・・・「猫アート」でヒロシマを紹介して後、続きは「街アート」で紹介していこうかとも考えたのですが、
《参考》「ひろしま観光なび」
https://www.hiroshima-kankou.com/world-heritage/world-heritage/top
2つの世界遺産★「原爆ドーム」「嚴島神社」の歴史や散策ポイントを、また世界遺産比較として「海の上にある世界遺産」「平和と人権の尊さを訴える世界遺産」を紹介します。
・・・まさしく、日本が「世界」に発信すべき「遺産」であるわけです。広島に到着した日はあいにくの雨で、まず目的である「ひろしま美術館」に直行したわけです。その夜には雨が上がり、夕食がてら広島の街へ、そして平和公園へ。
《おりづるタワー》
730-0051広島市中区大手町1-2-1/082-569-6803
http://www.orizurutower.jp/access/
商業・観光施設およびオフィステナントフロアからなる複合ビルです。1978年に竣工したオフィスビルが、全面改修により新たに複合ビルとして生まれ変わりました。広島マツダが建設・運営に携わり、2016年7月11日にプレオープン、9月23日にグランドオープンした「おりづるタワー」。世界文化遺産である「原爆ドーム」と、広島市最大の繁華街に隣接した場所に位置しています。「原爆ドーム一帯を訪れる方に、雨風がしのげる『おもてなしの空間』をご用意したい。」「原爆の悲惨さだけでなく、復興や希望、未来などの『広島の豊かさ』を感じられる場所をつくりたい。」というコンセプトで造られています。コンセプトの背景にあるのは「原爆による悲劇と復興」です。おりづるタワーの建設・運営に携わる広島マツダは、1933年に当時原爆ドーム一帯に位置していた猿楽町で創業。しかし1945年の原爆によって、社屋はもとより全社員を失うという悲劇に会います。その悲劇を乗り越え、広島の復興とともに成長を続けた広島マツダは、2015年には創業83年をむかえました。「創業の地で、地元広島の皆様や観光に来た方へ、原爆の悲惨さだけでなく、広島の復興や未来、希望を感じて頂く場所を作りたい。そして、広島の地で活動し続けていくことで、広島から受けたご恩を返していきたい。」そんな思いが「おりづるタワー」には込められているのです。
《原爆被災説明板「猿楽町通り周辺」》
中区大手町一丁目(原爆ドーム北東植え込み内)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111556435746/index.html
この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、★能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートルでさく裂し、驀進直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。復元地図は、原爆で消えたかつての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気あふれていた1940(昭和15)年前後を生存者の情報をもとに再現したものです。
《NEWS》2018.2.27朝日新聞デジタルより
広島市出身で、日本の児童文学の父と言われる★「鈴木三重吉」(1882~1936)が児童雑誌「赤い鳥」を創刊してから、今年で100年。創刊の経緯や雑誌が果たした役割について専門家が語る講演会が3月11日、広島市で開かれる。同市★猿楽町(現在の中区紙屋町)で生まれた鈴木は、県立広島第一中(現在の県立広島国泰寺高)を卒業し、東京帝国大(現東京大)英文科で夏目漱石の門下生に。在学中、「千鳥」「山彦」を発表し、文壇デビューを果たした。創刊のきっかけは長女の誕生。子どもに読ませたい純粋な児童雑誌が無いことに落胆したことから、童話・童謡の創作運動を始め、1918(大正7)年に第1号を出版したという。
《原爆ドーム》「ひろたび」より
https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/006276.html
1996年(平成8)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。指定範囲:原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール。原爆ドームは、1915年(大正4)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、1933年(昭和8)には「広島県産業奨励館」に改称されています。設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建で、正面中央部分に5階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。その頃の広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、川面に映えるモダンな美しさとあいまって広島名所の一つに数えられていました。
1945年(昭和20)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。1953年(昭和28)に広島県から広島市に譲渡され、1966年(昭和41)7月には広島市議会が原爆ドームの保存を決議を行い、その後、風化が進み、国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われました。また、世界遺産リストへの登録を求めて、市や市議会、広範な市民運動の結果、1995年(平成7)6月に国の史跡に指定され、文化庁からユネスコに登録申請。1996年(平成8)12月、世界文化遺産へ登録されました。現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。なお、原爆ドーム内部に立ち入ることはできません。入場できる施設ではありませんので、外からの見学になります。
・・・「原爆ドーム」の世界遺産登録名は「広島平和記念碑」です。
《日本ユネスコ協会連盟》
http://unesco.or.jp/isan/list/asia/hiroshima/
世界遺産リストの登録名称は「Hiroshima Peace Memorial(広島平和記念碑)」。
他の登録地が人類の長い歴史や文化を伝えるのに対し、この原爆ドームは、1945年に人類史上初めて使用された核兵器の傷あとを伝える建造物です。時代を超えて、核兵器が世界からなくなることや平和の大切さを訴えつづける人類共通の記念碑といえます。世界には、他にもこのような平和を呼びかける世界遺産がいくつかあります。
《相生橋》
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/97/aioi-bridge.html
広島の歴史を語る上で、避けて通ることのできない橋である相生橋。昭和7年、従来の電車専用橋を架け替えた相生橋は、昭和9年に橋の中央部分から、慈仙寺(じせんじ)の鼻(現在の平和記念公園北端部)へ橋桁を伸ばし、全国でも珍しいユニークなT字型となった。また、そのすぐ南側には、明治11年に架けられた木造の東西2つの相生橋があり、それが取り払われるまでの間、相生橋はH字型を構成し、特徴的な景観を形づくっていた。あの忌まわしき先の大戦では、★この橋を目標に原爆投下したともいわれており、そのすさまじい衝撃波により、橋桁は変形し、北側の高欄は川に落ち、歩道の一部が持ち上がるほどであった。それでもしばらくの間は、被爆した橋の復旧工事をして使用していたが、老朽化が進んだため昭和58年に新しく架け替えられ、被爆の痕跡は橋詰めに保存された親柱と、広島平和記念資料館に展示される爆風で変形した橋桁の一部を残すのみとなった。現在の橋は、平和記念公園や原爆ドーム等周辺の環境との調和を図り、高欄や親柱には御影石が使用されている。
《平和の時計塔》建立:昭和42年(1967)10月28日
https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/005870.html
3本の鉄柱がそれぞれ60度ずつひとひねりした塔上に、球体の三方を向いた時計が乗っています。(高さ約20m)広島鯉城ライオンズクラブが原爆ドームの永久保存に呼応して建設したもので、人類が初の原爆の洗礼を受けた時刻、8時15分に、毎日全世界に向けこの時計塔のチャイムが「ノーモアヒロシマ」を強く訴えています。このチャイム音は、環境庁の、「残したい日本の音百選」に平成8年(1996)選定されました。(平和記念資料館に展示され8月6日の平和記念式典で使用される鐘と「平和の鐘」を加えた全体の音風景が対象)
《平和の鐘》建立:昭和39年(1964)9月20日
https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/005873.html
核兵器と戦争のない世界の達成をめざし、その精神文化運動のシンボルとして「原爆被災者広島悲願結晶の会」が建立しました。鐘/(作:人間国宝★故香取正彦)の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。撞座は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、つく人の己の心を写し出す鏡が入れられています。池には、大賀一郎教授が千葉市の遺跡から2000年前の種を掘り出し発芽させた、有名な★大賀ハスが植えられています。被爆当時、ハスの葉で傷をおおい、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めたものです。
・・・カエルたちの、「平和の合唱」が響いています。
《原爆供養塔》
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1266299389306/index.html
世界最初の原子爆弾の投下(昭和20年8月6日午前8時15分)による犠牲者数万柱の遺骨をここに納める。爆心地に近いこの地では、多数の遺体が収容され、火葬が行われた。昭和21年1月広島戦災供養会が創立され、同5月仮供養塔、同7月仮納骨堂・礼拝堂が市民の喜捨により建立された。昭和30年7月被爆10周年を期して、広島市が中心となって、地下に納骨室を有する現供養塔が建立され、各所に散在していた遺骨をここに納めた。毎年8月6日を中心に、広島戦災供養会を始め、広島県宗教連盟及び各宗派による慰霊行事が執り行われている。
《原爆の子の像》
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110438305305/
「原爆の子の像」は、年間を通じて、たくさんの千羽鶴が捧げられていることから、別称「千羽鶴の塔」とも呼ばれています。像の高さは9メートルで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴しています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びですこれは私たちの祈りです世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。塔の内部には、少年少女たちの気持に感動したノーベル物理学賞受賞者である★湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音がでるようになっています。(この鐘と金色の鶴は、平成15年(2003)に複製されたもので、オリジナルは広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています。)この「原爆の子の像」の周辺には、折り鶴を捧げていただけるよう折り鶴ブースが設置されています。
《NEWS》2018.1.14毎日新聞より
平和記念公園のレストハウス★休館/補強、保存へ
広島市は、改修計画を進めている平和記念公園内の被爆建物で、現在は観光案内所などとして使用しているレストハウス(同市中区)を、1月末で休館すると発表した。外観の保存のための補修や、耐震補強工事などを経て、2019年12月に再オープン予定という。レストハウスは1929年、大正屋呉服店として建設された。鉄筋コンクリート造りの地上3階、地下1階建てで、当時としてはモダンなデザインだった。爆心地からの距離は170メートル。被爆当時は燃料会館として使用され、出勤していた37人のうち、たまたま書類を取るために地下室に下りていた野村英三さん(当時47歳)以外は全員死亡した。57年に市が買収し、82年からレストハウスとして使っている。2016年公開のアニメ映画「この世界の片隅に」でも呉服店当時の建物が登場し、話題を呼んだ。市は、レストハウスが旧中島町地区では被爆前の面影を残す唯一の建物であり、野村さんの被爆体験を伝える重要な施設であるとして、15年度に改修を計画した。市によると、耐震補強やバリアフリー化を進めた上で、被爆前の中島町の写真や模型を展示する部屋を新設。観光案内所や休憩スペースを充実させる。地下室はできるだけ手を加えず保存するという。当初は外観、内観とも呉服店の姿に近づける予定だったが、内観は資料が少なく難航している。レストハウス休館に伴い、平和公園内には仮設の観光案内所が置かれる予定で、今年2~3月は原爆資料館東館1階に、4月から改修工事終了までは原爆の子の像の西側にそれぞれ設置される。