《遥かなり道頓堀》著★三田純市
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江戸時代の大坂・道頓堀には50、60軒ほどの★芝居茶屋があったようです。しかし、近代になって観劇システムの変化もあり、大正から昭和初期には十数軒にまで減っていました。★三田純市さんは、この道頓堀の芝居茶屋の生まれでした。角座という劇場の向いにあった★「稲照(いなてる)」という芝居茶屋の息子さんです。三田さんのおばあさんのテル(照)さんが、中座脇にあった★「稲竹」から暖簾わけして、1916年(大正5)に開業されたといいます。当時、道頓堀の通りの浜側(川の方)には、紙幸、稲照、柴田、高砂、近安、堺利三、堺重、松川、三亀、大儀、兵忠、大佐、大彌といった芝居茶屋がありました(1920年頃=大正9)。すでに13軒にまで減っています。『遥かなり道頓堀』は、二代目實川延若と道頓堀、そして芝居茶屋の明治・大正・昭和を描き出したものです。物語仕立てです。一方、『上方芸能』は、「≪観る側≫の履歴書」という副題がついた随筆集。三田さんが観た芸能を中心に、回想と評論がないまぜになって記述されています。
【三田純市】(1923~1994)
1923年(大正12)大阪ミナミ道頓堀の芝居茶屋★「稲照」の長男に生まれる。1946年、慶應義塾大学経済学部卒業。朝日新聞社販売部に勤務、1951年に退社。松竹新喜劇の曾我廼家十吾、2代目渋谷天外に師事し喜劇の台本を手がけるようになる。1967年から1982年には東京に在住し、1969年には東京やなぎ句会の創設に参加。1975年著書『道頓堀』により芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1986年大阪市民文化功労表彰を受ける。1993年著書『昭和上方笑芸史』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1994年勲四等瑞宝章授章。同年逝去。著書に『道頓堀』『遥かなり道頓堀』『道頓堀物語』『笑福亭松鶴』『御堂筋ものがたり』『上方喜劇』『昭和上方笑芸史』などがある。
・・・この本はぜひ読みたいので、注文しました。
《稲竹・稲照》「芝居とジャズと、宵待柳(道頓堀今井の200年)」
文:長谷川信正(元毎日新聞記者)より
芝居には幕間がある。当時はこれがやたらと長かった。2時間はざら。時には3時間を超えることもある。客らは芝居茶屋に戻ってこの時間を過ごす。飲み、食べ、語り、その世話のすべてをお茶子がした。時には桟敷の客の席に飲み物、食べ物を運んだ。芝居茶屋には3~4人のお茶子がいた。「おちょぼ」と呼ばれる女の子もいた。12、3歳で、いわばお茶子見習いである。茶屋の使い走りをしながらお茶子の仕事を覚えていくのだ。茶屋の男といえば、帳場に座る旦那だけである。その意味では、そこは女の世界だ。得意客のチケットの手配から指定席の座布団の用意まで、すべてがお茶子の仕事だ。それぞれの茶屋のトップのお茶子は女番頭とよばれ、お得意さんの注文によっては、他の店の女番頭とやりあい、席の融通のしあいまでこなした。客からいただく心づけ(チップ)は女番頭が受け取り、月末ごとにお茶子全員に分配した。何から何までお茶子の仕事で、旦那はお茶子の働き場所を提供しているだけ、といった風情でもあった。「今井」の2代目、たけが経営した★「稲竹」も、たまたま女性経営者がいただけで、お茶子がすべての世界だった。江戸から明治への変わり目をしのいだ3代目、今井佐兵衛の時代も、芝居小屋と芝居茶屋の持ちつ持たれつは続いた。★鴻池家が「稲竹」の得意先となったのもこんな時期だった。江戸・文化文政から天保の時期ににぎわいのピークを迎えた道頓堀が、明治のある時期には、それを上回るにぎわいに酔ったのである。
「遥かなり道頓堀」という小説は、「今井」の2~4代目が経営していた芝居茶屋「稲竹」の営業権を譲り受け、戦後まで★「稲照」を経営した野村照さんを祖母に持つ作家★三田純市さんがお書きになったもので、大正期から昭和の道頓堀と、芝居茶屋の実相を正確に写し取った貴重な資料です。
新聞小説を原作とした演劇の上演は1875年(明治8)ごろから始まり、1887年ごろにはその流れが定着し、大正、昭和初期へと受け継がれました。その中心にいたのが大阪朝日新聞記者で小説家★宇田川文海でした。1882年(明治15)9月、中座で上演された「盛名橘北国奇談」は、その年の大坂朝日に連載された宇田川の小説を脚色改題して上演されたものですし、1884年(明治17)に戎座で上演された「若緑二葉松」は同じく大阪朝日連載の宇田川の小説「勤王佐幕巷説二葉松」を脚色したものでした。さらにすごいのは翌1885年(同18)、シェークスピアの「ベニスの商人」が宇田川の手で「何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)」の題で翻案され、大阪朝日新聞に連載中の5月に、戎座で芝居化されたことです。シェークスピア劇の本邦初演といわれるものなのですが、間もなく、脚本を少し変えたものが朝日座でも上演され、奇しくも、シェークスピア劇が道頓堀で競演されることになりました。
・・・ネット上に掲載されているので有難いのですが、自費出版もされたようなので、ぜひ入手したいものです。
【長谷川信正】(1943~)
1943年生まれ、福島県会津若松市出身。早稲田大学第一文学部国語国文学科を卒業、毎日新聞社に入社。事件、行政、教育分野などを担当。デスク時代には文章教室の講師などを務めた。また、朝のワイドニュース番組にコメンテーターとしてレギュラー出演、やさしい語り口で人気を集めた。退職後は、著述業を中心とする「NH企画」を設立。記者時代の体験と文章力を生かした講演・執筆活動のほか、最近は「経営者のための文章講座」を開講、若手経営者らに好評を得ている。
《大阪繁昌誌》著★宇田川文海、長谷川金次郎1898年刊1975復刻
幼いころの流行病による両親との死別、一家離散、丁稚となり、文才を認められ、仏教の道。幕末の争乱巻き込まれた一生に残る傷。離散した兄と印刷との出会い、地域新聞の先駆けと失敗等、さまざまな逸話に、人に歴史有りとはいいますが、数奇な運命を強く感じます。彼が残した大阪繁昌誌は、大阪の郷土史の功績も大きく、また、地域に対するこだわり、愛情、文章力、様々な事が伝わってくるようです。挿絵は、最初の大阪の町の図が数点あるだけですが、名所だけでなく、風習や、名物の他、江戸の大阪でのくらしが目に浮かぶような、銭湯、金魚、虎屋の饅頭、茄子、焼き芋、西瓜の話題が気になりました。漢文調で解釈が必要ではありますが、字が明確な為、読む事ができると思います。何かと、注目されている大阪の歴史の一端を知る為にもおすすめの文献です。
◆目次
●巻之上/富家銀主、望岳酒、豐臣太閤、萬歳樂、司命索-シメナワ、七菜粥 附春駒、十日蛭兒、引繩、赤豆粥 附八幡信貴二廟祭、茶臼山、一心寺、安居天神、清水寺、浮瀬樓、庚申堂、天王寺、巫女街、樂人街、吉祥寺、隆専寺、寺街、開帳、生玉、高津 附豆腐異名、★道頓溝(道頓堀)、桃谷、産湯、玉造、上午、網島大長寺、片街魚市、櫻祠、鶴滿寺、長柄、天滿菅廟、天滿菜市、八軒屋、懸鐘街、古林見宜宅、附老狸記、高麗橋賣○戸-呉服屋、虎屋饅頭肆、饅頭異名、伏見街蠻器肆、道修街藥舗、鳥屋街、學校、堂島米市、靱街鮑魚
●巻之中/西本願寺、東本願寺、坐摩、順慶坊、心齋橋書林、賣石家、附石屏風、四橋、新町橋、九軒、長掘材木市、沙塲 附白麺 ウドン異名、鰹座 附白髪街觀音佛并松魚説、阿彌陀池、松岬 附朝鮮人墓、川口、瑞見山、天保山、安治川、玉江橋、雜喉塲、福嶋逆櫓松、寒山寺、金魚戸 附金魚異名、吉介牡丹、附牡丹異名、權現祭、野田藤花、浦江燕子花、附燕子花異名、大仁村、附渡唐天神説、祈晴僧、梅雨、附蘇葉及梅實異名、茄田、附茄子異名、住吉舞、撃皷童、御靈祭、稲荷祭、天神祭、附菅丞相論、西瓜店 附西瓜異名、浪華橋納涼、角觝塲、心齋橋、浴肆、フロヤ
●巻之下/★道頓港戯塲、俳優、尤海○波、法善寺、日本橋、辨天蓮池、附蓮花異名、眞言坂、高津新地百家巷、賣○翁、鬻蟲燈、盂蘭盆、中元謁墓、堤望火字、地藏祭、附地獄論、瀬戸物街、施餓鬼、圓頓寺、附胡枝花異名、大阪城更鎮、木津川釣鯊船、鐵眼寺、阿福茶店、豹(駱駝)、天下茶屋、住吉、阿部野、附楠新田二公論、壽法寺、奢必麼○破落飛、牡蠣船 附蠣異名、越後獅子、山鳥舗、顔觀、焼藷燈、附蕎麥蜜柑薩芋等異名-焼き芋、胡羅蔔 ニンジン 附異名、嗟來粥、梅莊、附梅花異名、藏菜、搗餅、掃煤、除夜、節分、禳厄-厄払い、感懷、通計一百三十首
・・・この資料も興味深いのですが、図書館で探すしかないようです。
《関西大学なにわ大阪研究センター》データベースより
http://haya.bitter.jp/label/map.php
★「地籍台帳・地籍地図[大阪]1911年(全8巻)」
監:宮本又郎/解題:名武なつ紀/柏書房2006/12/01
http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b228430.html
戦前の大阪で発行された★唯一の「地籍図」を完全復刻。「大阪地籍地図』(1911年、吉江集画堂発行)の復刻版。大阪市の旧区(東区、西区、南区、北区)内とその隣接町村における地図776面を収録。各地図と対応する土地台帳には、地目・坪数・反別・等級・修正地価・所有者・住所・姓名などが掲載されており、当該期における土地の所有者情報や利用状況までが分かる、極めて重要な資料。(本体180,000円+税)
・・・露香さんは1908年没ですから、この1911年(明治44)の地図なら★「得田屋」が掲載されている可能性が高いと思われます。高価な本ですから、これも図書館で見るしかありません。