戦後という時代(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「焼け跡世代(戦中生まれ世代)」そして「団塊の世代(1947~1949)」、まさしく「戦争を知らない子どもたち」としての★「ポスト団塊の世代」」、私なりに戦後をふりカエルことにしよう。まず、 

 

【坂本龍一】(★1952~) 

1952東京都中野区生まれ。1959年から東京都世田谷区給田に育つ。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年に東京都立新宿高等学校を卒業。風月堂などにたむろする★フーテンたちに影響を受け、★ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。★ロックも好きであったが、★フォークは大嫌いであった。また★学生運動にも、のめり込む。1970年東京藝術大学入学。1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという★友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。1976年修了。★竹田賢一と「学習団」という芸術実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメントハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、★りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィのマネージャー(現株式会社365代表)が★細野晴臣のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。また初期の★山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、★大瀧詠一のアルバム『NIAGARATRIANGLEVol.1』などにキーボードとして参加。また、★大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、★高橋幸宏とともに★「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)を結成、活動を開始する。

 

 

【りりィ】(★1952~2016)産経ニュースより 

名曲「私は泣いています」で知られるシンガー・ソングライターで女優、りりィ(本名・鎌田小恵子)さんが2016年11月11日午前6時9分、肺がんのため死去した。64歳だった。長男のミュージシャン、JUON(31)と長男の妻でDREAMSCOMETRUEの★吉田美和(51)らに看取られて息を引き取った。所属事務所によると、肺がんの闘病中で、4月にフェイスブックで定期検診の結果、長期療養に入ることを報告していた。女性シンガー・ソングライターの先駆けで、個性派女優としても活躍したりりィさんが、64歳の若さで突然旅立った。長男でロックバンド、FUZZYCONTROLのボーカル、JUONはこの日、ツイッターで「僕の愛する母が今朝6時9分“ROCKの時間”に旅立ちました」とと報告。「僕に人を愛する事を教えてくれた人です。ママ、樹音って名前付けてくれてありがとう!」と感謝をつづった。関係者によると、りりィさんは、4月の定期検診で肺にがんが見つかり、同月中旬のフジテレビ系月9ドラマ「ラヴソング」の撮影を最後に治療に専念。その後は入退院を繰り返していたが、今月に入って容体が急変。11日朝にJUON、吉田美和ら家族に見守られながら息を引き取った。近日中に近親者のみで葬儀を行う。りりィさんは、1972年に歌手デビュー。ハスキーボイスで人気を呼び、74年の「私は泣いています」が大ヒット。私生活では76年にドラマーと結婚するも81年に離婚。83年にギタリストと再婚し、85年3月にJUONを出産。その後は女優業を精力的にこなし、映画「星空のマリオネット」のスナックのママやTBS系「3年B組金八先生」の複雑な家庭を持つ母親など陰のある役で存在感を示した。2001年から千葉・鴨川市に居住。女優業と並行してパートナーでミュージシャンの齋藤洋士(60)とユニット、Lily-Yojiで音楽活動も実施。12年にJUONが20歳上の吉田と結婚した際には「すばらしい歌姫と結ばれた」と息子の“大金星”に大喜びしていた。JUONは12、13日に福岡、14日に山口で行う予定だった自身のフリーライブは自粛するも、12、13日にマリンメッセ福岡で行われるドリカムのライブには予定通りサポートで出演。ツイッターには「これからは胸の中に住んでる母と共に、みんなの心に音楽を届けに行きます」とつづり、悲しみを胸に天に旅立つ母に魂の歌声を届ける。 

◆出演映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」に起用した岩井俊二監督(53)「『なぞの転校生』『-の花嫁』と立て続けに二作品をお願いするほど、惚れ込んでいた女優さんでした。次回作もお願いするつもりでした。それが叶わなかったのが無念です」 

◆映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」に主演した女優、黒木華(26)「身近でお芝居を見させていただき刺激を受けました。あまりにも急な知らせで、まだ整理がつきません。共演させていただいたことを光栄に思います」 

◆来年2月公開の映画「彼らが本気で編むときは、」で共演した俳優、生田斗真(32)「僕が女性の役をしており、所作やお芝居などに苦労し悩んでいたところ、『すごくきれいよ』と優しく声をかけていただき、そっと支えてくださいました。撮影最終日には『またご一緒しましょうね』と固い握手をし…。残念でなりません」 

■りりィ/本名・鎌田小恵子。1952(昭和27)年2月17日生まれ。福岡市出身。72年にアルバム「たまねぎ」でデビュー。女性シンガー・ソングライターの先駆けとして一世を風靡し、74年のシングル「私は泣いています」が100万枚超の大ヒット。女優としても映画「夏の妹」(72年)や、TBS系「3年B組金八先生」(2001~02年)などに出演。08年に主演映画「パークアンドラブホテル」で第58回ベルリン国際映画祭最優秀新人作品賞を受賞。

 

 

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《死を垣間見てわかったのは、意外なことだった/坂本龍一》 

「がんです」 

医師からこう言われたら、どう思うだろうか? 自分ではなく、例えば親やパートナー、すごく大事な人のことだとしても。あんなことしたかった、こんなことしたかった。閉ざされる未来に絶望するかもしれない。運命を呪うかもしれない。 

贔屓のレストランに「カツカレーの写真を送ってほしい」と頼み、スマートフォンの待ち受けにしていたくらいだ。「死に近づいているのだから、もっと深刻にいろいろ考察を深めればいいのに」。状況を客観視して、そんな風に思ったと振り返る。 

(中略) 

 

 

「音楽ができるってことは余裕があること」なのだと。坂本がそう思ったのは、これが初めてではない。2001年9月11日の同時多発テロは、ニューヨークにある自宅の近所で起きた。「9.11から暫くした時に誰かが公園でギター弾いているのを聴いて、『この1週間音楽を聴いていなかった』と。そのことすらも忘れていた」音楽は食事や空気のように★「ないと生きていけない」ものではない。音楽を生業としてきた坂本は、そのことを知っている。自嘲気味に笑いながら、こう話す。「過度に期待をされると困るんですよね。音楽は世界を救うみたいなね。救うまでいかなくても癒やすとかね。本当にもう困っちゃうんですよね」世界的な音楽家である彼のもとには沢山の賛辞が送られてきた。それでも坂本は★「音楽は余裕の証、世界も救わない」と言う。 

(中略)

 

 

なぜ、これほど苦しみながら、音楽を作り続けるのだろう。音楽は世界を救わないと言うのに。「アウトプットなんてしなくてもいいんです。本来は。でも、しないと生活できないから......あんまり儲からないから変わらないけど」また、笑いながら言う。お金のため?少し、間を置いて続ける。「根底にあるのは、インプットだけしていてもつまらないから」「僕は絶対に不満なんです。何を聴いても。大好きなドビュッシーを聴こうが、バッハを聴こうが......満足できない。自分で作っても満足できない。常に不満だから、何か作ろうとする。満足しちゃったら先はないです」坂本の根源にあるのは「新しい音」への渇望だ。それを探して、北極や森林、自宅......さまざまな場所の「音」を録音し、集めてきた。 

(中略) 

「無知は喜びじゃないですか。幸せだなって。たくさんいろんなことを知ってしまうと、喜びは少なくなりますから......でも、★無知に基づいた喜びっていうのは果たして本当の喜びでしょうか?」そう問いかける坂本は、★知ることの喜びを求め続ける。知っても知っても、すべてを知りつくすことはないのだから。 

『レヴェナント:蘇えりし者』の制作でも、初めて知るものがあった。それは、「挫折」だ。これまで、坂本には、失敗の経験がほとんどなかった。しかし、闘病の直後にハードワークをこなせる体力は戻ってなかった。集中力が持たず、神経が衰弱する。納期は迫る。生まれて初めて「クビにしてくれ」と思い、単独での楽曲制作を諦めた。「僕は自分に負けたんです」という。「やっと一人前になった」彼はまた、新しい音を手に入れたのかもしれない。これまで知らなかった挫折を知って。同じ時期に、坂本の心を捉えたものがある。一台のピアノだ。出会ったのは2012年、震災後の宮城だった。津波に飲まれ、破壊されたピアノ。指を鍵盤に沈めると「自分の知っている音」は鳴らなかった。出会った当初は、「ピアノの屍骸」だと思うほど、ショックを受けた。しかし、坂本は「津波によって生まれた音」に強く惹かれるようになり、この音色を新アルバムで使うことにした。それだけではなく、愛用してきたピアノの「調律」もやめてしまった。「津波ピアノは地震と津波という自然の大きな力で、ある意味、破壊された存在です。ピアノ自体もともとは木でできていて、生きていて、自然とともに変化していくものなのに、大きな人工的な力で曲げられて作られたものです」「それを、僕たち人間が『調律が狂ってきた』というのは、人間的な基準で言っているに過ぎない。 

(中略) 

 

 

かつては、前に進むことで見つけてきた「新しさ」だったが、「退行」する中にもそれはある。★津波ピアノは、これまで感じた「新しさ」とは違った。調律。それは自然の流れに沿って狂っていくものを正す作業だ。例えば、人間はどうだろうか。調律しないと、ピアノのように人間もどんどん壊れていく。「人間も自然に還っているからね」津波ピアノは、坂本自身を投影する存在だ。「津波ピアノと大災害と......大きな自然な力が及ぼしたものでした。それと、ぼく個人の病気。同じことなんだと強く感じました。津波ピアノで知ったことと、がんになって知ったことはすごく似ている」「生老病死という言葉がある。味気ないですけど、生まれて老いて病気になって死ぬ。それは自然なこと。一方で人間のする、考えたり音楽を作ることは反自然的なことですね」老い、体が動かなくなっていく過程は、普通にできていたことができなくなることを指す。苛立ち、落ち込み、途方に暮れたりもする。そんな姿を見ると「調律してあげたい」と思うのが人の性だ。 

★ピアノを調律しなくなった坂本は、どう考えるのだろう?「台風や地震が起きるのも同じこと。これは自然が調律している自然のプロセス。人が死に向かうのは自然なこと。でも、それを見て、調律してあげたいと思うのも、人間として自然なこと」「僕自身、すごく調律しました。自然に抗ってるなぁって思います。自然の流れだとわかっていても、あれが食べたいとか、音楽を作りたいとか。まだまだ、生きたいんだろうなぁ。意味はなくても生きたいって」人間的欲求があったとしても、体は自由が効かなくなってくる。同じ時期にがんを患ったデヴィッド・ボウイは2016年に他界した。「多分、同じ病院にいたんだと思う」とも語っていた。 

(中略) 

坂本が音楽を作り続けてしまうのは、自分の「新しさ」を発見できる喜びを知っているからだ。失うことだけがそこにあるのではない。残される者は、その姿を見る時に胸を痛めずにはいられない。でも、死に向かう階段を降りるときですら、発見があり、喜びがある。坂本は、静かに笑みを浮かべて言う。 

「このプロセスを楽しんでいる......のかもしれないですね」軽やかに飛び出した★「楽しむ」という言葉に、すがるように質問してきた私も、思わず笑ってしまった。取材が終わったのは、日曜の夕方。坂本は、そのままスタジオへ向かう。「音楽に生命力を注ぎに行かなくちゃ」と言って。 

 

・・・とても長い引用になってしまいましたが、ますます坂本龍一さんが好きになりました。この坂本さんの考えにふれ、自分なりに「戦後」を振り返ろうと思っています。つづく