平瀬露香(11) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・露香さん贔屓の「得田屋」がなかなか発見できず、諦めていた時にググッ然(偶然)にも、 

 

《道明寺天満宮》 

http://www.domyojitenmangu.com/index.html

《NEWS》2017.5.4産経ニュースより 

道明寺天満宮に埴輪窯復元/大阪・藤井寺市 

古市古墳群が広がる大阪府藤井寺市の道明寺天満宮で古墳時代に埴輪を作った窯が復元され、4日、除幕式があった。埴輪を大量に作っていた地域を紹介しようと、住民らが市や天満宮に復元を要望していた。窯は長さ5.4メートル、高さ1.2メートル。要望していた市民団体役員の植木充義さん(55)は「思いがかなってうれしい。★世界文化遺産登録をめざす百舌鳥・古市古墳群を盛り上げる一助になれば」と話した。

 

 

★「手水舎」の石組み 

http://www.domyojitenmangu.com/stone19.html

手水舎の石鉢を弘化5年(1848)に奉納した人々が記されています。ただし現在の石鉢は昭和4年に奉納されたものです。このときに奉納されたものは、★羽曳野市壷井に鎮座する「壷井八幡宮」にあります。 

 

奉納/ 

★江戸木場成田屋 

京 

六角通:槌利/祇園町:井筒、川伊、扇市、石五、堺屋、角五/柳馬場:枡庄 

大坂 

道頓堀:枡市、八尾伊、てし重、★得田屋、桑文、木ノ徳、伏茂、綿善、天喜、角平、近安 

弘化五年 戊申二月吉日 

道頓堀:中村屋、槌竹、阿波治 

八幡筋:十櫛伝 

幸町一丁目:伊賀者、二丁目:京源 

淡路町:高砂龍/中筋:大紋/戎橋:大与、姿見 

九良右門町:大七、兵卯、久代屋、、堺夏、川竹、井ツ喜、明石屋、井ツ富 

梅香院取次/ 

九良右ヱ門町:森藤、さらしな 

宗右ヱ門町:見山屋 

大阪:小倉屋平右ヱ門、五端屋治右ヱ門、河内屋新兵ヱ、三田屋忠兵ヱ、米津屋庄三郎、同 吉右ヱ門、美濃屋徳兵ヱ、山城屋吉兵ヱ、堺屋源兵ヱ、松徳、高重、竹駒連、西田氏 

世話人/堺屋惣右ヱ門、田中屋吉三郎、播磨屋又兵衛

 

 

・・・大阪なのにどうして「江戸木場成田屋」と思って調べると、「四代目市川團十郎」のことでした。 

 

【四代目市川團十郎】(1711~1778) 

屋号:成田屋/定紋:三升/本名:徳蔵(幼名) 

出身地:江戸堺町 

父:和泉屋勘十郎(実父)二代目市川團十郎(実父?)初代松本幸四郎(養父)二代目市川團十郎(養父) 

★芝居茶屋・和泉屋勘十郎の次男、実は二代目市川團十郎の実子ともいわれている。 

妻:1. 井ぬ(二代目市川團十郎の姪)2. まつ(三代目岩井半四郎の娘) 

子:五代目市川團十郎 

俳名/海丸・五粒・三升・柏莚 

襲名歴/1.初代松本七蔵2.二代目松本幸四郎3.四代目市川團十郎4.二代目松本幸四郎5.三代目市川海老蔵 

※三代目團十郎が突然病に倒れ、そのまま1742年(寛保2)早世してしまう。後継者を失った二代目海老蔵は、老躯に鞭打って舞台に立ち続けたが、65歳で体力の限界を感じ、高弟の二代目松本幸四郎を改めて自らの養子とし、これに市川宗家を継がせることにした。これをうけて1754年12月(宝暦4年11月)、二代目幸四郎は二代目海老蔵の養子となり、そのうえで改めて★四代目市川團十郎を襲名した。この一連の出来事は、養子を取る方が二度目なら、養子に行く方も二度目という数奇な養子縁組で、しかも★芝居茶屋の次男坊が三段跳びで江戸歌舞伎の頂点・市川宗家に収まるという栄転譚である。 

 

【菅原道真】(845~903) 

左遷される時に、河内の道明寺へ立ち寄ったとされています。歌舞伎「菅原伝授手習鑑」として戯曲にもなり、★成田屋「四代目市川團十郎」の十八番とも云われて伝わっています。その、道明寺への行き帰りに通った跡が★「左専道」等の地名で大阪市内にも今に伝わっています。 

 

《左専道》 

http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000780.html

延喜元年(901年)菅原道真が太宰府に左遷される途中、現在の諏訪神社で休憩(腰をかけたという腰掛け石が今も残っている)したことから、この付近を「左遷道」と呼んだといわれています。一説にはそれ以前に左遷道と呼ばれていたと伝えられるが、いずれにせよ左遷という名は有り難くないところから、村人たちが長い年月とともに「左専道」(もっぱらのみち)と改めたともいわれています。当地は、昔から木綿の耕作地でしたが、木綿が衰えてから蔬菜(そさい)づくりが盛んとなり「させんど青物」の名で知られたところです。

 

 

《壺井八幡宮》 

583-0844羽曳野市壺井605-2/072-956-2824 

http://tuboihatimanguu.jp/

鎌倉幕府の創始者源頼朝が、八幡太郎源義家公の4代の孫であり、室町将軍家足利氏、さらに徳川将軍家も義家公の流れである。この義家公の祖父頼信公が壺井に館を構えたのが寛仁4年(1020)のことで、河内源氏の祖となる。境内には、樹齢1,000年になる天然記念物の楠がそびえている。現社殿は、平成7年に、綱吉公が再建された当時の姿に大復原修理されたものである。

 

★清泉「壺井」(河内名所図絵より) 

平安時代前九年の役(1051~1063)のとき、源頼義みなもとのよりよしの軍が飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれている。平定完了して凱旋する際冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となった。

 

 

・・・台風の被害かなと思いましたが、宮司さんから本殿など建物に被害はなかったそうです。しかし、木々が散乱し入口階段など登れないほどだったということです。

 

 

・・・喜び勇んで「壷井八幡宮」にやって来ましたが、「手水舎」は平成元年に改修されていました。あらら~、またまた手掛かりが途絶えてしまいました。