・・・ちょっと報告が間延びしてしまいましたが、
《北御堂》浄土真宗本願寺派「本願寺津村別院」大阪教区教務所
541-0053大阪市中央区本町4-1-3/06-6261-6796
石山本願寺は、明応5年(1496)蓮如が坊舎を建立(現大阪城地)したことにはじまる。その後、政治経済の要衝大坂に目をつけた織田信長に攻められ(石山合戦)、遂に天正8年(1580)顕如のとき大坂を追われた。しかし秀吉により天満に寺地を与えられ(天正13年)堂舎を造営したが、まもなく京都に移された。ここで顕如が死去、継嗣者について秀吉から提示があり、東西本願寺に分立した。両派はともに大坂に教化の拠点をおき、教団の統制に努めた。東方にまわった教如は、難波別院(南御堂)を建立(慶長2年、1597)大坂の拠点にしたが、弟の准如は津村別院(北御堂)によって(慶長10年以降)それに対抗した。両者とも堂舎が壮麗なため、明治維新前後は公的場所として利用されたが、全て戦災で焼失した。なお大阪のメインストリートである御堂筋の名称は、これによっている。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009608.html
・・・「北御堂コンサート」には、これからも参加したいと思います。さて、この機会に「北御堂」と「南御堂」について勉強しておきましょう。
《御堂筋の由来》
北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が御堂筋の語源となっています。浄土真宗本願寺派と大阪との関係は古く、本願寺★蓮如が明応5年(1496)に石山御坊を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされます。
織田信長との合戦のあと焼失し、天正19年(1591)には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転します。津村別院は当初、「津村御坊」の名で慶長2年(1597)につくられました。難波別院は浄土真宗の真宗大谷派と呼ばれる宗派です。
文禄5年(1596)真宗大谷派の開祖である★教如が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まります。しかし、天正11年(1583)豊臣秀吉が石山本願寺跡に大阪城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により慶長3年(1598)現在地に移転しました。江戸時代は、これら南北の御堂を併せて「御堂さん」として親しまれました。大阪を南北に貫く御堂筋の名前は、北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来しています。名づけ親は関一元大阪市長です。
《南御堂》真宗大谷派難波別院
541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11/06-4708-3276
★2017.2.18プレスリリース
難波別院の山門を兼ねた「御堂会館」は、老朽化によって止むなく★2016年1月に休館いたしました。今後の運営について鋭意検討を重ねた結果、定期借地権を活用した建替工事を行うことが決定しました。つまり新施設は、事業者の資金を活用した建替によるもので、難波別院は御堂会館があった土地を賃貸することになります。定期借地権は、60年間を設定し、将来を見据えた境内全体を俯瞰する構想が今後展開されます。建替を行う事業者は、積水ハウスグループの積和不動産関西(株)で、ホテルを中心に運営されます。日本初の寺院山門と一体となったホテルに加えて、浄土真宗のみ教えを発信していくため、難波別院の総合案内所や多目的会議室を含む、複合施設が建設されます。運営されるホテルは、関西初出店となる「エクセルホテル東急」が誕生します。御堂会館が担ってきた文化交流の歴史を継承し、御堂筋の新たなランドマークとして世界各国から来られた方に日本のおもてなしを体感できるホテルが提案されています。なお、竣工は★2019年冬を予定しています。工事期間中は、ご参拝される皆様に大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
・・・「エクセルホテル東急」愉しみですね。