鉄(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・鉄器生産が行われていた「五斗長垣内遺跡」や「舟木遺跡」は淡路島でしたが、 

 

《栗東歴史民俗博物館》 

520-3016滋賀県栗東市小野223-8/077-554-2733 

http://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/

◆特集展示「技術者の系譜~古代近江の金属生産~」
平成25年11月2日(土)~平成25年12月8日(日) 

近江国は古墳時代から製鉄を行っていたことで知られます。栗東でも鉄の保有を背景に集落が発展します。さらに律令期になると湖南の各地で製鉄遺跡が展開し、官衙や寺院の発展を支えます。今回の展示ではこうした近江と鉄とのかかわりをさぐります。 

・平成25年11月24日(日)見学会「瀬田丘陵の製鉄遺跡をあるく」 

・平成25年12月8日(日)調査研究報告会「古代近江の鉄生産~栗太郡における製鉄技術の背景~」 

 

 

《近江の古代製鉄》 

http://ohmikairou.org/col15.html

古くから「近江を制するものは天下を制する。」と言われ、権力者の争奪の的となった近江は、地政学上の好条件を備えた国であるばかりでなく、古代における★近畿地方最大の鉄生産国でもありました。 

 

《NEWS》古代の都支えた湖畔の製鉄2013.3.12日経電子版より 

大津市郊外、緑豊かなびわこ文化公園の片隅にそそり立つ楕円形の塔の群れ。一見オブジェのようだが、ここ★源内峠遺跡で見つかった7世紀後半の製鉄炉を復元したものだ。一帯には7~8世紀の製鉄や製瓦陶に関わる遺跡が集中し、瀬田丘陵生産遺跡群として国史跡に指定されている。この時期は飛鳥京や藤原京、平城京をはじめ恭仁京、紫香楽宮、大津宮など宮都が各地に相次いで造営された。北に東国へ続く東山道が走り、西には木津川経由で大和へ通じる瀬田川が流れる同丘陵は、地の利を生かして宮都造営の現場に必要な鉄や瓦などの物資を供給する古代のコンビナートだった。源内峠遺跡もその一つ。15年前の発掘で製鉄炉跡が4基見つかった。いずれも粘土を積んで築かれ、いずれも長さ2.5メートル前後、幅30センチ前後、高さは推定で1メートル余り。近江で製鉄が始まった初期段階の遺跡と考えられている。原料となった鉄鉱石(磁鉄鉱)も出土。「伝統的なたたら製鉄は通常、砂鉄が原料ですが、古代近江の製鉄は鉄鉱石を用いるのが特徴です。近江に鉱山があったのでしょう」。調査を担当した滋賀県立安土城考古博物館の大道和人さんが説明してくれた。当時の採掘跡こそ見つかっていないが、続日本紀などに「近江の鉄穴」に関する記述が登場するという。この炉に砕いた鉄鉱石と木炭を投入して点火し、側面に並ぶ小穴からふいごで空気を送り込んで温度を1200~1400度まで高める。不純物(鉄滓=てつさい)を炉外に排出し、最後に炉壁を取り壊して、底にたまったケラ(鉄素材)を取り出したと考えられている。同遺跡では25~50年の間、継続的に製鉄を行った形跡があった。大道さんは「発掘では鉄滓が約15トンも見つかりました。炉は他にもあったとみられ、鉄滓は全体で50~100トンはあるのでは。当時、国内最大級の製鉄所だったのでしょう」と話す。

 

 

源内峠遺跡から約2.5キロ北東の立命館大学びわこ・くさつキャンパスには木瓜原(ぼけわら)遺跡がある。製鉄や鍛冶、梵鐘(ぼんしょう)の鋳造、土器の生産などの多様な工房が集積し、8世紀前半を中心に操業していたことが20年前の発掘で判明。同大学の施設内のロビーには梵鐘を鋳込んだ跡の遺構をはじめ、様々な出土品が展示されている。運動場には地下室が設けられ、製鉄炉の遺構を発見時の状態で保存している。炉の構造は源内峠遺跡のものと基本的に同じ。取り壊され廃棄された炉壁の破片が、地表に顔を見せている。学校や地域などのグループ単位で同大学BKCキャンパス事務課((電)077・561・2617)に申し込めば見学できる。 日本に鉄器が普及した弥生時代は、鉄素材を朝鮮半島などから持ち込んでいた。国内で製鉄が本格的に始まったのは古墳時代後期との見方が強く、6世紀ごろの製鉄炉跡が中国地方を中心に各地で見つかっている。近江の製鉄技術は渡来人がもたらしたと考えられているが、朝鮮半島に先立つ事例はなく、その由来については様々な見方がある。源内峠遺跡の炉をみると、最も古い炉は石の多い地面に粘土を張って基底部としているが、次の時期になると底にこぶし大の石を充てんしている。さらに次の段階の炉は木炭を敷いてあった。大道さんは「炉の温度を下げないよう、断熱性を高め地面の水気を遮断するために試行錯誤を続けています。完成した形で持ち込まれた技術ではなく、近江などで鍛冶炉の技術をもとに編み出されたのでは」とにらむ。「製鉄は当時の朝鮮半島や中国大陸でも先端技術。機密扱いで、外に漏れることはなかったのでしょう」。炉の復元は地元住民ら約30人で組織する「源内峠遺跡復元委員会」によるものだ。歴史遺産を生かしたまちづくりを目指して7年前に結成。当時の炉の築造方法を探るため、1年以上を掛けて粘土積みで1基を復元した。「乾燥レンガを積んだり、粘土にわら(スサ)を混ぜて強度を増したり、何度も失敗してはやり直しました。先人たちも同じように試行錯誤したのでしょうね」と代表の松田文男さんは話す。昨年にはコンクリートで3基を復元した。展示用で、時期による基底部の違いなど、炉の構造が一目で分かるよう工夫した。最近は周辺の歴史マップ作成やウオークイベントといった活動にも力を入れている。「だんだん参加者が増え、自分たちが実は地元の歴史をよく知らなかったことに気付いて、ますます関心を持ってくれます」。これまでの取り組みが無駄ではなかったと、松田さんらは感じている。

 

 

《立命館大学「木瓜原遺跡」》 

http://www.ritsumei.ac.jp/rs/category/tokushu/150219/

立命館大学が滋賀県草津にキャンパス用地を造成しようとした時、発見されたのが「木瓜原遺跡」。遺跡周辺がボケの原生林だったことからこの名がついた。学術的にも貴重な製鉄遺跡で、現在は一部がグランドの地下に保存されている。「鉄は国家なり」と言われる。古代においても然り、鉄を掌握することは権力を掌握することでもあった。その鉄の一大生産地が近江。日本で鉄が生産されるのは、6世紀頃。それ以前は、朝鮮半島の伽耶地域から手に入れていたようだ。当然、地理的に近い九州地域は鉄を手に入れやすい。逆に鉄を生産していない大和が、鉄を確保するために強力な政治権力が必要としたのは皮肉なことである。多くの渡来人が住み着いた近江では、朝鮮半島からやってきた工人たちが鉄生産を開始したと考えられる。木瓜原遺跡の近くにも、源内峠遺跡(大津市瀬田)、野路小野山遺跡(草津市野路町)などの大規模な遺跡があり、立命館大から滋賀医大、図書館、美術館、龍谷大と続く瀬田丘陵は古代の一大製鉄コンビナートだったのだ。通常は燃料となる薪を求めて、製鉄炉は移転するのだが、この付近は原生林が豊富で、他の場所に移ることなく鉄が生産されたようだ。これら湖南地方の製鉄は7世紀のもので、近江朝の時代と一致するのは興味深い。湖西地方のものは8世紀奈良時代、9世紀に入ると近江の製鉄は急激に衰退する。砂鉄を材料とするのは、後の時代で、近江でも材料は鉄鉱石であった。ある研究者の発表を聞いたが、そのまとめは衝撃的だった。 

《NEWS》2017.5.3京都新聞より 

立命館大びわこ・くさつキャンパス=通称「BKC」=(滋賀県草津市野路東1丁目)の陸上競技場「クインススタジアム」に、知る人ぞ知る扉がある。看板には「遺跡保存施設」の文字。階段を下りて競技場の地下へ進むと、最深部に「木瓜原(ぼけわら)遺跡」が広がる。7世紀末~8世紀初頭に製鉄や製陶、釣り鐘の鋳造を行っていた複合生産遺跡で「古代のコンビナート」とも言われる。開学に先立って県教育委員会などが発掘調査し、製鉄炉など一部を保存した。キャンパス内に遺跡があるのは珍しいが、管理する同大学の出資会社「クレオテック」によると「学生も存在をほとんど知らない」という。昨年度は地元の小学生ら835人が見学に訪れた。遺跡名は周辺にボケの木が生い茂っていたことに由来する。「クインス」はボケの英語名で、花言葉は「先駆者」。全日本大学女子駅伝で史上初の5連覇を果たした陸上部の本拠であることも、縁を感じずにはいられない。

 

・・・さて堺市にもどりましょう、堺の鉄と言えば「鉄砲」です。

 

 

《堺市博物館》常設展示に「堺と鉄砲」コーナーを新設しました 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/tenji/sakaitoteppo.html

平成29年4月、常設展示場に「堺と鉄砲」コーナーを新設オープンしました。鉄砲を通して、堺のものづくりと商売の歴史をご覧頂いています。大勢の方々のご来館をお待ち申し上げております。

 

 

《参考》南海本線「七道駅」ロータリー 

★《放鳥銃定限記碑》 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/rekishi/teigenki.html

日本にはじめて鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543)のことです。泉州堺の橘屋又三郎は、いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と砲術を習得して堺に帰り、安土桃山時代には堺は日本でも有数の鉄砲生産地となりました。江戸時代に入っても堺の鉄砲鍛冶たちは、全国の諸大名に鉄砲を供給し、多くの鉄砲鍛冶や関連する職人たちが現在の北旅籠(はたご)町周辺に集住していました。それとともに、堺七道浜(しちどうはま)には鉄砲の試射場が作られ、昭和の初めまで「鉄砲塚」としてその面影を残していました。大正3年(1914)頃、大和川畔の東西水路開削工事の際に「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」と題した碑が発見されました。この碑の文は、寛文4年(1664)に砲術家・川名金右衛門忠重によって書かれたもので、恩師・小濱民部丞(みんぶのじょう)嘉隆への賛辞と鉄砲試射場の由来が記されています。開削工事の発起人であった堺の実業家・柳原吉兵衛は、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な石碑を顕彰するために、昭和3年(1928)自然石をくりぬいた中にはめ込み、吉兵衛が経営していた大和川染工所の前庭に建立しました。その後石碑は、昭和19年(1944)に堺市に寄贈され、長くザビエル公園に保存されてきましたが、平成2年(1990)に発見場所に近い七道駅前に移設されました。放鳥銃定限記碑は、堺の鉄砲史の一側面を物語り、江戸前期の鉄砲の教習や試射に関する情報を伝える資料として大変貴重なものです。また、石碑が発見されて以来の歴史的経過を鑑み、昭和19年(1944)に堺市に一括して寄贈された柳原吉兵衛による石碑顕彰資料を附(つけたり)指定としています。 

《江戸時代の鉄砲試射場の碑》 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/rekishitsutaeru/tepposhishajo.html

大正3年(1914)に南海本線七道(しちどう)駅近くの運河掘削工事現場から石碑が発見されました。その石碑には『放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)』と題する377文字の漢文が刻まれていました。石碑は江戸時代初期の鉄砲師範であった小濱民部丞嘉隆(こはまみんぶのじょうよしたか)の遺徳を称えて、砲術家・川名金衛門忠重によって寛文4年(1664年)に作られたものです。碑文は、「小濱民部丞嘉隆は文武両道の達人であり、堺の海辺に鉄砲の試射場(ししゃじょう)を設け、砲術の訓練と研究を重ねた」といった内容であり、江戸時代初期の堺における鉄砲関連資料として大変貴重なものです。また、江戸時代の試射場がこの近くにあったことを示しています。石碑発見当時、運河の発起人であった柳原吉兵衛氏は、石碑を★後世に伝えるために高さ約3メートル、幅約2メートルの自然石にはめ込み鉄砲記念碑として保存しました。その後、昭和19年に堺市に寄贈され、ザビエル公園に保存されてきましたが、七道駅前の整備に伴い平成2年3月に発見地に近い現在地に移設しました。

 

・・・後世に伝えるために保存された石碑の重み、受け止めましょう。