《戎橋》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000021695.html
https://www.ebisubashi.or.jp/sp/ja/index.html
戎橋は、道頓堀川の開削とほぼ同時に架けられたと考えられる。橋名の由来は★「今宮戎」との関連が考えられるが定かではない。また橋の南側に操り芝居の小屋があったことから操橋(あやつりばし)とよばれたこともあった。さらに明治維新の直前、慶応3年(1867)に幕府が“戎”という★外国人をさげすむ言葉の使用を禁止、一時的に永成橋と改名されたこともある。戎橋は今宮戎への参道にあたり、また千日墓地への墓参や橋の南側にできた芝居小屋などへ行く多くの人々に利用されてきた。橋の維持管理は周辺の町が担当。記録によると元禄7年(1694)の修理工事から明治11年(1878)に鉄橋に架け替えられるまでに13回の修理および架替工事が行われた。架替前の戎橋は大正14年(1925)に架けられたもので、70余年経過し老朽化が進行しているため、道頓堀川水辺整備事業に併せて架替を行った。戎橋は心斎橋筋の利用者のみならず観光客に親しまれてきたことから、国内外を対象にデザインコンペを実施し広くアイデアを募り、その最優秀作品に基づき、架替事業をすすめ、平成19年11月に橋梁部が完成した。現在の戎橋は、円形を基本とした橋上広場で劇場性を表現しつつ、広場に沿ってスロープを取り入れることで、水辺へ降りながら移りゆく景色を眺める楽しさなどを考慮し、このようなデザインとなった。今後も、多くの利用者に親しまれる戎橋を整備することによって、水辺整備とあいまって道頓堀川の賑わいのある景観の創成、さらには御堂筋の新たな魅力の向上を図ります。
《参考》「えびす」
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/tai-03-b.html
「渡来人」という意味でもありますが、大陸の王朝からしますと、周辺の諸民族としての蔑称でもあります。
《NEWS》2007.11.21なんば経済新聞より
観光名所としても知られる、大阪・ミナミのシンボル「戎橋」の架け替え工事が11月22日に完成し、記念式典が開催される。新しい「戎橋」は、デザインコンペにより国内外からアイデアを募り、最優秀作品に選ばれた★観光名所としても知られる、大阪・ミナミのシンボル「戎橋」の架け替え工事が11月22日に完成し、記念式典が開催される。 新しい「戎橋」は、デザインコンペにより国内外からアイデアを募り、最優秀作品に選ばれた小野泰明さん(広島市)の作品を採用した。ミナミのにぎわい創出する丸い形のバルコニーを橋上に設置、通行機能に加え憩いや集いの場としての利用を図るほか、水辺遊歩道「とんぼりリバーウォーク」へ直結するスロープと階段の設置により道(橋)と川面のつながりを強め、「水都らしさ」を演出する。橋の下面には円形のLEDを施し川面に光の輪が映るようにしたほか、大正時代の橋の一部分を保存するなど、「歴史と文化を継承した」(関係者)ものとなった。)の作品を採用した。ミナミのにぎわい創出する丸い形のバルコニーを橋上に設置、通行機能に加え憩いや集いの場としての利用を図るほか、水辺遊歩道「とんぼりリバーウォーク」へ直結するスロープと階段の設置により道(橋)と川面のつながりを強め、「水都らしさ」を演出する。橋の下面には円形のLEDを施し川面に光の輪が映るようにしたほか、大正時代の橋の一部分を保存するなど、「歴史と文化を継承した」(関係者)ものとなった。
・・・この新デザインは、戎橋からの飛び込みを防止するネライもあるようです。
★「今宮戎神社」
https://www.ebisubashi.or.jp/feature/feature42.html
宝恵かご20台、総勢500名の大行列/江戸時代に始まったミナミの一大イベント
今宮戎神社天照皇大神・事代主命(ことしろぬしのみこと=えべっさん)・外三神をお祭りしています。聖徳太子が西暦600年に四天王寺を建立する際に、その西方を鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。左脇に鯛を右手に釣竿をもつ戎さまは、漁業の守り神で、福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになりました。
二百年以上前、大阪ミナミの芸妓衆が派手にカゴをくり出して「今宮戎神社」に参詣したことに始まります。 最盛期は明治・大正・昭和の戦前、百挺ものカゴが華麗を競ったといいます。芸妓をはじめ、ときの著名人、たとえば二代目中村鴈治郎が中村扇雀だった頃に行列に加わると、盛大に賑わったといわれます。伝統は今日に引き継がれ、芸妓衆、文楽人形、松竹新喜劇、松竹芸能、吉本興業のスターやタレントたち、野球や柔道の選手をはじめスポーツ界の人たち、福娘、ミナミの商店街が参加します。
※「戎橋 白粉紙を 散らす恋」「友だちは ええものと知る えびすばし」
作★岸本水府
欄干北側の銘板に岸本水府の川柳、★小出楢重が描いた戎橋の絵には「松竹座」が描かれている。岸本水府は初代中村鴈治郎の「心中天網島」の場面を詠んだ「頰被りのなかに日本一の顔」と「一粒300メートル」の作者(コピーライター)でもあります。
【岸本水府】道頓堀川柳会
・・・「南地五座」には含まれていませんが、
《松竹座》
542-0071大阪市中央区道頓堀1-9-19/06-6214-2211
https://www.shochiku.co.jp/play/theater/shochikuza/
ネオ・ルネッサンス様式の正面大玄関のアーチが特徴的な大阪松竹座は、大正12年(1923)、松竹の創業者・白井松次郎の手により、日本初の洋式劇場として誕生しました。イタリア・ミラノのスカラ座をモデルに、大林組の設計技師・木村得三郎が設計した日本初の鉄骨・鉄筋コンクリートの映画館であり、大阪初の洋式劇場として、同年5月17日に開場した。大阪の洋画の殿堂として優秀な外国映画を封切してきましたが、平成9年(1997)に新築開場してからは、芝居街・道頓堀の伝統を今につたえる劇場として、歌舞伎公演をはじめ、松竹新喜劇やミュージカル、レビューやコンサートなどを上演しています。大阪松竹少女歌劇(後のOSK日本歌劇団)の本拠地としても知られています。平成9年に外観を残したまま内装工事を経て最新設備を備えた大阪松竹座に生まれ変わる。
・・・ここまで道頓堀「南地五座」を調べてきましたが、露香さん贔屓の「得田屋」に関する情報を得ることはできませんでした。次に「茶屋」で調べます。
《連載「美術都市・大阪 発見」第五回》2007.6.30季刊誌CELより
繁華街の装飾術―芝居町、モダン道頓堀―/文★橋爪節也
http://www.og-cel.jp/search/1176412_16068.html
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3008
芝居町はどのように彩られるのか。役者絵や芝居絵などは言うまでもなく、一つは芝居小屋の表に掲げられる大きな絵看板がある。大阪では現代まで五代つづく浮世絵師・長谷川貞信が得意とした。また道頓堀の浜側に★芝居茶屋が並ぶのも芝居町らしい景観だった。紙幸、稲照、近安、三亀、松川、兵忠、大彌などの茶屋の軒先に提灯が連なる。このなかに美術と関係深い茶屋がある。三亀の主人が日本画家の大塚春嶺、その次男が舞台美術家・大塚克三であるし、大彌は後に「ダイヤ画廊」となった。
《参考》「いろは茶屋(水茶屋)」
https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/daitenji/doton/doton4.html
元禄10年(1697)、46軒の水茶屋が許可されたことにより、それ以前からのものと合わせて58軒のいわゆる「いろは茶屋」が誕生した。初期の小屋には屋根がなかったので、公演の途中で急に降雨となったときなどのため実質的な必要に迫られてできたものであったが、後には長い幕間の休憩や食事の便などの総合的なサービスを提供するものとなった。当時は、劇場で直接客に販売されたのは平土間の席のみで、上等の客は観劇する際には茶屋を通して切符を買い、案内や幕間の休憩、飲食などすべて茶屋を通して行なわれるシステムであった。明治頃までは道頓堀川から茶屋の裏手へ舟で乗りつける客もあり、この場合観劇は前夜から丸一日掛かりの大行楽であった。丸盆、弁当の棚をさげ、赤い前垂れをしてかいがいしく通を行き来する「お茶子はん」の姿は茶屋が近年になって衰勢に向かうまで長らく道頓堀の名物ともなっていた。
《大阪歴史博物館》
第88回特集展示「新発見史料からみる江戸時代の道頓堀」
平成25年11月6日(水)~12月16日(月)
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2013/doutonbori.html
平成24年3月、大阪歴史博物館では、静岡県袋井市の遠藤亮平氏宅で見つかった古文書242点(遠藤亮平・安井洋一氏蔵)の寄託を受けました。当館と大阪市立大学文学部日本史学教室でこの古文書を詳しく調査したところ、そのほとんどが当館で所蔵する「安井家文書」と元々は一体の文書であることがわかりました。「安井家文書」は、道頓堀川の開発に関わり、江戸時代大坂三郷南組の惣年寄をつとめた安井家に伝来した古文書で、江戸時代初期の大坂の様子を具体的に知ることのできる貴重な資料として大阪市有形文化財に指定されています。なお、遠藤・安井両氏は、大坂の安井家の一族で、江戸時代の囲碁界における四棋家の一つで安井算哲(さんてつ)を初祖とする安井家の末裔に当たります。今回新たに発見された古文書は江戸時代全般(17~19世紀)に及び、道頓堀川開削まもないころの土地台帳や、17世紀中ごろの★大絵図など古い時期の土地や開発関係の資料が数多く含まれています。また、18世紀の芝居に関する資料などもあります。17世紀の大坂に関する古文書が新たに大量に見つかるケースはほとんどなく、今まであまりよく知られていなかった江戸時代前半の道頓堀の様子が具体的に明らかになる貴重な資料です。
★「道頓堀川大絵図」明暦元年(1655)5月28日
・・・昔の人は、こと細かに記録し残しておられます、脱帽。当然、この頃に「得田屋」さんはありません。さらに、明治の資料を探します。