・・・船形埴輪(1)で、まだ見たことありませんが、平野区民センターに「市立埋蔵文化財収蔵倉庫」がありますと書きました。報告が遅くなりましたが、観てきました。
《コミュニティプラザ平野(平野区民センター)》
547-0011大阪市平野区長吉出戸5-3-58/06-6704-1200
https://www.osakacommunity.jp/hirano/sisetu_a.html
★設計:出江寛/竣工:1995年7月
http://www.izue.co.jp/index.html
http://www.izue.co.jp/works/pub/05.html#
【出江寛】(1931~)
日本建築家協会第10代会長。京都府生まれ。京都市立伏見工業高等学校建築科を経て、1957年立命館大学理工学部土木工学科卒業。京都大学施設部技術課建築係勤務の後、1959年竹中工務店大阪本店設計部入社。1976年★竹中工務店大阪本店を設計副部長にて退職、出江寛建築事務所設立。1994年からは★大阪芸術大学講師を勤める。黒川紀章に「名人」とまで言わしめる手法は、その鋭い感性と独特の美学が生み出す表現手法にある。気性の激しさとその奔放無頼の発言は多くのファンを惹き付ける一方で敵も多い。そのため、長らく大きな建築賞とは無縁で、★「無冠の帝王」と呼ばれてきた。
《参考》「文化」とは、時の経過によって正直に「古美て」いくこと。
https://www.nomizu.co.jp/interview/izue2.html
文化と文明の違いを説明するなら「かくし味」のあるものが文化です。高い・速いを文明の特徴とするなら、低い・遅いが文化の特徴。野菜をサラダオイルで食べるのは文明で、漬け物にして食べるのは文化。漬け物というのは、時間をかけて漬け込むわけでしょう。できあがりが遅いわけです。けれど費やした時間、つまり「刻」が「コク」に通じる。かくし味ですね。文明の素材として代表的なものがステンレスですが、これは未来永劫、変質することがない。けれど昔からある素材は時間経過によって表情を変えていく。銅は歳月につれて酸化し、茶色から緑色に変わるし、鉄も同様で、"くろがね"と呼ばれることからもわかるように黒色だったものが、あかく錆びていく。木も素木から茶色く変色していく。素材の内部にあった、かくし味が表に出てくるわけです。私は、こうした過程を「古美る」と呼んでいます。辞書によると平仮名で「古びる」となっていますが、本来は漢字で「古美る」と書くべきでしょう。内面性や精神性といったポテンシャルが、時を経ることによって正直に表に出てくることです。千利休の師である武野紹鴎が「侘」について問われたとき、「正直で慎み深く奢らぬ様をいう」と説いています。正直に古美ていくことが、日本精神の精髄である侘に通じるわけです。一見すると高級そうな名木に見立てたベニヤ板や、年月が経って古くなったり剥げたりすると、内部から別な安物の素材が露出してしまう。本皮のようなビニールクロスも、大理石のように見えるプラスチックも、正直じゃないわけですね。しかし瓦などは、いくら月日が過ぎても土の表情しか出てきません。正直に古美ていくことが、瓦の魅力になっているわけです。
建築家というのは、環境を創る仕事です。そもそも職業の最後につく文字で、八百屋や魚屋のように「屋」がつくのは、たんに物を売る人。設計士や技術士という「士」がつくのは技術を提供する人。そして画家や音楽家といった「家」がつくのは美学や心を伝える人のことなのです。だから建築家は、たんに箱物を建てるだけでなく、周囲の環境までも汲み取って作品を創造しなくてはならない。日本の建築が美しく潤いのある存在であり続けるよう注意しなくてはならないのです。大阪や東京のような都市が、いったん焼け野原になってしまって戦後。つまり物のなかった時代は「物」にのみ価値がありました。けれど、そうした時代は終わり、物のあふれかえった現代に重要なことは、綺麗なだけではなく、美しく「古美る」、潤いのある都市創造なのです。だからこそ古い瓦屋根の街に、いきなり派手なマンションを建てるような真似は慎まなければなりません。私が設計した★「瓦ミュージアム」のある滋賀県近江八幡は、昔ながらの古い瓦屋根が主役となった街並みです。この風景と調和するよう建物を瓦屋根としたのは当然ですが、さらに昔の瓦に倣い、黒く色むらが表出するよう焼きあげました。敷地内にある古瓦の庭は、分節化された建物の間合いを面白くするために、古瓦をいろいろな形に並べた庭園です。ここでは、有名な一休禅師の語った人生観であり、美学である「真・行・草」という三段階に沿った展開となっています。本来「家庭」とは家と庭があわさったものです。そして家を家族の語らい、言葉の空間とするならば、庭は沈黙の空間でしょう。つまり沈黙の素材である瓦こそがふさわしいわけです。
★「市立埋蔵文化財収蔵倉庫」
街角ミュージアム17「平野区民センター/文化財展示コーナー」
http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M17.html
平野区は全国的にも有名な遺跡が数多くある遺跡の宝庫です。エントランスでは長原遺跡から出土したことから「長原式土器」と命名された縄文時代晩期末の土器、加美(かみ)遺跡の弥生時代の墳丘墓に供えられた土器や高廻り2号墳の埴輪レプリカなど、平野区の代表的な遺跡の出土品を展示しています。区民センタ-の地下は大阪市の「埋蔵文化財収蔵倉庫」になっており、膨大な量の発掘資料が保管されています。
・・・撮影は許可していただけるのですが、残念ながら公開禁止です。そのかわりに、「大阪文化財研究所」30年のあゆみを紹介します。
《大阪市博物館協会・大阪文化財研究所》
(旧)大阪市文化財協会・文化財研究部は
540-0006大阪市中央区法円坂1-6-41/06-6943-6833
私たちは大阪市内において、実に多くの遺跡・遺物を発掘調査しています。古代の難波宮跡や近世の大坂城跡はもちろん、3万年前の旧石器時代からほんの100数十年前のさまざまな祖先の生活の跡が見つかっています。当サイトでは私たちの事業をすこしずつ紹介していこうと思います。それを通じて、魅力ある大阪の遺跡・遺物を知って頂き、大阪という土地に浪漫を感じて頂ければ幸いです。
★1990年穿4月★「長原分室」を旧大和川小学校(平野区長吉長原東3-2-5)へ移転、保存科学室が稼働。
★1996年2月★「長吉分室」を設置(平野区長吉出戸7-12)
★1996年4月、難波宮・長原・長吉分室をそれぞれ難波宮・長原・六反調査事務所(~★2003年5月)改称。
《NEWS》2017.1.11産経WESTより
太閤さん石垣、公開ピンチ/幸村躍動の初代大坂城、市が整備計画も資金集め難航。目標額の4割…大阪人の「タニマチ気質」に期待!?
https://www.toyotomi-ishigaki.com/
戦国武将、真田信繁(幸村)を描き人気を博した昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」。そのクライマックスの舞台にもなった、豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を一般公開しようとする大阪市主導のプロジェクトがピンチに直面している。石垣が眠る地下に展示室を設けるため、5億円を目標に募金を呼びかけているが、期限まで残り3カ月となった12月末時点で集まったのは1億9千万円弱。市は募集期間の延長を検討しているものの、目標額に届かなかった場合のめどは立っておらず、PRに躍起だ。現在、地上にある石垣など遺構の多くは慶長20(1615)年の大坂夏の陣の後、徳川方が豊臣期の大坂城を地中に埋め、新たに築いたものだ。この事実は戦後に詳細な学術調査が行われるまで明らかになっていなかったが、昭和59年に天守閣の南東にある金蔵付近の地下から高さ約6メートルに及ぶ石垣を発見。「今の大阪城を『太閤さんの城』と思い親しんできた大阪市民にとって衝撃は大きかった」(市担当者)という。この石垣は「詰(つめ)の丸石垣」と呼ばれ、巨石が整然と積み上げられた現在の石垣とは異なり、大小の自然石を加工せずに組み合わせた「野面(のづら)積み」が採用されている。寺院の礎石や古墳の石棺、石臼など別の用途に使われた石材の再利用が目立つ点が徳川期の大坂城の石垣と大きく違うといい、大阪城天守閣の主任研究員の跡部信さんは「当時の技術の粋を集めた貴重な遺構」と話す。詰の丸石垣は地中に埋め戻されたが、市は平成24年、3年後の27年に夏の陣から400年を迎えるのを機に、地下展示室を設けて石垣を間近で見られる施設を整備する計画を発表。総事業費約10億円のうち、市が負担する5億円を民間からの寄付で賄うプロジェクトがスタートした。1年目の25年度こそ約8700万円が集まったが、その後は減少の一途をたどった。期限は29年3月だが28年度の募金は4~12月で約1600万円で、累計は目標の4割に届かない約1億9千万円弱にとどまる。市は32年度からの公開に向け、募集期限の延長も視野に入れる。不特定多数の人がインターネット経由で資金提供するクラウドファンディングやふるさと納税での寄付を呼びかけるなど目標額達成に向けて必死のアピールを続けている。市が期待するのは大阪人の「タニマチ気質」だ。1600年代の落雷による焼失で天守閣を失っていた大坂城を復興させるため、昭和初期に当時の関一市長が進めた再建事業では、「大阪のシンボルを復活させたい」という市民らから現在の750億円相当の寄付が集まったこともある。平成26年に詰の丸石垣を一般公開した際には3日間で1万人以上が訪れるなど市民らの関心も高い。市は関連イベントを通じて募金を呼びかけていくといい、担当者は「一人でも多くの方の力を借り、太閤さんの石垣を見てもらえる施設を造りたい」と話している。豊臣秀吉が天下統一の拠点として天正11(1583)年に築城を始め、約15年をかけて完成させたが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川方に敗れ落城した。新たに石垣や堀を造り、江戸幕府が寛永6(1629)年に築いた2代目大坂城の天守閣は、約35年後に落雷で焼失。250年以上たった昭和6年に再建され、平成7~9年に大改修が行われた。江戸以前は大坂城、それ以降は大阪城と称される。
《大阪城の石垣プロジェクトについて》2018.4.27大阪市
本プロジェクトは、大阪城エリアの世界的な歴史・観光拠点化をめざして、平成25年度から実施しております。この豊臣石垣公開施設の完成により、近年増加している観光客の皆さまにも、豊臣時代から徳川時代にかけての大阪城の歴史の変遷を感じていただくことができ、大阪城の特筆すべき特徴である歴史の重層性を広く後世まで伝え示していくことで、より一層の魅力向上につながると考えております。寄附金につきましても、施設完成までを募集期間としておりますが、これまでに多くの方々にご賛同いただき、平成30年1月末現在、件数にして約5,000件、金額にして約2億円を超えるご寄附をいただいております。つきましては、引き続き本プロジェクトおよび「太閤なにわの夢募金」のより一層の周知に努めるとともに、一日も早い施設完成に努めてまいります。
・・・「埋蔵文化財収蔵倉庫」に保管されている、「金箔瓦」も観せていただきました、感動です。