戦後という時代(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

《NEWS》2017.7.16産経WEST「井上章一の大阪まみれ」より 

地上に降りてきた半裸の女神像、罰当たりな想像を… 

大阪・難波に、半裸の女神像がある。高島屋大阪店前の広場に、それはもうけられている。日高正法という彫刻家が、大阪市などの依頼で1950年に制作したブロンズ像である。もともとは、現在地より800メートルほど北へいったところに、おかれていた。大丸心斎橋店前の南東角が、最初の設置場所である。そのころは、四本の円柱がささえる、8メートル近い高さの天蓋上に、たっていた。大丸の3階あたりで、路上をゆく人びとには、その姿を見せていたのである。敗戦後に、平和をねがって、この像はこしらえられている。円柱と天蓋もふくめ、★「平和の塔・女神像」と名づけられていた。だが、1973年に、この像は戎橋の北東角へうつされている。大丸が店舗の拡張へふみきり、外壁をおしひろげたためである。その戎橋でも、2004年からは架け替えの工事がはじまった。像は撤去され、しばらく大阪市の倉庫でねむることになる。今の高島屋前広場へは、市民有志の声におされ、2009年から姿をあらわした。もう、円柱と天蓋にはささえられていない。ごく一般的な台座の上に、それはのっている。大丸前から高島屋前へ移動するとともに、女神は地上へおりてきたということか。まあ、降臨の作業じたいは、戎橋時代に完了していたのだが。女神人気の最盛期は、なんといっても1950年代であったろう。敗戦後の大阪にあって、「平和の塔・女神像」は、ランドマークとなっていた。高い建物がまだ少ない時代であり、けっこうめだっていたと思う。ここが、カップルの待ち合わせ場所になっていたという昔語りも、しばしば耳にする。女神は右手を上にかざし、松明めいたものをもっていた。胸の露出をのぞけば、自由の女神をしのばせなくもない姿である。平和の象徴は、どこかで占領軍を代表するアメリカの象徴に、あゆみよっていたろうか。下から見あげたカップルたちも、女神像にニューヨークを想いえがいたような気はする。自由の女神は、バブル期前後からパチンコ店の頂部に、かざられだした。ラブホテルをいろどるものも、ちらほら見かけたものである。「平和の塔・女神像」の記憶も、それらをあとおししていたかもしれない。カップルが、下から自由の女神めいた像を、心斎橋でながめつづけてきた。その想い出が…罰あたりな想像を、もうしわけなく思う。 

(国際日本文化研究センター教授) 

 

★大阪市内で戦争と平和を考えるHPより 

https://jinken-kyoiku.org/heiwa/ch-ebisubasi.html

《女神の像》 

https://jinken-kyoiku.org/heiwa/ch-namba.html

難波駅前に「平和記念」として1953(昭和28)年に建てられた。「朗風」という題が当時の大阪市長の書できざまれている。立案、日本都市美推進連盟、寄贈、美交社とある。御堂筋から西への道路を歩道にしたときにここに移された。空襲で焼け野原となった中に焼け残った高島屋の建物が遠くからでも見えたという。今年もこの難波で女性達による平和を訴える行動が行われている(8月6日、8月15日、12月8日)。 

 

・・・以上の情報は、ネット上に多く見つけることができます。私が発見した貴重な情報も、紹介しておきましょう。

 

 

《大阪市立中央会館》 

542-0082大阪市中央区島之内2-12-31/06-6211-0630 

https://www.osakacommunity.jp/chuo/sisetu_b.html

★「平和の塔の鐘」の由来 

この鐘は第2次世界大戦後間もない昭和25年5月大阪新聞社の提唱により、「戦争の惨禍を繰り返さない」「という平和を願う大阪市民の寄付により、大阪の中心標識跡(心斎橋筋・大丸百貨店東南角)に平和の女神像を建立、その台座を支える4本の柱の内側に鐘が設置された。昭和48年11月に現在の戎橋北詰に移転し大阪市に寄付されたが、年月の経過と共に塔の痛みが激しく、強い地震でもあれば倒れる恐れがあるため、平成2年夏から大阪市が改修工事を行いその際、危険防止のため4本柱構造をやめ、女神像を直接台座に設置したため鐘を取り外し、当館で保管している。(平成3年1月) 

 

・・・この鐘を発見した時は、「えっ~こんなところに」と本当に驚きました。さて、高島屋へ。

 

 

《写真家「沢田教一展 -その視線の先に」》 

2018年8月22日(水) ~9月3日(月) 

大阪タカシマヤ★7階グランドホール 

542-8510大阪市中央区難波5-1-5/06-6631-1101 

https://www.takashimaya.co.jp/store/special/event/sawada.html

主催:朝日新聞社/企画協力:沢田サタ、斉藤光政/協力:山川出版社 

【沢田教一】(1936~1970) 青森市生まれ。19歳で写真店に勤めたのを機に写真家・小島一郎に師事。米軍三沢基地の支店勤務時代に妻となるサタと出会う。61年に米UPI通信社東京支局にカメラマンとして就職し、65年にベトナムへ。70年10月、取材先★カンボジアで銃撃を受け死亡。主な受賞歴にピュリツァー賞、世界報道写真コンテスト2年連続大賞、ロバート・キャパ賞(没後受賞)など。 

 

《NEWS》2017.8.15朝日新聞デジタルより 

戦下の人々、生き抜く姿「写真家・沢田教一展―その視線の先に」 

「写真家・沢田教一展―その視線の先に」が16日、東京・日本橋高島屋で開幕する。ベトナム戦争などを写した作品約150点や遺品で、輝かしい業績とその生涯をたどる展示だ。故郷青森から世界へ旅だった青年が、戦場で見つめた悲しみと希望、そして願い続けた平和への思い。共に戦地取材を経験したカメラマンや妻の証言を交え、代表作や追い求めたモチーフを紹介する。沢田にピュリツァー賞をもたらした「安全への逃避」。その画面には、戦争写真の「主役」である兵士や兵器、砲撃によって崩れ落ちた建物、そして血の一滴すらもない。が、この1枚が、ベトナム戦争の本質を世界に伝えた。米軍の爆撃から逃れ、必死の形相で増水した川を渡る2組の親子。軍服姿の沢田が向けるレンズにおびえた表情を浮かべる。同時期にベトナムで活動したカメラマン石川文洋さん(79)は、この戦争を「米軍が農村を攻撃する戦争だった」と振り返る。米軍は南ベトナム解放民族戦線が潜むと見なした村々をしらみつぶしに攻めた。「農村には子だくさんの家庭が多かった。爆撃に巻き込まれ、子供たちが命を落とす。あるいは親を失って困窮する。多くの夢と将来が大人によって奪われました」。石川さんたち多くの報道記者が目の当たりにした、まさにこの戦争の縮図が、そこにあった。沢田は当時、世界有数の通信社「UPI」に所属していた。石川さんらフリーのカメラマンに比べ、米軍から入ってくる情報量は桁違い。重要作戦にはことごとく沢田の顔があった。「物静かだが、果敢に激戦地に飛び込んでいく」と石川さんは印象を語る。同業者に「沢田に戦場で会うと安心する」と言わせるほど、戦況を読むのにもたけていた。「耳元に弾丸の熱と風を感じるような」(石川さん)現場で、活躍を続ける沢田を「死神に見放された男」と呼ぶ者すらいた。その後も、世界報道写真コンテスト大賞などの受賞作を連発する。華々しい活躍の裏側で、沢田は戦争専門のカメラマンと思われるのを嫌がった。妻サタさん(92)には口癖のように「そこに生きる人々を、風土を撮りたいんだ」と繰り返した。沢田は9歳の時、青森で大空襲を経験している。初めてのカメラは、中学時代に新聞配達をして手に入れた。友達らを撮影、その写真を売って家計を支えた。豊かさとはほど遠い生活だった。本格的に撮影を始めたのは19歳ころ、サタさんと出会った写真店に勤めてから。寒風吹きすさぶ大地や山々、貧しい漁民、赤ん坊を抱く子供などを切り取った。写真家としての原点を探すかのように、沢田は従軍の合間には街へも足を伸ばした。作品には、額に汗する労働者や子供たちの笑顔など、故郷の原風景を思わせる構図や被写体も多い。写真家人生の目標に定めていたのも、美しい写真で世界の風物を紹介する米国の写真誌「ナショナル・ジオグラフィック」への転籍だった。沢田がカンボジアの取材中に凶弾に倒れたのは、そんな夢をかなえかけていた矢先。★34歳だった。

 

 

《NEWS》2016.4.29 産経フォトより 

沢田教一のネガ、米で確認 代表作「安全への逃避」 

報道カメラマンの沢田教一(青森市出身)がベトナム戦争中に撮影し、ピュリツァー賞を受賞した代表作「安全への逃避」のオリジナルとみられるネガを、青森県立美術館の学芸員が米ペンシルベニア州で確認したことが29日分かった。これまで所有者が転々としており、所在が不明確になっていた。学芸員の高橋しげみさん(45)によると、ネガは同州ピッツバーグ近郊にある資料保管会社の倉庫で見つかった。戦火を逃れて川を渡る親子を撮った「安全への逃避」と、前後に別の親子とみられる写真の計3カットが一続きになっていた。一部に赤い染みがあるが保存状態は良いという。所属していた米UPI通信の資料の中から見つかったことなどから、複製ではなくオリジナルの可能性が極めて高いという。代表作の一つ「泥まみれの死」など他のネガも保管されていた。2013年末に美術館が沢田の妻サタさんから関係資料を寄託された際、ネガのコピーしか見つからなかったため、調査を開始。今年3月に現地で確認した。沢田教一撮影「安全への逃避」に写っていた兄妹(左からグエン・バン・アインさんとグエン・チ・リエンさん)。写真を撮られた当時は雨季のため川幅は広かったという。

 

 

《NEWS》2018.6.23西日本新聞より 

沢田教一の軌跡追う/ベトナム戦争最前線で撮影7月15日、直方で上映[福岡県] 

報道カメラマン、沢田教一の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サワダSAWADA青森からベトナムへピュリツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」が7月15日、直方市殿町のアートイベントスペース「名もなき、ぎゃらりぃ」で上映される。「映画を通じて文化的な交流を図ろう」と地元有志で結成した「殿町シネマ実行委員会」が企画した。沢田は1936年、青森市生まれ。ベトナム戦争に報道カメラマンとして加わり、ベトナム人母子を撮影した「安全への逃避」を含む一連の報道は米国のジャーナリズムで最も権威があるとされるピュリツァー賞を受賞した。70年、カンボジアで取材中に銃撃され、34歳で死去した。映画は、五十嵐匠監督で96年に製作。沢田の肉親や友人、世界的なジャーナリストなどの証言を基に、報道カメラマンの生きざまを浮き彫りにしている。実行委員会の川井田博幸さん(64)は「語られなくなったベトナム戦争をもう一度振り返ってほしい」と話す。上映会は、午前10時と午後2時からの2回。ゲストトークもある。前売り券千円(当日1500円)、高校生以下無料。

 

 

・・・本も読みたいし映画も見たい、私の「戦後」まだまだは続きます。