・・・「猫」を「描」いている作家は、当然ネコ好きに違いない。まずは、藤田嗣治さん。
《没後50年 藤田嗣治展 》於:山王美術館
556-0017大阪市浪速区湊町1-2-3ホテルモントレグラスミア大阪22階
2018年3月1日 ~ 2018年7月31日
http://www.hotelmonterey.co.jp/sannomuseum/
山王美術館、春・夏季コレクション展2018ここでしか見られない、藤田嗣治!モディリアーニ、シャガール、キスリングなど名だたる芸術家を輩出した1920年代のパリ。「エコール・ド・パリ」と呼ばれる画家たちが活躍したこの時代に、藤田嗣治(1886~1968)は、白い地塗りを施した独自のキャンヴァスに、日本画の墨線に着想を得たしなやかな線描で描いた「乳白色」の裸婦像で人々を魅了し、パリ画壇の寵児と呼ばれるまでになりました。没後50年に開催される本展覧会では、初期の風景画・水彩画から晩年多くえがかれた子ども像まで、油彩画を中心とした山王美術館コレクション全28点を一挙に展示いたします。
《没後50年・藤田嗣治展》於:東京都美術館
2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝)
110-0007東京都台東区上野公園8-36/03-3823-6921
明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ1886~1968)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。藤田の代名詞ともいえる「乳白色の下地」による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。
《NEWS》2016.1.5日本経済新聞より
藤田嗣治「犬も好き」、「猫の画家」知られざる一面
猫を好んで描き「猫の画家」としても知られる洋画家、藤田嗣治(1886~1968)の犬への愛情を物語る1930年代の資料が5日までに見つかった。「犬は非常に好きだ」などと挿絵付きで雑誌に寄稿した文章や、知人からもらった秋田犬を返す際、藤田が犬の無事を祈って知人に書いた手紙で、巨匠の知られざる一面をうかがわせる貴重な資料だ。藤田が寄稿したのは35年2月発行の犬の専門誌「犬の研究」(廃刊)。「フランス人と犬」と題した3ページの文章で、藤田が描いた犬の挿絵と共に掲載されている。雑誌は東京農工大図書館(東京都府中市)が所蔵。藤田は「私も犬は非常に好きだ」とし「それだけに犬の死を考へると淋(さび)しくてならぬ。普段仕事が忙しくて充分犬の世話を焼けぬ私は、殺すまいとして飼ふ気になれないのである」と吐露。これとは別に、秋田市の藤田作品の収集家・故平野政吉から秋田犬をもらった藤田が平野へ37年3月に出した手紙2通の写しも見つかった。平野の三男で平野政吉美術財団理事の政高さん(69)が保管していた。2通のうち1通で、飼育を断念したと報告。もう1通には「どうか秋田犬うまく帰るよう祈ります」と記し、秋田犬を上野から秋田へ列車で送ったと知らせている。藤田の兄の孫の嗣隆さんの説によると、藤田が妻と死別した30年代に、仲むつまじい犬の姿に自らを仮託したのか「一犬居(いっけんきょ)」と犬の字が入った落款を使ったこともある。藤田に詳しい美術史研究者の林洋子さん(日仏文化交流)は「藤田は猫の絵が多いが、数は少ないが犬も描いている。フランス人の妻が犬を飼っていたこともあり、犬を好きだったのは考えられることだ。藤田の一面を知る貴重な資料だ」と話している。
★1930年にニューヨークで出版した20枚のエッチング版画を収録した『猫の本』は、過去に出版された猫に関する本で最も人気があり、現在は希少本とされている。
★1940年作、東京国立近代美術館所蔵の有名な「猫(群猫)」。当初は「闘争」というタイトルだったようである。争い合う猫の群れが、戦争に突き進む闘争的な時代の雰囲気を表しているという説もあるようだ。
★洋画家・伊藤悌三(1907~1998)の話では、藤田がこの作品の取っ組み合いをしている猫達を指差し「これが誰々これが誰々」と、同業の洋画家の名前を挙げたという。画壇内部での嫌な場面に遭遇し、我慢出来ず、その光景を猫の姿を借りて描いたようである。(談:息子の版画家・伊藤卓美)
猫について藤田は、「画室にいるときモデルがないと猫を描くのである。サイン代わりに猫を描くこともある」と語る。猫は藤田の分身 ともいえ、実際に自画像では、藤田と猫はいずれもぴったり寄り添って描かれる。また、 猫は女性 をあらわすともいう。 「可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじゃないですか」 と藤田は話している。
★1945年8月、疎開先の神奈川県相模湖奥の農家で敗戦の日を迎える。自分の戦争画や関係資料を焼く。昨日までの各界大物がぞくぞく戦犯として逮捕されはじめる時期である。1946年春、疎開先から東京都練馬区小竹町に帰る。占領軍GHQ所属出版・印刷担当者として敗戦の日本に進駐したフランク・E・シャーマンの訪問をうける。彼はかねてよりエコール・ド・パリの巨匠フジタの熱烈なファンであった。文化界にも戦争責任追及は波及し、寄り付かなくなった日本人とは逆に、シャーマンはしばしば訪問、フジタの日本脱出の協力を約束。シャーマンの意見で、まずアメリカに渡ることを決め、1949年3月10日、羽田空港からアメリカに発つ。「絵かきは絵に誠実に、絵だけを描いてほしい。仲間ゲンカをしないで下さい。一日も早く日本の画壇が、意識的にも、経済的にも国際水準に達することをいのる。」といいのこし、再び日本の土をふむことはなかった。
・・・今もこれからも「戦後」、アートに関わる全ての者が背負っていくべき課題、答えは「迷宮」(自分の心)の中にある。