・・・平瀬露香が贔屓にしたのが「得田屋」(★西櫓町/現在の道頓堀)です。
《参考》「大阪の町名」編:大阪町名研究会/清文堂1977
現在宗右衛門町として一つに括られている所は、かつての長堀橋筋二町目、千年町、玉屋町、笠屋町、畳屋町、心斎橋二町目の六町の南端と宗右衛門町の全部でした。さらに明冶5年以前は、同じ区域が油町三町目、酒辺町、南塗師町、道頓堀御前町、道頓堀布袋町、菊屋町の六町の一部と道頓堀宗右衛門町の全部でした。道頓掘の南側現在道頓堀1となっている所は東櫓町、★西櫓町、こちらも明冶5年3月17日以前の町名は道頓堀吉左衛門町・道頓堀立慶町の一部でした。町名をみれば、この辺りに昔どういう商売があったか、どういう人がかかわったかがわかります。
※「道頓堀八丁」
道頓堀開削とともに成立した8町。島之内南端の北岸に西から久左衛門町・御前町・宗右衛門町・大和町。芝居小屋が並ぶ南岸に西から湊町・九郎右衛門町・吉左衛門町・立慶町。現在も宗右衛門町と湊町の2町名が残っている 。
《参考》残念石で建立された「道頓堀紀功碑」
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/016.html
日本橋の北詰。ここに道頓堀開削の功労者を讃える大きな紀功碑が建っている。紀功碑建立のきっかけは、大正3年(1914)に天皇陛下が大阪を行幸された際のこと。行幸地にゆかりのある人物に贈位が行われるのが慣例で、このときも南北朝時代の武将・楠木正季や楠木正時、別子銅山を発見した住友家中興の祖・住友友芳らと共に、大坂南組の惣年寄・安井道卜にも従五位が贈られた。その記念として、翌4年(1915)に道頓堀の近くに石碑が建立されることになったのである。発起人は明治維新の元勲・大久保利通の三男で大阪府知事であった大久保利武。紀功碑の顕彰文は大阪朝日新聞の主筆でコラム『天声人語』の名付け親として知られる西村天囚によるもので、多くの碑文を手がけた天囚のものでも、とりわけ美文であるといわれている。平成25年(2013)、大阪市は紀功碑が老朽化して崩落する危険があるとして撤去を決めたが、地元の商店会や町会が保存運動を展開して修復された。同26年(2014)7月12日の修復記念除幕式には、上方落語や国立文楽劇場の重鎮に加え、大阪ミナミ400年祭実行委員会や道頓堀商店会などの関係者が参加し、修復・保存を喜びあった。紀功碑は3m近くある大きなもので、大坂城の「残念石」が使われている。残念石とは、大坂城築城の際に西日本各地から巨石が運ばれたが、当時の輸送技術が未熟であったために、大坂にたどりつくことができなかった石である。
・・・「道頓堀紀功碑」の土台に建立に関わった町名が刻まれており「西櫓町・東櫓町」もありました。道を隔てて「長堀橋筋1~2丁目」旧町名継承碑が建っています。
《参考1》「南地大和屋」https://blog.goo.ne.jp/luckyhillson/e/f5c74ac723834532421bf1c9b121664c
今から140年ほど前に創業した「南地大和屋」は、道頓堀川に架かる太左衛門橋の北、宗右衛門町通りを少し北に入った場所にあった。1959年の住宅地図には、「大和屋(芸妓扱所)」と書かれている。南地大和屋ビルは、2003年10月に閉鎖され、大和屋の店舗としては高島屋大阪店内「大和屋三玄」、そごう心斎橋店「大和屋」の他に東京横浜に3店舗が残るだけとなった。今では大和屋に仕出しを届けていた吉兆のほうが有名になってしまっているが、明治から大正、昭和40年代まで大阪では超一流のお茶屋であった。1951年、大和屋3代目の阪口祐三郎は、南花街組合を結成し初代組合長となり、1953年には全国花街連盟の初代会長になっているほどである。ミナミの大和屋を贔屓にしていた有名人は数多いが、代表的な人物として電力業界の松永安左ヱ門(1875~1971)、永野重雄(1900~1984)新日鉄会長、小泉信三(1888~1966)慶應義塾塾長、司馬遼太郎(1823~1996)などがいるという。司馬は年に二回、関西在住の作家、田辺聖子や陳舜臣と語らい、編集者にも声をかけ、「大和屋」で芸者をあげて宴会することを恒例としていたという。1984年に4代目を継いだ阪口純久さんは、今も全国に大和屋5店舗を展開する(株)季之三玄の社長で、2000年には大阪市民表彰を受けている。祐三郎から店を継いだ阪口純久さんは、一時大和屋の地下を改装し、高級ナイトクラブ「酒肆・大和屋」を新たに開いたことがある。すぐ近くの料亭で仲居をしていた尾上縫が、自分の店の屋号を「酒肆・恵川」としたのは、伝統と格式のある大和屋のネーミングにあやかったのかも知れない。阪口祐三郎の弟・阪口金蔵氏が創業したのが、天王寺にある「阪口楼」で、今も営業を続けている。
※「阪口楼」
543-0063大阪市天王寺区茶臼山町1-30/06-6771-3522
※「大和屋本店」
542-0082大阪市中央区島の内2-17-4/06-6211-3587
https://www.yamatoyahonten.co.jp/
道頓堀東側、日本橋たもとの観光ホテル「大和屋本店」と「南地大和屋」は関係がないようです。
《参考2》「たに川」
542-0082大阪市中央区島之内2-4-29/06-6211-2219
https://ochaya-tanigawa.amebaownd.com/
大阪南地・島之内にある「たに川」は、 南地花街の伝統を引き継ぐ唯一のお茶屋です。もともと芸妓だった谷川恵美子さんが料亭を買い取り創業したもので、「昭和63年に、黒塀の木造二階建てを四階建てのビルに建て替えました。その中に数寄屋造りのお座敷を設けたんです。4部屋の個室を備えています。全盛期の頃、ミナミに5、600軒あったお茶屋も、今では1軒だけになりましたね。だから低料金にして、利用客を増やしたいと思っています」(初代の谷川恵美子さん)
二代目の恵さんが“若旦那”としてお店に入るようになったのは2002年のこと。「お茶屋は、寺社の門前などで湯茶を提供したのが始まりです。販売するのは女性のほうがよい、飲食もできたほうがよい、さらに唄や踊りも提供しようと発展してきました。始まりが料理屋ではないため、現在でも板前は置いていません。客の好みに応じて、懐石、松花堂弁当からたこ焼き、お好み焼き、カレー、ラーメンまで、ほんとに何でも取り寄せることができます。利用に決まりはなく、食事会、マージャン、稽古場など、要望に応じてアレンジしています。」(谷川恵さん)
《国立国会図書館》「写真の中の明治・大正」大阪道頓堀
掲載資料:浪花名勝/刊行年:明治43(1910)/大阪市南区東櫓町★西櫓町
http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/65/index.html
明治末年、ちょうどこの写真が撮影された時期の道頓堀の様子を、大阪出身の評論家、高須芳次郎(梅渓1880~1948)は愛着を込めて次のように綴っている。
http://www.ndl.go.jp/scenery/column/kansai/dotonbori_neighborhood.html
「・・・道頓堀の附近には、自分の身心を魅する多くの歓楽的分子がある。古名優の面影をその儘に見るやうな雁次郎の芝居を始め四、五の劇場が昔のまゝの古い櫓を聳やかして、幟、旗、小提灯等、大阪風の強烈な色彩に塗抹された絵看板と共に、妙に人を誘る。而して劇場の前に列んだ芝居茶屋の細長い角行燈や、芝居と芝居の間に散在する旗亭や、小料理屋や、『まむし』とか『小田巻』とか書いたウドン屋の看板や、冬には蒸寿司を売る鮨屋や鯛味噌を売る丸萬の蒲鉾店や何れも大阪特有の地方色を帯びた家が、東京に馴れた者の眼には、何となく妙奇心を動かす原因となつて、鋭く、味覚、色覚を刺戟する・・・」(高須梅渓『スケッチ文集』明治45年刊)
《道頓堀写真館》
http://www.dotonbori.or.jp/ja/photo/index.html
※明治時代の道頓堀
http://www.dotonbori.net/history/history.html
1872年 明治5年 文学軒・人形浄瑠璃定うちの小屋、松島文学座、松島新地入口、千代崎橋の裾に建つ
1876年 明治9年 豊竹若太夫の芝居から出火、東に伸びて竹田の芝居まで焼く
(1月)大西の芝居の隣家より出火、大西、中、角、の芝居まで
全焼(2月)竹田の芝居より出火、類焼12軒におよび、焼死者
59人の惨事(4月)豊竹若太夫の芝居改め阪恵座開場(5月)
竹田の芝居新築後、弁天座と名乗る
1884年 明治17年 角座の改築落成披露盛大に開かれる
1887年 明治20年 戎座、浪花座と改める
1891年 明治24年 角藤一派、浪花座進出
1892年 明治25年 角座対浪花座。角座の5代目尾上菊五郎対、浪花座の初代市川左團次の対抗。見物人も両派に分かれて大騒ぎとなる。
1897年 明治30年 角座と弁天堂で活動写真公開
1904年 明治37年 浪花座焼失 中座で日露戦争の実写上映される
山中定次郎、米国エジソン社よりフィルム購入
★平瀬露香(1839~1908)さんは、明治41年2月8日に亡くなっています(70歳)。
1909年 明治42年 文学座は松竹の傘下となる
1911年 明治44年 朝日座、道頓堀で一番早く映画館に転向。
http://soemon-cho.com/active/history/
・・・★相生橋筋を境として東が「東櫓町」、西が「西櫓町」で「道頓堀5座(角座、浪花座、朝日座、中座、弁天座)」のうち「弁天座」以外の★4座がありましたので、大阪で最も賑やかな街の料亭「得田屋」に平瀬露香さんは出入りしていたわけです。「西櫓町」の「旧町名継承碑」は見つかりませんでしたが、「東櫓町」が見つかって良かったです。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000021728.html
《旧町名継承碑》「東櫓町」
明治6年11月道頓堀櫓町のうち★相合橋筋を境界とした東側が「東櫓町」となる。その後、町は南区や大阪市に編入され昭和57年2月住居表示の実施にともない「東櫓町」は道頓堀一丁目の一部となった。町名の由来は「櫓芝居」が興行される道頓堀の東部に位置する事から。「櫓芝居」というのは国や政府から許可を得た公式の芝居小屋という意味です。江戸幕府が大坂を直轄領とし、市街地の拡張策をとった時から道頓堀の町づくりが始まります。1619年、安井九兵衛が大坂三郷南組総年寄となり、1626年頃、芝居小屋を道頓堀に移転させたことにより道頓堀が芝居町となっていきます。道頓堀南岸は芝居小屋が次々と公認され、歌舞伎、義太夫、見世物などの小屋が並んで栄え、★五座の櫓(やぐら)が立って賑わい、櫓町と称される芝居町になりました。
《NEWS》2018.8.4ニフティニュースより
「道頓堀角座閉館は“オモロイ大阪”の始まりや」吉本が手を差し伸べる“浪花魂”
7月22日、松竹芸能が運営する劇場「道頓堀角座」(大阪市中央区)がついに閉館した。最終日の公演には、松竹芸能の若手芸人を中心に総勢40組以上が出演し、約3時間にわたってネタを繰り広げた。ここに来て、ホームグラウンドを失った芸人たちを吉本興業が面倒を見、劇場を提供するという異例のプランが浮上している。角座は江戸時代の★道頓堀5座(角座、浪花座、朝日座、中座、弁天座)を起源とする劇場で、大阪ミナミでは吉本の『なんばグランド花月』と並ぶ演芸場の名門。全盛期の1960年から'70年代には、かしまし娘などを輩出し、笑福亭鶴瓶もその舞台を踏んで東京進出を果たした。しかし、'80年代の漫才ブームで吉本の劇場に客が流れ、'85年に閉館。2004年に『ライブスペースB1角座』として再開したが、これも不調に終わり'08年に閉館。5年後の'13年に再び『道頓堀角座』として復活していた。「松竹芸能は今回の閉館の理由の一つを、“土地所有者サイドとの契約期間満了”としている。その背景には、外国人観光客の増加による土地の高騰がある。所有者サイドが、演芸場より外国人向けの箱モノを作った方が儲かると判断したようなのです。劇場の敷地内にある屋台などの飲食店も立ち退きが決定しており、時代の流れとしか言いようがない」(在版テレビ関係者)しかし、それでは済まされないのが松竹芸能の芸人たちだ。松竹では3月に説明を済ませ、大阪市内で常設劇場の選定に入ったが、条件が折り合わずに断念。当面は“間借り興行”することになった。一方の吉本興業については、事情がかなり違う。「以前から、お笑いの中心が東京になり、大阪が次第に廃れ始めていることを危惧していた吉本の大崎洋社長は、大阪万博の誘致をめざす中、吉本を中心とした“オモロイ大阪”を復権させるために劇場を増やすと語っている」こう話すのは、お笑い関係者。さらに、こんな話も持ち上がっているという。「吉本は映画配給を通じ、多少ではあるが松竹芸能の親会社の松竹とつながりがある。そうした中で、松竹芸能の芸人に吉本の劇場を提供して、お笑いを競い合わせるんです。それこそ、大崎社長がめざす“オモロイ大阪”の復権につながるのではないか」松竹芸能の芸人が、ライバルである吉本の常設劇場に登場するプランが実現すれば、大阪のお笑い界、日本のお笑い界が盛り上がることは間違いない。今後、松竹芸能は常設劇場を持たず、各地の会場で公演をおこなうという。もちろん、吉本興業の強力なバックアップ体制もあってのことだ。「吉本+松竹」のこれからがオモロイ!
https://www.shochikugeino.co.jp/kadoza_category/dotonbori/
・・・キタもいいけど、やっぱりミナミの方が「オオサカ」らしい。そして、露香さんは最も「大阪人」らしい人かもしれません。