◆【ひろしま美術館】◆
730-0011広島市中区基町3-2中央公園内
(リーガロイヤルホテル北側)/082-223-2530
http://www.hiroshima-museum.jp/
ひろしま美術館は、昭和53年11月3日に開館しました。この年創業100周年を迎えた★「広島銀行」が、地域とともに歩んだ歴史の記念事業として設立したものです。昭和20年8月6日、あの原爆の劫火によって幾多の尊い命が失われ、街は一瞬にして廃墟と化しました。それから30数年、広島は平和文化都市の建設を目指して、復興の道を歩んできましたが、その道程の中で久しく求められていたのは、心の喜びとやすらぎの場でした。この美術館は、“愛とやすらぎのために”をテーマに、構想10数年のもと、人々の希求に応える香り高い美の殿堂として誕生したのです。今日の広島の礎となられた原爆犠牲者の方々への鎮魂の祈りと平和への願いがこめられています。
http://www.hiroshima-museum.jp/collection/index.html
印象派を中心としたフランス近代美術と、日本洋画や日本画などの日本近代美術コレクション、約300点を所蔵しています。本館では、フランス近代美術を約90点展示しています。
★「ねこがいっぱい ねこアート展 」
エジプトのねこから浮世絵、フジタのねこまで
2018年4月21日(土)~ 6月24日(日)
http://www.hiroshima-museum.jp/special/detail/201804_Catart.html
しなやかな肢体や俊敏な運動能力、愛くるしい仕草、柔らかな毛並みなど、猫の多彩な魅力は世界中の芸術家たちを魅了してきました。本展では、世界中で描き、かたち潾づくられてきた猫の絵画や彫刻を展示し、東西における表象の違いや、人々の暮らしの中でみせる猫の様相、歌川国芳やフジタら愛猫家たちによって鋭い観察力で捉えられた姿など、猫の美術の歴史を辿りながら、その限りない魅力に迫ります。
《参考》「猫」/作:長谷川潾二郎(美の巨人たちより)
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/050226/
その画家は一枚の絵を完成させるのにひたすら待った。愛猫が美しい毛並みをみせて心地よさげに丸まる初秋の日々を。土の色が美しく輝き、緑がもゆる春の日を。愛猫はひげを描けぬまま6年後に死んでしまったし、土の色には10年以上を要することもあった。こんな調子だからとにかく寡作。画家の名は、長谷川潾二郎(1904~1988)。潾二郎は生前、ほとんど注目されることがなかった。描いたのは、自宅兼アトリエのあった東京・荻窪近辺の風景と静物画ばかり。そのうえ画壇からも遠く離れ、マスコミに取り上げられることも少なかった。その制作態度は極めて独特で、実物を目の前にしなければ描かなかった。だが、そうして完成した絵からは静謐(せいひつ)さの中にも夢幻的な美しさが漂う。近年、猫の絵を中心に徐々にその名を知られるようになり、今年は画集の出版や初めての大回顧展が相次ぐ。猫の絵は今や猫を描いた日本絵画の最高傑作とまでいわれている。潾二郎はなぜ見なければならなかったのか。なぜ何年も待たねばならなかったのか。これまで多くが謎に包まれてきた。ところが近年、潾二郎が半世紀以上にわたり書きつづった日記、手記、デッサンの存在が明らかになった。そこから浮かび上がってくるのは、潾二郎が日常に潜む至高の美を見出し、その感動を画面に定着させようと苦闘を重ねる姿である。まるで一編の詩を、推敲(すいこう)に推敲を重ねて完成させていくような辛抱強い作業の果てに、自ら破棄してしまった作品も多い。★「現実は精巧にできた夢である」という謎の言葉を書き記した潾二郎。ただひたすらに待ち、描いた画家の生活と作品世界を新発見資料、遺族・関係者の証言を交え綴っていく。
※VTRにご出演いただいた美術評論家★針生一郎さんは、2010年5月26日にお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【針生一郎】(1925~2010)
1925(大正14)年12月1日、宮城県仙台市に生まれる。生家は味噌醤油屋を営んでいた。「学生時代は軍国青年であった」と本人は語り、保田与重郎などの著作に傾倒し、1948(昭和23)年東北大学文学部卒業(卒論は島崎藤村)。49年東京大学美学科特別研究生(旧制の大学院制度、54年修了)。48年頃から、花田清輝、野間宏らの「夜の会」、安部公房らの「世紀の会」、雑誌『世代』の同人に、50年からは岡本太郎らの「アヴァンギャルド芸術研究会」などに参加することで、読書会や現場を主体とした在野の視点を築き、学者でなく批評家の道を歩む方向を見出す。だが、一方では52年美学会の創立に参加、学会誌『美学』の編集に携わる。53年には日本共産党に入党し(61年除名)、日本文学学校に職を得る。また、ルカーチの著作にふれ文学・哲学関連の執筆活動をはじめており、53年に新日本文学会へ入会する。同会は針生が一番長く所属した会であり、『新日本文学』の編集委員や議長を歴任した。さらに同年『美術批評』誌への執筆が、現代美術評論家の出発となった。針生の評論活動の時代は、戦後民主主義の始動、60年・70年安保といった政治的な激動期であった。自身、50年代の基地闘争をはじめ三井三池炭抗闘争へ参加、★「政治と芸術」をテーマに、現代芸術と大衆(または生活者)をめぐるダイナミクスを論じることを常としていた。69年から刊行された全6巻の評論集は、戦後の芸術運動を捉え、「大衆のなかから形なき前衛」を望む姿勢を発するものである。対外的には、67年のヴェネチア・ビエンナーレ、77年と79年のサンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーをはじめ、アジア・アフリカ作家会議の委員を務めるなど、パレスチナをはじめとする第三世界、国交樹立前の中国や南北朝鮮との文化交流に積極的に参加した。67年からのヨーゼフ・ボイスとの交流は★「運動としての芸術」への思いを強くしたという。70年代半ばからは★「〈前衛〉の理念の崩壊とともに、個々の作家の仕事を同時代人に正確にうけとらせる作家論に力をそそぎ」(引用「自筆年譜」『機關』17号針生一郎特集より)、今井俊満、岡本太郎、香月泰男、桂ゆきなど多くの美術家の展覧会図録や作品集へ寄稿した。80年代から、「退役批評家」と自嘲的に語り、「原稿執筆は喫茶店の梯子」もしなくなったと語っていた。1999(平成11)年に肺がんを発症、入院し抗がん剤で治療をするも、愛用のタバコ「わかば」は離さなかった。2000年の光州ビエンナーレでは「芸術と人権」の特別展示のキュレーター、02年にはアートスポット「芸術キャバレー」の設立に加わった。評論、講演活動を死の直前まで体に鞭打ち行なった「生涯現役の行動する評論家」といえよう。ドキュメンタリー映画に『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督、2001年)、出演映画に『17歳の風景―少年は何を見たのか』(若松孝二監督、2005年)がある。1968年から73年まで多摩美術大学教授、74年から96年まで和光大学教授、98年から2000年まで岡山県立大学大学院教授を歴任。また金津創作の森館長、原爆の図丸木美術館館長、美術評論家連盟会長を務めた。2010年5月26日、川崎市市内の病院で急性心不全のため死去した。享年84。
・・・書籍を通して、ずいぶんお世話になった評論家でした。
《参考》孤高の画家「長谷川潾二郎展」於:宮城県立美術館
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20101023-s01-01.html
★洲之内コレクションの中でも伝説的な逸話を持つ人気作品《猫》の作者として、テレビや雑誌に取り上げられるなど、近年ふたたび注目を集めている長谷川りん二郎(はせがわりんじろう)(1904~1988)。父・清がジャーナリスト、兄・海太郎が「丹下左膳」作者・林不忘、弟の濬と四郎も作家という文学一家で知られ、当初は自身も探偵小説を手がけました。その作品は江戸川乱歩にも認められますが、りん二郎はやがて絵画に専念。平明な写実表現でありながら、静謐でどこか幻想的な美しさの漂う独自の画境を極め、愛好家や一部の識者から高い評価を受けました。しかし、《猫》の片髭のエピソードが物語るように、とにかく遅筆で寡作、その上、画壇からも距離を置き、孤高とも言える脱俗の制作態度を貫いたため、これまでその画業が明らかにされることはありませんでした。本展覧会では、再評価の機運が高まる長谷川りん二郎の待望の回顧展として、初期から晩年にいたる代表作125点に、新たに発見されたデッサンや資料を加えて一堂に展示、謎に包まれてきた全貌に迫ります。
・・・「洲之内徹」さんを通して「長谷川潾二郎」さんを知り、そしてここ「ヒロシマ」に来たわけですが、アートとは何か?アートの魅力いや「チカラ」を痛感しています。実際に作品を眼の当たりにし、勝手に「厚塗り」を想像していたのに反して、予想以上の「薄塗り」に驚嘆しました。極限までに「無駄」を排除し「真実」に迫る、気迫さえ感じました。来て観て、本当に良かったと思います。「猫アート」としてのヒロシマ紹介はこれで終えますが、他ブログでじっくり「ヒロシマ」したいと思います、お楽しみに。