●ギャラリー島田
650-0003神戸市中央区山本通2-4-24
リランズゲートB1F・1F/078-262-8058
★「洲之内徹と島田コレクション」展
2013年9月21日(土)~10月2日(水)
http://www.gallery-shimada.com/01/schedule/exhibition/2013_9_3.html
洲之内徹さんは、仰ぎ見る存在であっても、親近感はさほどではありませんでした。なぜなら、余りにも違いすぎるからです。洲之内さんの、美に対する、人に対する、女性に対するあくなき執念は、私には持ちようがないからです。でも何故か、振り返れば洲之内さん系譜の作家が結構、うちで発表したり、コレクションにあったりします。その最初の作家が木下晋(鉛筆画家)さんで、そのあと、高野卯港さん。現代画廊で個展をし、次の個展を約束されながら洲之内さんが亡くなられました。その個展を当時の海文堂ギャラリーが受け継ぎました。洲之内さんの生誕100年、卯港さんの没後4年の命日が最終日(10月2日)にあたります。花岡画廊さんの協力で、おなじ生誕100年の松田正平さんの作品を出品するほか、窪島誠一郎さんによる村山槐多の復刻銅版画「猫を描く裸婦」や鴨居玲の未発表クロッキーなどもご覧いただきます。(島田誠)
◇出展作家/木下晋 高野卯港 野見山暁冶 宇野政之 吉永邦治 川島猛 水村喜一郎 猪熊弦一郎 松田正平 横田海 高橋新吉 村山槐多 鴨居玲 ほか
ギャラリー島田の前身は神戸・元町の海文堂ギャラリーである。海文堂ギャラリーは大正3年創業の老舗書店、海文堂書店の中にあり1978年に島田誠によって創設された。島田が三菱重工業の勤務を経て、請われて海文堂書店の社長に就任したのが1973年、新しい事業展開として、応接室を自ら日曜大工で改造15平方メートルのギャラリーとした。1980年 本格的な企画画廊として拡大 72平方メートルに。書店の増改築にともない、画廊を事業の柱として位置づけた。
2000年9月17日 海文堂ギャラリーの活動を終了。島田が26年間経営に携わってきた海文堂書店を離れるにあたって、画廊部門を独立、神戸・北野に移転しギャラリー島田として再出発した。2000年10月アート・サポート・センター神戸設立。2000年11月藤崎孝敏展でギャラリー島田のスタート。2003年3月ギャラリー島田Deux(43m2)をオープン。2008年 ギャラリー開設30周年。記念誌「30年目の透視図」を刊行、2010年 一般財団法人「神戸文化支援基金」を設立。
●宮城県美術館
980-0861 仙台市青葉区川内元支倉34-1/022-221-2111
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/
洲之内の死後、残された美術品コレクションの去就が問題となり、一時は散逸の危機にもさらされたが、「現代画廊」の旧従業員の尽力で、画廊に貸与されていた作品等が旧蔵者に返却され、洲之内の所有物と確定した146点が「洲之内コレクション」として★1988年(昭和63)「宮城県美術館」に一括収蔵された。美術館では、随時展示替えを行ないながら、人気の高い作品を中心とした常設展示を行なっており、約5年毎に全てのコレクションを展示する企画展も開かれている。他の美術館の企画展のためのコレクションの貸し出しも行なわれており、近年では2005年に★「茨城県近代美術館」で全146点を公開する展覧会が開かれた。
《NEWS1》2011.6.18朝日新聞デジタルより
東日本大震災から3カ月余り。美術館や博物館などの文化施設も被災し、所蔵品が損壊したり、がれきに紛れたりしている。文化庁の呼びかけで文化財を安全な施設に移動させる作業や、文化財の保全に向けた募金活動が始まっている。津波に流された美術作品や泥水につかった文化財の記録写真に、多くの参加者が息をのんだ。秋田県横手市で先月26日に開かれた全国美術館会議の総会で、岩手、宮城、福島、茨城、栃木の5県から被災状況が報告された。被害が最も大きかったのは岩手県の陸前高田市立博物館。津波に襲われ、職員6人全員が死亡ないしは行方不明になっている。建物も壊滅状態。前庭にあった彫刻は数十メートル流されて破損した。石巻文化センター(宮城県石巻市)では学芸員1人が行方不明のままで、収蔵庫には土砂が流入。★宮城県美術館(仙台市)では4月7日の余震でも展示室のガラスが破損した。★茨城県近代美術館(水戸市)では彫刻作品が倒れて損傷。原発事故があった福島県では、避難区域に文化施設があり、被災の全容が把握できていない。一方、免震台や免震ケースを備え、テグスで作品を固定していた場合には作品の被害はほとんどなかったとの報告もあり、地震対策の重要性が再確認された。文化財は図書館や文書館、公民館などでも保管されている。こうした文化施設の関係者や研究者らが震災後に立ち上げたウェブサイト「saveMLAK」によると、被災報告のあった文化施設は全国で387件。そのうち5県で327件を占める。被災文化財の救援作業は各地の関係者やNPOらが始めた。3月末には文化庁が呼びかけて、全国の美術・博物館の学芸員らも参加。汚損した文化財を洗浄し、安全な施設へ移す作業が続いている。梅雨によるカビの発生も懸念されており、文化庁は今後1、2カ月で救出作業を終えたいとしている。その後の補修作業を視野に入れた支援の動きも広がっている。文化財保護・芸術研究助成財団は文化財保全の募金を呼びかけ、日本ナショナルトラストは自然・文化遺産の復興支援プロジェクトを立ち上げて寄付を募っている。全国美術館会議も募金を始め、美術作品のオークションを準備している。
《NEWS2》2018.1.10「美術手帖」NEWS/HEADLINEより
1981年に開館した宮城県美術館が、2024年度のリニューアルオープンに向けた館のコンセプトや施設イメージの中間案をまとめた。同館は開館から35年が経過し、施設や設備の老朽化が著しく進んでいるとして、2024年度のリニューアルオープンをめざして「宮城県美術館リニューアル基本構想」を策定。現在も県民からパブリックコメントを募集したり、1月27日にはフォーラム「リニューアルってなんだろう?~美術館の新しい一歩を考える~」を開催するなど、6年後の開館に向けた動きが活性化している。そんななか、宮城県教育委員会は同館のコンセプトや施設イメージの中間案を明らかにした。中間案では、バックヤードの収蔵品も見えるようにする★「ヴィジブル・ストレージ(見える収蔵庫)」の導入が謳われており、日本国内では珍しいケースとなる。「ヴィジブル・ストレージ」の導入は17年に策定された基本構想を具体化したもので、収蔵作品数や広さなど具体的な仕様は未定。現在、宮城県美術館が展示する作品数は収蔵物全体の10パーセント未満で、同県生涯学習課によるとスペースの有効活用と、より多くの作品を鑑賞可能にすることが目的だという。なお、リニューアルの具体的な内容については本年度中に「宮城県美術館リニューアル基本方針」を策定。19年に基本設計に着手し、22年から工事にが始まる予定となっている。「ヴィジブル・ストレージ」に関しては、国外でもオランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館が、収蔵庫すべてを来館者が閲覧できる新棟「DEPOT BOIJMANS VAN BEUNINGEN」を建設中(19年開館予定)。展示スペースと収蔵品数のバランスに悩む美術館のソリューションとして、今後ますます注目を集めそうだ。
・・・ええこっちゃ、まだまだ先だけど仙台に行きたくなってきたなあ。
★「洲之内コレクション展」
2004年9月29日(水)~10月24日(日)
★「洲之内徹と現代画廊―昭和を生きた目と精神」展
2013年11月2日(土)~12月23日(月)
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20131102-s01-01.html
2013(平成25)年は、洲之内徹が生まれてちょうど100年目にあたります。愛媛県松山市に生まれた洲之内は、小説家、田村泰次郎から引き継いだ現代画廊で、個性あふれる数多くの作家を紹介しました。また『芸術新潮』誌上に14年の間★「気まぐれ美術館」を連載し、その独特の語り口は多くの熱心な読者を獲得し好評を博しました。洲之内が最後まで手放さなかった★「洲之内コレクション」は宮城県美術館に収蔵されています。本展では、このうちの半数をこえる作品のほか、彼の著作の中で語られた作品、現代画廊の初期や洲之内が引き継いだ後の作家の作品など、総数約190点と関係資料によって、洲之内徹と美術との関わりをあらためて見直します。このことは昭和を生きた一人の人間の足跡を通じ、戦後の新しい近代美術史像が生成される過程のひとこまを垣間見るとともに、なぜ人はかくも美術に愛着をもつのかという問いに思いをはせることになるでしょう。
《洲之内徹/気まぐれ美術館》文:松岡正剛「千夜千冊」より
http://1000ya.isis.ne.jp/0672.html
洲之内徹の選び方はどうもそういう水準や基準を越えている。正確にいえば、外している。この「外し方」が画壇や美術界にいると、めったにできないことなのだ。とくに“洋もの”ではこれがうまい人はなかなかいない。どちらかといえば“和もの”はこれが伝統的に得意なので、この路線に乗って外せばなんとかなることも少なくないのだが、“洋もの”はこんなことをしているとバラバラになっていって、ただその場かぎりでおもしろさを指摘する美術評論になる。そういう事情を軽々と越えたのが洲之内徹なのである。本書文庫版の解説にも入っている白洲正子が、この洲之内流に参ったのは無理もない。和の白洲には洋の洲之内はまるで★乱拍子を平気で移り舞う能楽師のように見えたことだろう。
【原田光】(洲之内徹の息子)
「洲之内徹」を語ることは、「父」を語ることだが、小学校へ上がる前には2回ぐらいしか会ったことがなかったので家族とは思えない。と言っても父親・洲之内徹からは逃れられないし、受け止めて、受け入れていかなければならない。その苦労や屈折、原田光さんが父親でもある洲之内徹を受入れていく。墓がどこにあるか知らない。コレクション展は父親の墓参りのようなもの。原田光さんは、2016年3月まで「岩手県立美術館」館長をしておられました。
http://www.ima.or.jp/concept/from-staff/47-01.html
★2011.5「今に思いをこめて」文:原田光
http://www.ima.or.jp/concept/from-staff/58-fs12.html
美術館は、この一年間の企画展のための予算をすべて復興費用へまわすことになった。どうしても開きたい展覧会はあるから、残念でならない。万感こめて、仕方ない。だが、予算がないから、展覧会は開けないなどといったら、美術館のある意味がない。資金の有無にかかわらず、今は、やらねばならないことがある。繰り返しだけれども、みんなの中にしまってある普遍の能力を開いてもらう方法を、すぐさま開発することである。岩手・東北の創造力を目に見えるものにしてゆくことである。今年限りのことでない。ここをもとに、この美術館も再生の将来を探しだすということにならないといけない。
《参考》現代画廊のあったビル「銀緑館」
104-0061 東京都中央区銀座6-12-14「(松岡)銀緑館」
「今ふたたびの絵画へ」2013.7.8ブログより
http://gakakeikaku.blog71.fc2.com/blog-entry-265.html
再開発される一帯には松坂屋百貨店建屋のうら、路地にして2本目までが含まれる。それだけ聞いても東京在住の人ならかなりの規模になることがわかる。そして、その端っこにこのあたりで最も古い大正時代のビルが含まれている。「気まぐれ美術館」を亡くなるまで連載し続けていた洲之内徹の「現代画廊」はそのビルの3階にあった。
・・・今となっては、「現代画廊」はもとより大正時代のレトロ建築もなくなってしまった。「銀緑館」という名前が残っているだけが、救いですね。