・・・壷井八幡宮「手水舎」で「得田屋」さんを確認することができず、ひょっとしたら道頓堀「出世地蔵」のところに何か手掛かりがあるのではと、
《出世地蔵尊》
http://tenyusinjo.web.fc2.com/shutusejizouson.html
道頓堀川に架かっている「新戎橋」南詰めに、★『出世地蔵尊』があります。アメリカ村の南に位置するこの東西の通りは現在道頓堀2丁目となっていますが、町名変更以前は★『九朗右衛門町』と呼ばれていました。江戸時代には北岸の宗右衛門町とこの地は二大花街として栄えました。この地の橋は、戦災で焼け落ちた後、1951年(昭和26)朱色の欄干で再架橋されました。現在の新戎橋は1963年(昭和38)に架けかえられ、2008年(平成20)には改修工事が完成しましたが、先代の橋の欄干が朱色であったことから、同様に欄干には朱色が取り入れられています。太平洋戦争によって地蔵尊の行方が分からなくなりましたが、終戦後数年経って地蔵尊が見つかったことを記されています。
https://matome.naver.jp/odai/2141385412253943501
同様に、行方不明となった『カーネルおじさん』が24年後の2009年に、目と鼻の先の新戎橋のほぼ直下で発見されました。何か浅からぬ因縁があるのでは、と思わずにはいられませんね。
・・・残念ながら、ここにも「得田屋」さんの手掛かりはありませんでした。新しく整備することはとても大切ですが、古いものの「カケラ(手掛かり)」を少しは残しておいてほしいものです。さて2014.1.1に掲載された古~い論説ですが、
《NEWS》2014.1.1産経WESTより
「道頓堀プール」大正時代すでにあった“構想”、それより欲しいのは「博物館」★橋爪節也さん指摘
平成27年を目標に、大阪・ミナミに全長800メートルのプールを設置する「道頓堀プール」。計画の発案者は、大阪府市特別顧問の堺屋太一氏だ。30億円かかるといわれる建設費や、技術面・衛生面、行き交う観光船や祭りの調整など課題は多い。「ほんまにできんの?」。当の大阪人たちがいまだに信じられないでいる。大阪生まれの大阪育ちの文化人は、「道頓堀プール」についてどんな思いでいるのだろうか。大阪大学総合学術博物館★橋爪節也館長に原稿を寄せてもらった。大阪人の想像力というか妄想力-。“夢見る力”を証明していて面白いのが、大正8年5月号の雑誌★「道頓堀」の「大正九十年の道頓堀」と題された随筆とイラストだ。大正90年の道頓堀を描いたと称するSFみたいなドキュメンタリータッチのイラストと文章による夢物語である。イラストをご覧ぜよ。大正90年の道頓堀には、櫓をあげた巨大な劇場があり、建物を結ぶ空中通路が錯綜する。建物もスパニッシュ風で、道頓堀に降りる階段があり、噴水から水が噴き出す。これはどうも、臭さを消すための香水噴水らしい。ロープーウエーやリフト、観覧車やウオーターシュートがあり、エレベーターで降りると川の下に地下鉄が走っている。文章も面白い。《何でも私の祖父の話ですが-私の祖父は当時のハイカラだして、その時分には、道頓堀改良に随分骨折つたものだつたさうです》。冒頭からスロットル全開で飛ばしていく。そしてプールだ。《道頓堀川ときたら、その時分は泥水に尿水などが混じて衛生上迚も今の人間には辛棒出来ない程度のもの(略)…何しろ道頓堀を埋めろとか鉄板で蓋をしろとか議論もあつたさうですが、結局今のやうに、川は川として残すことになつたのです》そこで《銀と大理石で千弐百万円を投じた戎橋の中央にある水泳場の塔などは勿論その当時は夢にも見られなかつたでせう》と水泳場が登場する。空想物語とはいえ、現在の「道頓堀プール」の発想は大正時代にあったのだ。
現在、「太陽の塔」が何かと話題だが、大阪人はEXPO’70を正面から検証してこなかったという思いにかられる。大阪万博をモチーフに仮想の現代社会を描き、映画もヒットした漫画『20世紀少年』の作者・浦沢直樹も東京人だった。大阪大学で、シンポジウム「大阪万博40周年の検証」を平成22年に開いたのも大阪の歴史の再検証は大阪人が行うべきという思いからであり、私は万博プロデュースにかかわったSF作家・小松左京さんのインタビューに参加した。小松さんの最後ともいえるインタビューだった。経済見本市としての博覧会ではなく、文化芸術の博覧会で戦後復興を世界にアピールしたと語る熱気と気宇は壮大であった。没後も小松さんの遺品から発見された「万国博を考える会」の記事録などを見ると、「通産省の出している青写真、しょうもない」として、民間で万博をいかに面白くするか知恵をしぼったか分かるし、閉幕後は国連本部を跡地に誘致しようという話まであったことが記録されている。
最近の大阪は、小松左京さんのようなスケールある巨人がいなくなり、語られる“夢”も小粒になった。夢や感性の冴(さ)えといったものが感じられない。小松左京さんのような人材を失って以降、その日暮らしに汲々とし、大阪は人材さえも消耗し続けているのかもしれない。こうなった原因の一つには、指導的立場の人も含めて大阪人が歴史や文化芸術を軽視し、理解する姿勢が弱いこともある気がする。商工会議所の「大阪検定」は人気があり、芝居町として発展した街の歴史に詳しい人も増えたが、大多数の大阪人に道頓堀のイメージは、イルミネーションがギラギラした引っかけ橋であり、阪神優勝★ダイブであり、粉もんの街である。大正から昭和つまり“大大阪”時代の道頓堀は、名優が芸を競った中座、角座、浪花座ほか5つの劇場★「道頓堀五座」の街であり、芸事の花街である宗右衛門町や、百貨店に老舗が並ぶ心斎橋筋、庶民的な千日前が連なり、南地(みなみ)は賑わっていた。性格の異なる盛り場を回遊する愉しみの尽きない、エンドレスの無限繁華街とでも呼びたい地域だったのである。それにしても「大正九十年の道頓堀」で圧倒されるのは、大正の大阪人の発想である。「大正九十年の道頓堀」とは、計算すれば20011年、つまり平成13年の道頓堀のことである。そう考えるとこの文章、必ずしも奇想天外や荒唐無稽ではなく、タイムスリップした現代人が書いた平凡な内容に思えてこないでもない。しかしまた攻守交代して、2001年ごろあなたはなにをしてました?と問われたらこんなイメージ豊かに未来の大阪を夢想できただろうかは疑問である。道頓堀について“夢”を語れば、私は「南地」★文化博物館を作ったらどうかと思う。人口比に対して大阪府は博物館の数が全国の都道府県で最下位★美術館数も46位である。一念発起して、人形浄瑠璃から歌舞伎や新派ほか芸能や、映画、美術、文学、音楽をはじめ、「南地」の生み出した文化的所産が分かる拠点を作り、芝居茶屋や御茶屋の体験もできるようにすればよい。現代の大阪が喪失したのは、地元の文化芸術に根ざした郷土と先人への畏敬と愛情だろう。小松左京さんも世界から宇宙にまで広がるダイナミックで鋭い洞察とともに、故郷大阪に対する深い愛情を抱いていた。人影のない海岸にグリコの看板の手だけが突き出てる「猿の惑星」のような未来の大阪にならないよう、新しい年にこそ、歴史的蓄積の厚みを踏まえ、大阪らしい研磨された真の空想力、想像力を発現しなければならないのではなかろうか。
《参考》2013年4月に地元商店主らが1400万円を出資し、準備会社を設立しました。10月に大阪の道頓堀にプールを作ろうという「道頓堀プール計画」が発表され、しかし必要資金約30億円の資金集めは難航し、長期間にわたって営業するために必要な運営会社の主体企業も見つかりませんでした。2016年1月、計画中止がひっそりと発表されました。
・・・さて、注文していた★橋爪節也さんの本が届きました。
《モダン道頓堀探検》編:橋爪節也/創元社2005
https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=3008
編者が古書展で発見した雑誌★『道頓堀』(大正8~9年頃)に掲げられた道頓堀の街並みを写したイラストは実に克明で、圧倒的な情報量を持っている。そこで5人の学芸員(美術史、考古学、近代史、芸能史)が調査団を結成、この絵の中にとびこみ、当時の劇場、飲食店、カフェーから橋、交番、公衆便所、道の動物に至るまで、蘊蓄を傾けて考証、解説した読み物が120篇。珍しい図版も満載で、モダン都市大阪・道頓堀の意外で不可思議な姿を生き生きと再現。
・・・橋爪節也さんが古書店で★偶然発見した月刊雑誌「道頓堀」第18号(大正9年)、その時の感動が凝縮されワクワクする本です。雑誌「道頓堀」をもとに、いろいろ調べてみることにしました。