・・・美術館での「トークショー」は午前11時、それまで市内の散策です。もちろん、流さんの彫刻を探します。
《うえ松》
760-0024香川県高松市兵庫町6-8/087-821-3648
https://store.shopping.yahoo.co.jp/uematsu-honten/
1882年(明治15)高松市ひろば(現:高松市兵庫町)の地で、初代創業者:植松平吉により鮮魚店「植松」の店を構え営業を開始する。1897年(明治30)平太郎が、残った魚の切り身を錬り油で揚げて作った天ぷらを、従業員のまかないにしたり近所に配っていたが、大変好評だったので店の片隅で販売するようになる。これが現在の「讃岐天ぷら・うえ松」の原点である。★細天はこのころから存在していた。1902年(明治35)当店より500メートルくらいのところに住んでいた文豪★菊池寛が、しばしば当店に立ち寄って天ぷらなどを買って帰るようになる。「父帰る」、「真珠夫人」など多くの作品で著名な文豪菊池寛は、明治21年高松市(当店より500メートルくらいのところ)で生まれました。上京する十九歳までを高松で過ごしましたが、私どもの先代より伝えられているところによりますと、菊池寛は当時「植松」の店とも近く、よくお店に立ち寄られ、顔馴染みであったようでございます。そんなご縁で、今でも菊池寛のご子息様、菊池家の方々に大変ごひいきにさせていただいております。誰でも故郷の味を懐かしく思うように、菊池寛もまた、「讃岐天ぷら」や「讃岐うどん」などは格別の思いがあったのではないでしょうか。話によれば、二代目平太郎とはよく店先で将棋をさしていたそうです。
・・・大阪へもどる前には、必ずここの「細天」を買って帰ります。菊池寛さんの旧居にも行ってみましょう。
《高松★兵庫町商店街》
高松城外堀の南に位置していました。寛永17年ころの城下町絵図には「兵庫かたはら町」とあり外堀に面する片側だけの町でした。藩の武器をしまっておく★兵庫(倉庫のこと)が堀に沿って並んでいたことから町の名前となったようです。明治8年には★「博文社」が創設され、中央の新聞や新刊雑誌の閲覧所や、新思想演説会場も設けられ、商法会議所(現在の商工会議所)もこの町に作られました。高松の新しい文化の発祥地ともいえます。
《臨済宗妙心寺派「龍松山・法泉寺」》
760-0017香川県高松市番町1-3-19
本尊は釈迦如来。弘憲寺と共に★讃岐生駒家の菩提寺であり、二代目一正並びに三代目正俊の墓所である生駒廟がある。1911年(明治44)日露戦争に出兵した香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立される。市民には「法泉寺のおしゃかさん」として親しまれ、当時低層建築物が大半を占める高松ではどの道からでも釈迦像が見えたという。1945年(昭和20年)7月4日未明、アメリカ軍による無差別絨毯爆撃「高松空襲」を受け、生駒廟、梵鐘及び釈迦像以外の全てが破壊・焼失する。この時釈迦像は一発の被弾も無く無傷であり、全て焼け野原となった周囲を見下ろす姿は市民の精神的支柱となった。その後、空襲で壊滅的な被害を受けた高松市中心部では大部分で土地区画整理事業(戦災復興土地区画整理事業)が施行され、この周辺においては第一工区一次として区画整理の対象となり、当寺の敷地を四分割するように新たな道路(県庁前通り、美術館通り)が貫通することになる。このため、それまで351年にわたって同地に位置した当寺は1949年(昭和24年)に釈迦像や生駒廟と共に約70m東の現在地へ移転して堂宇を再建し、寺域を大幅に縮小した。また、その際墓所である生駒廟の下からは生駒一正、正俊両氏の遺骨・遺髪や副葬品が発見されている。
※法泉寺のソテツ
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kankyo/shizen/guidemap/kobokuk/tanboku/77.htm
《東福寺》
760-0017高松市番町1-4-3/087-821-7260
http://www.sanuki33.jp/map/01/
身代わり観音さまの寺。奈良時代、行基菩薩が開基。古くは実蔵坊と言い、市内浜ノ丁の弘憲寺境内の辺り、松平藩御船蔵の西側にあったらしい。万治三年増見阿闍梨が中興再建。元禄二年東福寺と号す。寛保二年現在地に移転。延享元年本堂が建つなど、伽藍が整備されたが、昭和20年8月、高松大空襲により、山門を残して全て焼失。昭和25年5月、本堂などが再建されて現在に至っている。
《高松商工会議所》
760-8515高松市番町2-2-2/087-825-3500
高松商工会議所は、明治13年2月、多くの先覚者の尽力により、初代会頭★鈴木傳五郎氏のもとに、全国で10番目、四国では最初に、高松商法会議所として設立されました。その後、明治・大正・昭和の各時代において幾度もの制度の変遷を経て、昭和28年に制定された商工会議所法に基づき設立されたのが、現在の高松商工会議所です。
【鈴木傳五郎】(1857~1910)
安政4年11月生まれ。明治8年佐々木清三らと「博文社」を結成し、新聞縦覧所を設置して文明開化啓蒙運動を推進。10年高松立志社をおこし、14年「腰抜新聞」を創刊した。23年貴族院議員。明治43年11月1日死去。54歳。讃岐(香川県)出身。
《カトリック番町教会》
760-0017高松市番町2-4-31/087-851-2372
http://wwwi.netwave.or.jp/~jun-aroi/kyokai1.html
1921(大正10)年に、ファン・カルボ神父が現在の四番町小学校の敷地内に創立。1941(昭和16)年、現在の場所に新築移転しましたが、1945(昭和20)年に戦災により焼失しました。1947(昭和22)年に再建されました。1971(昭和46)年には現在の聖堂が建てられ、5月に盛大に献堂式が行われました。高松聖母幼稚園が併設されています。
《ふじかわ建築スタヂオ》
760-0017高松市番町2-5-5/080-5662-4426
https://www.facebook.com/fujikarchi/
一級建築士★藤川宏樹が主宰する建築設計事務所です。
《参考》「香川県立高松高等学校」
760-0017高松市番町3-1-1/087-831-7251
http://www.kagawa-edu.jp/takah02/htdocs/
http://www.gyokusui.com/rekishi/kousha.html
明治26(1893)年の開校から、今年125周年を迎えた歴史ある伝統校です。戦後の学制改革で、それまでの高松中学校と高松高等女学校がそれぞれ新制高等学校に移行しました。その翌年、これら両校が統合されて現在の高松高等学校となり、爾来70年近くの歳月が流れました。これまでに数多くの著名人を輩出し、5万3千余名の卒業生は、広く世の各界で活躍しています。同窓会は、「玉翠会」と称している。 1950年(昭和25年)に高松高校の前身である旧制高松中学校の同窓会「玉藻会」と、旧制香川県立高等女学校の同窓会「晩翠会」が統合され発足した。名称は旧両同総会の名称から1字ずつとられている。
《穴吹コンピュータカレッジ》
760-0017高松市番町2-4-14/087-822-3001
http://www.anabuki-college.net/ack/
【浦山一雄】
http://www.acc-arakawa.jp/person/1997/01/No.97.html
昭和9年富山県生まれ、東京都荒川区町屋在住。日展評議員、日彫運委。日展審5、特2依、菊華賞、第二十回展文部大臣賞。
《成豊堂(ナルホド)》
760-0017高松市番町2-4-3/087-851-5941
https://twitter.com/naruhodo5941
明治45年創業より、1世紀近くにわたり地元の皆様と共に発展してまいりました。一階は文具。こだわりの文具やマスキングテープ・ステーショナリー雑貨等、目にも楽しい売り場。二階は画材。絵具・筆・スケッチブック・紙など、大人用から子ども用まで、幅広く揃えています。いろんな世代のお客様に、満足いただけるお店をめざしています。
・・・やっと、流さんの作品(おいでまあせ)に出合いました。
◆【香川県文化会館】◆設計★大江宏1965(昭和40)
760-0017香川県高松市番町1-10-39/087-831-1814
http://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/bunkakaikan/
丹下健三★香川県庁舎(1958)が出来て、華やかな伝統論争がおき、丹下健三は縄文的な力強い造型に転換して倉敷市庁舎(1960)をつくり、さらに東京オリンピックのために代々木の総合体育館(1964)をつくったその翌年のことであった。つまり、県庁舎の7年後にこれができた。大江宏はこの香川県文化会館を『新建築』に発表するに際して、「混在併存」という1文を添えた。『様々なものを切り棄てるのではなく、並立しなければものごとは成立しない』というもので、コンクリートと木という互いに異質な素材が、時に対立しながらも共存する建築をめざしたと大江氏は語っています。「能」をはじめとする伝統芸能を発表できる舞台をつくって欲しいという、当時の金子正則県知事からの依頼によって、この文化会館がつくられた。金子知事は丹下健三に相談し、丹下が大江宏を推薦したとも言われている。大江宏は、当然、目の前の県庁舎を意識せざるを得ない。丹下健三と大江宏、二人は、ともに東京帝国大学の建築科で同級生であったばかりか、二人は卒業時にともに「辰野賞」を受賞したライバルであった。