦労は買ってでもしろ」ということですね。

 

 

・・・その苦労の一端が、「豊国廟」の灯籠です。

 

 

《豊国廟》※登拝100円 

605-0926 京都市東山区今熊野北日吉町/075-561-3802(豊国神社) 

https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=250

豊臣秀吉の廟所である。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は齢63歳を以って伏見城にて薨じた。遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされていた。★明治30年(1897)秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。参拝のしおりには、565段とあります。この石段周辺は桜や紅葉の名所です。1996年NHK大河ドラマ「秀吉」(原作:堺屋太一/脚本:竹山洋/主演:竹中直人)オープニングにこの階段が使われたそうです。

 

 

・・・大阪の花街?も、灯籠を寄進しています。階段はもちろん疲れますが、駅から「豊国廟」まで結構な距離でつらくて、でも露香さんの「灯籠」に会うためにイザ。