平瀬露香(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《特別展:茶人のまなざし「森川如春庵の世界」》 

三井記念美術館/東京都中央区日本橋室町二丁目1番1号三井本館7階 

2008年10月4日(土)~11月30日(日) 

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=PajMg9OUcccJ&p=%E6%A3%AE%E5%B7%9D%E5%8B%98%E4%B8%80%E9%83%8E&u=https%3A%2F%2Fwww.nhk-p.co.jp%2Fevent%2Fdetail.php%3Fid%3D197

大正から昭和前期にかけて、東都を中心に伝統から脱した新しい茶の湯が行われておりました。その中心にあった人物は★益田鈍翁、すなわち三井物産初代社長★益田孝(1848−1938)です。鈍翁は明治以来、日本古来の美術品が海外に流出していることを憂い、自ら古美術の蒐集を行うとともに、かつて使われることのなかった仏教美術などの古美術を茶の湯の世界に取り込み、鈍翁独自の茶風を打ち立てます。大正2年頃、鈍翁は一人の青年と出会います。愛知県一宮苅安賀の素封家★森川勘一郎、後の如春庵です。如春庵は幼少時から茶の湯を名古屋の西行庵下村実栗に習い、15歳ですでに久田流の奥義に達していたといわれていますが、天性優れた審美眼の持ち主で、16歳の時、西行庵宅で出会った本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」を懇望し入手します。さらに19歳にして★平瀬家の売り立てで同じく光悦作の赤楽茶碗「乙御前」を買い、所持します。十代に光悦の名碗を2碗所持した如春庵の感性は鈍翁を驚かせ、39歳の年齢差を感じさせない交友がはじまりました。以後、如春庵は鈍翁を中心とする東都の数寄者たちと交わり、古美術とも広く接することになります。「佐竹本三十六歌仙絵巻」切断や「紫式部日記絵詞」の発見など、如春庵の長い生涯には多くのエピソードがあります。また日本の財界に活躍した鈍翁と茶の湯一筋に生きた如春庵との温かな交流が現存する手紙や茶の湯道具のなかに今なお生きています。伝統の茶の湯と革新の茶の湯が隔絶している時代に、如春庵はその中間にあって、双方のあり方を踏まえ、生涯茶の湯に生きた稀有な数寄者であったといえるでしょう。この度の特別展では、昭和42年に如春庵が名古屋市に寄贈した作品約50点に加え、個人の所蔵品、各地の美術館の蔵品などによって森川如春庵の茶の湯と益田鈍翁を中心とする東都の数寄者との交流を紹介いたします。

 

 

【森川勘一郎】(1887~1980) 

http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000077374.html

森川如春庵(本名:勘一郎)は明治20(1887)年7月27日、旧尾張藩士小出秀満の長男(小出秀俊)として生まれ、幼くして母の実家苅安賀の森川家を継ぎました。尾州久田流の西行庵下村実栗のもとで茶の湯を学び、天性の審美眼を磨き上げました。如春庵が16歳の頃に西行庵から手に入れた本阿弥光悦作黒楽茶碗銘「時雨」は、最後まで手放さなかった愛蔵品として知られています。さらに19歳にして★平瀬家の売り立てで同じく光悦作★赤楽茶碗「乙御前」を買い求めたという逸話の持ち主でもあり、「佐竹本三十六歌仙絵巻」の切断や「紫式部日記絵詞」の発見など多くのエピソードも残されています。如春庵はその生涯を、茶道と道具の収集に費やしたといわれています。如春庵は、同時代を代表する大茶人であり三井物産創業者★益田鈍翁(本名:孝)にかわいがられ、鈍翁と親交の深い茶人や財界人との交流で、ユーモアに満ちたエピソードを数多く残しています。鈍翁が始めたとされる狭い茶室で行われた求道的な茶の湯とは対極の、大きな田舎家での茶会もいち早く取り入れ、移築した田舎家は当時「天下一」と呼ばれたといいます。 

http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/207960

 

 

《黒楽茶碗(銘「時雨」)》作:本阿弥光悦 

江戸時代前期(17世紀)高8.6cm口径12.4cm高台径5.1cm 

http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_05/index.html

本阿弥光悦(1558~1637)の手による、黒楽茶碗中屈指の名作である。ろくろを使わず手づくねにより成形された半筒形の茶碗で、腰になだらかな丸みを持つ。口縁はわずかに外側に開き、上端の縁の面は平らに作られている。底部には輪形の高台が低く削り出されており、焼成の際の窯道具の目跡が五つ残っている。器壁は薄く作られ、手に取ると軽やかな感触である。付属する内箱の蓋表には、京都・曼殊院の29世門跡・良尚法親王(1623~93)の筆と伝えられる「時雨」の箱書きがある。黒く艶のある釉薬がかかる場所と素地を露出する部分の変化に深い味わいがあり、その様子を秋から冬にかけて降ってはやむ気まぐれな雨、時雨にたとえてこの銘をつけたとみられる。作者の光悦は京都に生まれ、刀剣の研磨・手入れ・鑑定を家業としつつ、書・漆芸・陶芸にも秀で、多彩な芸術活動を行った人物である。楽家の二代常慶(1561~1635)、三代道入(1599~1656)と交流があり、その協力のもと独創的な楽茶碗を焼いた。本作は三井家に伝来し、★平瀬家、★戸田家、尾州久田流宗匠・下村西行庵(1833~1916)のもとを経て、一宮市の素封家、森川勘一郎(号・如春庵 1887~1980)の愛蔵品となり、その後名古屋市に寄贈された。如春庵は当地を代表する茶人、美術品収集家として知られ、書画や和歌・俳句・作陶をたしなむ文化人でもあった。益田鈍翁(1848~1938)、原三渓(1868~1939)といった当代一流の茶人たちと親密な交遊を持った。明治36年(1903)6月1日、如春庵は茶道の師であった西行庵の茶会に招かれ、「時雨」に出会った。すぐに養父に頼んで、その年の12月に買い求めてもらったと伝わっており、本作は記念すべき如春庵の最初の美術収集品となった。わずか16歳で本作を所望した如春庵の早熟な感性には、驚くべきものがある。実際、如春庵旧蔵品には重要文化財を含む数多くの優品が名を連ねており、その鑑識眼と趣味の高さがうかがい知れる。如春庵は美術品とはひとつのところに永年にとどまるものではなく、愛でる人々の間で行き来するものだと捉えていたため、後年手元を離れた名品も少なくないが、最愛の品であった本作は最後まで大切に手元に残された。本作をはじめとする如春庵旧蔵品のうちの188件211点は、昭和42年(1967)~43年(1968)に寄贈され、現在「森川コレクション」として当館で収蔵・活用されている。 

 

・・・なんと、この「黒楽」も「平瀬家」を経由していました。 

 

《参考》「あいち伝統文化推進の会」 

http://plumcake7.wixsite.com/dentobunka

私たちは、故森川如春庵が残した★森川邸茶室『田舎家』を再現するため、県下茶道関係者一同が2015年7月に開設した法人です。 

 

・・・次に、「赤楽」です。

 

《赤楽茶碗(銘:乙御前)》作:本阿弥光悦 

個人蔵/高さ9.0cm 口径10.0~10.8cm 高台径4.0cm 

https://turuta.jp/story/archives/6801

内箱蓋裏に「ヲトコセ」と書き付けているが、その筆者について、かつての所持者★平瀬露香は「筥書何人を志らす」と覆紙に記している。しかしその筆体から推測すれば、おそらく千宗旦の筆と断じて誤りないと思われる。外箱には「時雨」の旧所持者西行庵下村実栗が、「光悦赤茶碗乙御前」と書き付けている。古い伝来は判然としないが、おそらく宗旦所持かと推測され、後に大坂★平瀬家に伝わり、明治三十六年★森川如春庵の蔵となっている。同氏は光悦の名作二碗、「時雨」とこの「乙御前」を蔵して茶名をはせたのであった。「乙御前」すなわちお多福のこと、茶碗を手にすると、いみじくも名付けたものと感じ入る。他のいかなる銘もこれにおよばぬであろう。口部を上から見ると、頬のふくらんだお多福の面相であり、伏せて高台を見れば、高台よりもその回りが高く盛り上がり、まさに鼻の低いお多福の趣がある。口部はだいたい内に抱えているが、一方わずかに端反りぎみのところがあり、胴から腰さらに高台際にかけては、ふたたび求めてもなしえぬ妙味あるふくらみを持ち、胴は全体に楕円になっている。高台は極めて低く、しかもまるく平らな土片を押しつけたかのように削り出され、それが焼成中に少し内に突き上がったため、一段とおもしろい作振りの底回りになっている。腰回りに太く一筋窯割れが回り、縦にも三筋、口辺には四筋ほど窯疵が生じている。赤土が用いられ、全体にかかった透明柚はよく溶けて、細かく貫入があらわれ、赤い釉色がやや渋い熟柿色であるのも、光悦赤茶碗独特のものである。焼成火度は長次郎焼赤茶碗よりもかなり高いものであったように推察される。

 

 

《参考》「本阿弥光悦」(1558~1637) 

http://muichimotsu.tokyo/?p=753

https://www.cyber-world.jp.net/honami-kouetsu/

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic15.html

本阿弥光悦は、刀剣の鑑定や研磨を稼業とする京都の家に生まれました。刀剣には、金工、漆工、革細工、蒔絵等、様々な工芸技術からなっており、その見識眼が後のマルチクリエイターとしての礎になっていったのだと思います。今日では書家、陶芸家、芸術家として数々の後世に残る作品を生み出しました。 

京都生まれ。工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ち、様々な顔を持つマルチ・アーティスト。優れたデザイン・センスを持ち、すべてのジャンルに名品を残した日本のダ・ビンチ。特に書の世界では近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の1人に数えられ、光悦流の祖となった。 

生家の本阿弥家は京の上層町衆。足利尊氏の時代から刀剣を鑑定してきた名家だ(主なパトロンは加賀の前田利家)。刀剣は鞘や鍔など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいった。その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。 

やがて40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない1人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を提供した。宗達は見事期待に応え、この後『風神雷神図屏風』など次々と傑作を生み、30年後には朝廷から一流のお墨付き(法橋)を授かるほど成長した。後年、宗達は若い頃を「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられたのだ。師の織部に連座して都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて芸術に集中できる空間が手に入ったと、この事態を前向きに受け止め、新天地に芸術家を集めて理想郷とも言える芸術村を築きあげようとした。以後、亡くなるまで20年強この地で創作三昧の日々を送る。光悦の呼びかけに応えて、多くの金工、陶工、蒔絵師、画家、そして創作活動を支える筆屋、紙屋、織物屋らが結集し、彼はこの★「光悦村」の経営と指導に当たった。文字通り、日本最初のアート・ディレクターだ。有志の中には尾形光琳の祖父もいた。風流をたしなむ豪商も住み、村には56もの家屋敷が軒を連ねていたという。光悦の友人は、武士、公家、僧など広範で、宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に光悦村に滞在している。茶の湯も大いに賑わい、それに関連して光悦は今まで以上に熱く陶芸(茶碗づくり)に力を入れてゆく。 

《参考》「京都新光悦村」 

http://www.pref.kyoto.jp/shin-koetsu/1275377367995.html

江戸時代初期、本阿弥光悦によって京都洛北・鷹ヶ峰の地に形成された「光悦村」には、さまざまな分野の工人が移り住み、交流機会が創出され、次々と新しい技や表現が生み出される拠点になったと言われています。日本の芸術や工芸の発展に大きく貢献した、この「光悦村」の精神を継承し、これからの産業やモノづくりのあり方を示す新しいスタイルの産業拠点が「京都新光悦村」 です。 

《光悦寺》 

603-8466京都市北区鷹峰光悦町29/075-491-1305 

https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000059

大虚山と号する日蓮宗の寺である。当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。当寺は、本阿弥家の位牌堂を光悦没後に、本法寺の日慈上人を開山に請じて寺に改めたものである。境内には光悦の墓碑がある。大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵がある。これらはいずれも大正時代以降の建物である。

 

 

《長次郎新選七種》 

金森得水(紀州藩領伊勢田丸城家老)が長次郎七種にならい選定したもの。 

黒楽茶碗/「閑居」、「針屋」、★「ムキ栗」、「村雨」、「風折」 

赤楽茶碗/「太郎坊」、「次郎坊」 

【長次郎】(生年不詳~1589) 

http://www.tenpyodo.com/senkezissyoku_raku.html

樂吉左衛門は千家の正統的な茶道具を制作する千家十職の一家(茶碗師)です。当時、長次郎が造った茶碗にはまだ「樂茶碗」という名称はなく、「今焼茶碗」と呼ばれていました。「樂」という名称の始まりは、★長次郎が秀吉より聚楽第の一字にも含まれる「樂」字を拝領した事によると伝えられます。轆轤を用いない手捏ねによって成形され、内窯と呼ばれる家屋内の小規模な窯で焼成されます。表玄関の暖簾「樂焼 御ちやわん屋」は★本阿弥光悦の筆と伝えられており、歴代当主が襲名の際に樂家に残されている字型を基に新調します。茶室、窯場を含む家屋全体は国の登録文化財に指定されています。樂焼のルーツは中国・明時代の「華南三彩(素三彩)」である事が判明しています。「一樂、二萩、三唐津」と謳われるように茶陶の分野において最高の評価を受けています。 

 

★「ムキ栗(黒)」高さ:8.5cm、口径:12.5cm、高台径:4.9cm 

利休の依頼により長次郎が創った黒楽茶碗の中のひとつ。銘の由来は分かりませんが、半筒形の四方形の胴という珍しい形をしています。深々と井戸を覗き込むように、四方に回された内部空間。真正面からは小さく、凹凸があり、左右両側面が黒茶色みたいです。後藤三郎衛門―同宗伴―千種屋★平瀬家―文化庁蔵

 

・・・どれもこれも、眼が眩むほどの名器ばかりです。さぞ、旨い(美味い、甘い)茶だったことでしょう。

 

 

【小林一三】(1873~1957) 

三宅顕人/ミッシングリンク探偵社~人が集う磁場を探れ!~より 

http://miyakeakito2012.blog.fc2.com/blog-entry-71.html

阪急電鉄を率いた小林一三が大阪にやってきたのは、1893(明治26)年のことです。山梨県の韮崎で育ち、慶應義塾を卒業後、三井銀行(現在の三井住友銀行)に入社。東京本店から転勤のため、大阪支店へやってきました。小林20歳の年でした。自叙伝によれば、大阪の遊び文化に惹かれ、自ら志願したといいます。その大阪の第一印象は、「曽根崎警察署」の看板、曽根崎新地(北新地)の「曽根崎貸座敷」の行灯だったといいます。大阪での生活を始めた小林は、早速、北新地のお茶屋「瀧光」を行きつけにしています。また、1915(大正4)年、宝塚歌劇の初公演の翌年、急山人のペンネームで★『曽根崎艶話』(籾山書店)と題した花柳小説を書いています(翌年、増補版もでたものの、その後★発禁となっています)。小林は、自叙伝で、大阪のミナミについて、こう記しています。「恐らく東京にも京都にも、どこにも見られない花街中心に繁昌している道頓堀から千日前の光景は、正に日本一というべしである」「上流階級は南北両廓に、問屋・商店は新町・堀江に、労働階級は松島遊郭に。それぞれの特徴が競われて、所謂上方情緒の色彩をはっきし、町人の大都会として繁昌したのである」「大阪マイナス花街、イコール零である、と言い得る程」「花街の中心は野郎から湯女へ、そして遊女と役者に、順次組織的に発達して、芝居街を包容した南地五花街の繁昌は、大阪町人の自慢するところであった」南地五花街とは、道頓堀川の南川を中心とした、宗右衛門町、九郎衛門町、櫓町、坂町、難波新地の5つのエリアです。現在のその名称は、宗右衛門町だけに残っています。南地の花街については、今宮戎神社を歩いた際、少しふれています。小林は、さらに詳しく、実業家と花街について、三十二銀行を設立した★平瀬亀之助(露香)がひいきにしたのが「得田屋」(西櫓町/現在の道頓堀)、人気芸者「八千代」で人気を集めた「富田屋」(宗右衛門町)は、洋反物業から始め百三十銀行を設立した松本重太郎が後援していた、とも記しています。

 

・・・「得田屋」(西櫓町/現在の道頓堀)を調べてみましょう。