HIROSHIMA(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・昨夜に続いて、もう一度ゆっくりと確認したいことがあります。

 

 

・・・夜には姿を見ることができませんでしたが、「平和(カエル)の合唱」を唄ってくれていた「ヒロシマの蛙」、ええ顔してるなあ。

 

 

《広島国際会議場》 

730-0811広島市中区中島町1-5/082-242-7777 

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/icch/ 

広島市は「国際平和文化都市ひろしま」を都市像に掲げ、世界に開かれたまちづくりを推進しています。広島国際会議場は、その拠点施設として、市制施行100周年を迎えた1989年7月に、平和の聖地・広島平和記念公園に誕生しました。地上3階、地下2階からなる広島国際会議場は、1,504名収容の大ホールをはじめ、国際会議ホールや大・中・小の会議室などを備えており、コンサートや講演会、国内・国際会議はもとより、展示会、パーティなど、さまざまな用途に合わせ幅広くご利用いただけます。

 

 

《広島平和記念資料館》 

730-0811広島市中区中島町1-2/082-241-4004 

http://hpmmuseum.jp/?lang=jpn

本館は現在、改修工事中です。(2019年(平成31年)春リニューアルオープン予定)現在、本館展示の内容の一部を東館1階の企画展示室で展示しています。リニューアル前の本館展示は旧ウェブサイト「バーチャルミュージアム」でご覧になれます。 

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/index.html

 

・・・これまでも多くの資料や写真を見てきたというのに、胸こみあげてくる。その場にたたずんでしまう。

 

 

●資料展「ドーム誕生!」 

ー写真と資料で読み解く被爆前のドームー 

平成30年3月30日~平成30年8月31日 

広島平和記念資料館東館地下1階
この資料展では、原爆ドームの前身・広島県物産陳列館の建築計画から被爆までの歩みを、資料と写真でご紹介します。

 

《広島県物産陳列館》 

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/dome/contents/1005000000001/index.html

明治後期の広島では、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に1904年(明治37)に起きた日露戦争を契機として、大量の軍需品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。このような経済的発展に伴い、国内での激しい市場競争に耐える製品の開発、品質向上、販路拡大等を図るための拠点づくりが求められていました。原爆ドームのもとの建物は、チェコ人★ヤン・レツルの設計により、1915年(大正4)4月、広島県物産陳列館として竣工しました。この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。第1階は主に事務用、第2階及び第3階が陳列用に当てられました。庭園の広さは約500~600坪あり、樹木が植えられ、洋式庭園には八方から水を吐く噴水を備えた池、和風庭園には四阿(あずまや)も作られていました。建坪面積は310坪、陳列場は620坪でした。そのころの広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、大胆なヨーロッパ風の建築デザインによる物産陳列館のような建物は非常に珍しく、その出現は市民にとって大変な驚きであり、川面に映える姿の美しさとあいまって、広島名所の一つに数えられました。館の業務は県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製等でした。同館は、産業奨励だけでなく、会場を提供することで博物館・美術館の役割も果たし、広島の文化振興の場として大きな役割を担っていました。館の名称は、1921年(大正10)に広島県立商品陳列所、さらに1933年(昭和8)からは広島県産業奨励館と改称されています。

 

 

●収蔵資料展〈★旧日本銀行広島支店にて展示〉 

平成29年7月28日~平成30年7月31日 

旧日本銀行広島支店地下1階OCR室・第1金庫室・第2金庫室 

http://hpmmuseum.jp/modules/exother/index.php?action=PageView&page_id=14

平成27年から旧日本銀行広島支店地下1階で開催中の広島平和記念資料館収蔵資料展は、平成29年7月28日から内容を更新しました。このたびの展示では、平成28年にアメリカで新たに収集した写真のほか、展示会場の目の前の通り(鯉城通り)の惨状を描いた原爆の絵、被爆資料を展示しています。1945年8月6日、この街で何が起こったか。被爆建物である旧日本銀行広島支店で、当時の惨状を想像してみましょう。 

 

・・・「旧日本銀行広島支店」にも行かねば、 

 

《旧日本銀行広島支店》 

730-0036 広島市中区袋町5番21号/082-504-2500  

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1000000000463/index.html

旧日本銀行広島支店では、広島市指定重要文化財として建物公開も兼ねて、催し等を開催しています(いずれも入場無料)。 

1905年(明治38)に、日本銀行広島出張所が水主町(現在の中区加古町)に設置され、1911年(明治44)には広島支店に昇格しました。その後、業務の拡大に伴い、1936年(昭和11)9月に、現在地である中区袋町に新築移転しました。旧広島支店の建物は、古典様式の優れた外観を有する広島の昭和初期を代表する希少な歴史的建築物であり、また、1945年(昭和20)8月6日に、爆心地からわずか380mという近距離で被爆しながらも、その堅牢性から建設当時の姿を現在もほぼ残しています。被爆時においては、1階と2階はよろい戸を閉じていたため、内部の大破を免れましたが、3階は開けていたため全焼し、建物にいた20人(※)が死亡しました。また、被爆当日は、食堂などが負傷者の収容所となりました。そして、翌々日の8日には、早くも銀行の支払い業務が開始されるとともに、被災して営業が不可能となった市内金融機関の仮営業所が設置されたという、金融面から広島の復興を支えた史実を伝える貴重な被爆建物です。その後、1992年(平成4)3月に、広島支店が中区基町に移転し、旧広島支店は銀行としての役割を終えましたが、1993年(平成5)6月に、「旧日本銀行広島支店」として被爆建物台帳に登録され、2000年(平成12)7月に、広島市の重要有形文化財に指定され、現在一般公開されています。なお、1970年(昭和45)には、この建物の北側に新館が増築されましたが、1997年(平成9)6月に取り壊されています。