・・・「船形埴輪」を確認するため「大阪歴博」に行ったわけですが、
《大阪歴史博物館》
特別企画展「なにわ人物誌★堀田龍之助=幕末・近代の大阪に生きた博物家」
平成30年4月25日(水)~ 6月18日(月)
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2018/hottatatsunosuke.html
堀田龍之助(1819~1888)は、博物学の素養を蓄えた人物として、幕末・明治の大阪に生きた人物です。若い頃には、和歌山の博物学者・畔田翠山(1792~1859)と交流を深めながら、多くの知識を身につけていきました。また、京都の山本読書室(平安読書室)にも出入りをしており、医師であり博物学者でもあった山本榕室(1809~1864)と物産関係の情報交換や写本のやりとりなどを行っていました。明治になると、大阪に開設された「★博物場に勤め、明治期の博物館建設に大きな役割を果たした田中芳男(1838~1916)らに協力して、畔田翠山の著作『水族志』の刊行にも尽力しました。今年は龍之助が没して130年になります。本展覧会は、現在大阪歴史博物館が所蔵する堀田家旧蔵資料を中心に約100件を展示し、市井に生きた博物家・堀田龍之助の足跡を辿ります。
・・・なんと、以前から気になっていた★「大阪博物場」に関わっておられた人物ということで、あらためて(再燃)調べてみることにしました。
●堀田は幕末から明治の大阪で商売をしながら、和歌山の畔田翠山ら博物学者との交流の中で博物学の知識を深め、大阪に開設された★博物場(博物館の前身)の運営や翠山の著作「水族志」の刊行にも尽くした。
●明治になると、大阪に開設された★博物場に勤め、明治期の博物館建設に大きな役割を果たした田中芳男(1838~1916)らに協力して、畔田翠山の著作『水族志』の刊行にも尽力しました。
●各地で活動していた博物家と呼ばれる人々のなかには、地道な活動を続けた人物を大勢いました。明治時代になると大阪に開設された★博物場に勤め、明治期の博物館建設に大きな役割を果たした田中芳男らに協力して、畔田翠山の著作『水族志』の刊行にも尽力しています。そんな人物のひとりが堀田龍之助(1813-1888)です。幕末から明治の大阪で商家を営みながら博物学の研鑽を重ね、晩年には★大阪博物場にも関わりました。
●堀田は1875年、博物館の前身となる★大阪博物場の開設に伴い、職を得る。資料が少ないため、どんな役割を担っていたか定かではないものの、博物学の知識や実績が評価されて迎え入れられたことだろう。官民のわくを超えて博物学に打ち込んだ生涯だったともいえようか。
●明治8年(1875)、大阪に★博物場ができました。そこで働いていた堀田龍之助(1819~1888)は幕末から活動していた博物家でした。
・・・そして、いつも参考にさせていただいている大阪在住フリーライター「小吹隆文」さんは、
https://twitter.com/kobukitakafumi
●大阪歴史博物館の「堀田龍之助」展。貝類標本、医学・化学関係資料、堀田が明治時代に勤務した大阪博物場の辞令。貝類標本は木村蒹葭堂のと比べたら地味な印象。★大阪博物場は現在のマイドームおおさか辺りにあったらしいが、その詳細は分かっていない。
・・・小吹さんは主に「現代美術」の仕事をされているからか、「大阪博物場」については★「その詳細は分かっていない」と書かれているだけで、とても残念です。だとするなら、一体誰がその詳細を研究するのだろうかと、悲喜こもごも思うわけです。