わが町(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《関西電力株式会社「羽曳野営業所」》 

http://www.mozu-furuichi.jp/jp/support/2017/11/01/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E9%9B%BB%E5%8A%9B%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/

関西電力株式会社様の南大阪営業所(堺市)、羽曳野営業所(羽曳野市)において、平成29年7月31日の世界文化遺産推薦候補の選定に合わせて、お祝い横断幕、垂れ幕を設置していただいています。また、両営業所においては、★古墳型花壇を設置していただいています。さらには、関西電力株式会社様が運営されているエルガイアおおい(福井県うみんぴあ大飯内)のバーチャルシアター(幅22m、高さ6m、視界角120度のカーブスクリーン)にて、百舌鳥古墳群VR映像を上映していただいています。(平成30年9月30日まで) 

 

 

・・・私は、ここを「関電の坂」と呼んでいましたが、関電にお勤めの方からはじめて聞いたと驚かれてしまいました。羽曳野営業所が無くなるかもという話も聞きましたが、ますます「関電の坂」という表現はできなくなるなあと、勝手にこまっています。この坂の正式名称は何でしょう、「仁賢天皇埴生坂本陵」が近くにあるので埴生坂」かなとも考えましたが、★サイクリングマップでは他の場所に標記されていました。 

 

《参考1》「仁賢天皇埴生坂本陵」 

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/024/index.html

 

《参考2》「埴生坂」羽曳野市観光協会サイクリングマップ動画版 

http://www.habikino-kk.net/guidemap/cyclingmap-movie/1

河内と大和とを結ぶ「丹比道(近世の竹内街道にほぼ相当する)」に沿った、大阪府羽曳野市野々上付近に想定されている坂。記紀に見える伝承によれば、仁徳天皇没後に起こった住吉仲皇子の反乱に際し、皇太子であった後の履中天皇が埴生坂まで逃れて、燃えさかる難波宮を見て歌を詠んだという。また、《日本書紀》大化5年(649)3月条の丹比坂も、この埴生坂と同一である可能性が大きい。仁賢天皇の埴生坂本陵や来目皇子の河内埴生山岡上墓の表記を参照すると、現在の羽曳野丘陵を指して埴生山と称している。 

 

《参考3》「竹内街道わらべ歌」 

雨は降るふる 古市で 傘を借るかる 軽墓で 馬に乗るのる 野々上で 馬が死ぬしぬ 新田で コロッと落ちたら★五軒家の坂で 金は樫山 もって郡戸 煙草一ぷく のむ野村 丹南 松原 麦どころ 一石播いて 八斗どり せんど歩いて またくらの 前足に 大豆塚でけました 

 

《参考4》「履中天皇」 

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/rityuu.html

古事記に三首の歌謡を伝える。 

波邇布(はにふ)に到りまして、難波の宮を見やりたまへば、其の火なほ炳(あか)くみえたり。かれ天皇また御歌はしけらく 

埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり

http://yomukiku-mukashi.com/Ricyu1.html

【通釈】埴生坂の上に立って眺めると、燃えている家々が見える。妻の家のあたりが。補記:古事記下巻。難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見しての詠。説話を離れて読めば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、のどかな国見歌になる。 

 

 

・・・堺市の関電にも、「前方後円墳」花壇が整備されていました。

 

 

・・・羽曳野市内には、次のような「坂」もありました。 

 

《城不動坂古墳》 

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_koki/2387.html

平成20年に高屋城北限の土塁の下から発見された古墳で、安閑陵古墳の北東約50メートルに位置しています。古墳は高屋城築城に際して大きく破壊されていましたが、横穴式石室を内部主体にもつ全長約36メートルの前方後円墳であることがわかりました。石室規模は、玄室長4.2メートル、玄室幅1.6メートル、羨道長4.8メートル、羨道幅0.9メートルを測ります。石室内からは、土師器壷、須恵器器台・高杯・提瓶・甕などが出土しました。さらに組合式家形石棺が納められていたこともわかりましたが、そのほとんどはすでに大きく破壊されていました。また周溝からは、埴輪や須恵器が出土し、なかでも盾持人物埴輪と呼ばれる珍しい埴輪が発見されました。出土した遺物から6世紀中頃に築造されたことがわかり、古市古墳群においてもっとも★新しい前方後円墳となりました。 

《NEWS》2011.1.24読売新聞より 

大阪府羽曳野市教委が発掘した6世紀中頃の前方後円墳★「城不動坂古墳」(同市古市)で、横穴式石室が民間の宅地開発で取り壊されていたことが分かった。市教委によると、同古墳は、世界文化遺産の暫定リスト入りが決まった「古市古墳群」内の安閑天皇陵と同時期に築造された可能性が高い。同天皇陵の近くにあることから、被葬者は安閑天皇とかかわりが深い人物とみられる。同古墳は、宅地開発に伴って市教委が別の遺構を調査中、偶然石室の一部が出土した。2009年2月から本格的に調査し、石室の玄室は縦4・2メートル、横1・6メートルで全長36メートルの前方後円墳の一部だったことが判明した。市教委は遺構を保存するよう業者に打診したが、交渉は難航。一方、土地の買い取りなどには数千万円の費用が必要なことなどから、やむなく保存を断念したという。 

 

《高屋城不動坂》 

 

《参考》「城山姥不動明王」碑文 

抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。さて移築の現姥不動明王(旧称★伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。 

 

《清寧天皇河内坂門原陵(白髪山古墳)》 

 

 

・・・大きな「橋」はもちろんのこと、小さな「橋」にも名称があります。と同様に、「坂」にも名称を付けて、その坂の前後(上下)に由来を記してほしいものです。町を愛するって、そういうことではないかなあ。