個展その後(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・久しぶりに「いろはに」へ。

 

《山之口橋》 

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/sakai/alacarte/kyukaido.html

「熊野街道(小栗街道)」市内延長(山之口橋~鳳南町)5.6キロメートル。熊野への参詣道として発達した道です。山之口橋のすぐ北の南宗寺や鳳南町の二基の道標が熊野街道の目印です。

 

 

【滑川みさ】 

1981大阪大学人間科学部社会学科卒業後、大阪市立美術研究所入所。同時に銅版画を始める。1995年まで銅版画を中心に、個展、グループ展を毎年展開。1995年~2004年まで渡米、ニューヨーク在住。この間、ドローイングに加えてプロジェクトワーク「FragileArt」を発表。2004年に帰国後は備前で焼き物を学び、2010年には鋳込み技法で作家本人の身体の一部を何百とコピー生産してインスタレーションを行う(ギャラリーサーカス・サーカス/神戸)。以降、作品の中心はインスタレーションとなる。

 

 

・・・「防空壕」も素晴らしい作品になっています。 (まだ未完成なのだそうです)

 

 

・・・何度も「個展」に顔を出してくださった寿司店★「弥助」のご隠居、新聞で紹介されました。 

 

《参考》「弥助」 

http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/citypromo/sakai_wo_omoeba/yabuuchi_satoshi2.html

現在は京都の有名割烹[祇園川上]で修業した三代目の淳行さんが継ぎ、その技を生かして料理とにぎり寿司のコースも出している。四代目の伸一郎さんは[吉兆]などで修業しただけでなく、ワインやチーズも好きなので、それを取り入れていきたいという。店は5年前に建て替えられたが、前の店舗で使っていた煤竹などを再利用して歴史を残している。だが、メニューはどんどん変化していきそうだ。

 

 

《ここであった戦争》2018.3.15毎日新聞より 

https://mainichi.jp/ch170882610i/%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%88%A6%E4%BA%89

●敗戦で旧満州逃避行、抑留。命の軽い時代、二度と/大阪 

前回、堺市堺区のギャラリー★「いろはに」で防空壕を見せてもらった際、近くに住む大賀文太郎さん(92)に偶然出会った。大賀さんは旧満州(中国東北部)で初年兵として敗戦を迎えた。旧ソ連に武装解除され、捕虜になるのを嫌い、計16人で脱走。命がけの逃亡劇と★シベリア抑留の体験を聞く。1945年8月15日、大賀さんのいた北孫呉の花見山陣地のふもとは火の海だった。貨物倉庫が燃え、周囲の兵舎が延焼。敵に取られるならと火が放たれたらしい。大賀さんは召集前、南満州鉄道ハルビン鉄道局で通信などの仕事をしていた。旧満州黒竜江省北孫呉で野砲部隊に入った。だが砲は南方に行って全く見ず、軍馬の世話に明け暮れた。8月17日午前10時で武装解除を受け、捕虜になる。死に等しい命令に思えた。日本の勝利を信じ、「生きて虜囚のはずかしめをうけず」と戦陣訓を教え込まれてきたのだ。16日夕、伝令に行ったテントで、古年兵が逃げる相談をしていた。「連れて行ってください。一緒にソ連と戦います」。訴えながら慟哭していた。逃げてもどうなるか分からない。最初は反対した古年兵も心を動かされ、結束が固まった。大賀さんも小銃と弾120発、手榴弾を携え、初めて馬にまたがって16人で出発した。ソ連軍の飛行機が飛び交う中、馬は翌日放した。重い小銃の弾も半分捨てた。見つからないよう、歩くのは夜間。食糧は4、5日分で雨や蚊にも苦しんだ。旧北安省徳都県で日本人の役人に説得され、8月29日、投降した。その直前、逃げていく満蒙開拓団の日本人家族を見た。ぼろぼろの服を着て、鍋釜を提げ、背中と両手に子どもを連れた母は「銃で殺してくれ」と哀願した。武装解除を受けて近くの旅館に行くと逃亡兵が40人ほどいた。一緒に北安の飛行場に行けと命じられた。捕虜収容所があるのだ。徹夜で歩き、30日、事件が起こった。開拓団の集落で日本人が惨殺されていた。怒り狂った一団は、学校を壊して木材を持って行く中国人を見つけ2人を捕らえた。座らせて棒で背中を殴った。体がつんのめった。何人もが殴り、井戸に投げ込んだという。一団は足を速め集落を去った。大賀さんは加わらなかったが「悪いことをした」と一団は重い空気に包まれた。疲れ切って約6キロ先で休憩した。大賀さんは離れた畑の畝に1人横たわった。どれぐらいたっただろう。ダダダダダ、と自動小銃の音。続いてすさまじいうめき声。パンパンとピストルの音も。全員殺されたと思った。畝をはって様子をうかがった。「1人死んでないのがいるぞ」という中国語に、反対方向に逃げ、低木に身を隠した。夜になり、単身、徘徊した。湿地帯で膝までずぶぬれ。追っ手の火が見え、オオカミの声が聞こえる。13歳で死に別れた母の面影が浮かび、死を決意した。だが武器はなく、周りは低木ばかり。自殺の方法がない。太陽を拝んで死のうと朝を迎えた。声が聞こえた。ソ連兵か追ってきた中国人か。日本語で「敗残兵ではないか」。小川宇三郎さん(故人)だった。上半身にゲートルを巻き、腹部はどす黒い血に覆われている。左手も血まみれだ。小川さんはソ連兵に撃たれた。前日、一団の前にソ連兵がジープで現れ「中国人を殺した者は前に出ろ」。だれも出なかった。ソ連兵は10人選んで後ろ向きに立たせ、首付近を狙って自動小銃を撃った。小川さんは端に立たされ、1発が手をかすめ、もう1発が腹部を貫通する重傷を負った。2人は収容所に歩き出した。大賀さんは収容所にたどりつき、一緒に逃げた15人とも再会。9月、黒河まで歩かされ、対岸に渡って3年間抑留された。伐採させられたマツは一抱えもあり、冬は表面が凍る。食事はわずかな雑穀。わら布団には冬でも南京虫がいて、床に寝た。大賀さんは戦後、すし店を営み、息子や孫が店を受け継いでいる。「逃亡中に生きるか死ぬかは紙一重ですね」。大賀さんは「ほんまに。木1本のことです」。民間人も含め、内外の多くが亡くなった。そんな命の軽い時代に戻ることは、あってはならない。 

 

・・・2018.3.15「ここであった戦争」の特集も、この記事を最後に終了するようです。何か、不思議な縁を感じますねえ。大賀さんの手記「死線を越えて」は、堺市図書館で閲覧することができます。 

 

《参考》シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について(厚生労働省) 

http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html

 

《参考》「平和祈念展示資料館」 

163-0233東京都新宿区西新宿2-6-1新宿住友ビル48階/03-5323-8709 

http://www.heiwakinen.jp/index.html

平和祈念展示資料館は、さきの大戦における、兵士、戦後強制抑留及び海外からの引揚げの関係者の労苦に関する資料の常設展示を行い、国民の理解を深めるために、平成12年11月に開館いたしました。開館以来、戦争体験のない世代にもわかりやすい展示を行うとともに、館外活動やインターネットなどを通して、全国の幅広い年齢層に関係者の労苦を伝えるための業務に取り組んでおります。戦争体験者が年々少なくなっていく中、関係者の労苦が風化することのないよう、貴重な資料を次の世代へと確実に引き継ぎ、国民の理解を深める機会を提供してまいります。新宿住友ビル改修工事に伴い、48階から33階に移転することになりました。 

●休館:平成29年12月28日(木)~平成30年3月2日(金) 

★オープン:平成30年3月3日(土) 

企画展「魂のモノ語り/シベリア抑留展」 

平成30年3月3日(土)~6月3日(日) 

http://www.heiwakinen.jp/event_insite/20180118-2152.html

敗戦後にシベリアに抑留された日本人は、飢えと寒さと過酷な労働と闘いながら、日本に帰るのだという希望をつなぐために食器や衣類、パイプ、娯楽用品などさまざまなモノを作りました。今回の企画展では、生きて日本に帰るという強い意志のもとで、抑留者たちがいかに多くの物を作ったか、それらを一堂に集めて紹介します。シベリアの極限状態の中で抑留者たちが作り上げた生きるための作品の数々をご覧ください。 

《参考》「舞鶴引揚記念館」 

625-0133京都府舞鶴市字平1584引揚記念公園内/0773-68-0836 

https://m-hikiage-museum.jp/

昭和20年(1945)10月7日、引き揚げ第一船「雲仙丸」が入港してから、13年間にわたり66万人の引揚者を温かく迎えたまち舞鶴。戦後の第一歩をしるした新たな出発点として「戦後復興のふるさと」ともいえる地となりました。舞鶴引揚記念館は、引き揚げやシベリア抑留を後世に継承し、平和の尊さを広く発信する施設として、全国の体験者や関係者、舞鶴市民の皆様のご支援ご協力により昭和63年4月に開館しました。戦争を知らない世代が多くなり、引き揚げの歴史も徐々に風化しつつある今、歴史を知りよりよい未来を創造するために役立つ拠点として、舞鶴引揚記念館の果たす役割はますます重要になっています。平成27年9月には、若い世代にも分かりやすく共感できる展示への改修や環境整備などを進め、リニューアルオープンしました。また、平成27年10月10日には収蔵資料のうち570点が★「ユネスコ世界記憶遺産」に登録されました。今後も、「平和の尊さ・平和への祈り」を世界へそして未来へと発信し続けていきます。 

舞鶴引揚記念館開館30周年の記念日にあたる★平成30年4月24日にグランドオープンします。今回の「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された世界的に重要な資料を継承する収蔵庫と共に、若い世代の理解や共感を深めるための空間展示である「抑留生活体験室」と約1,300点の絵画の活用を図る「企画絵画展示室」を新設いたしております。 

 

・・・新宿の「平和祈念展示資料館」舞鶴の「引揚記念館」、どちらも今年リニューアル・オープン。これまた、不思議な縁ですねえ。

 

 

《参考》香月泰男(1911~1974) 

山口県長門市三隅のアトリエで、戦争とシベリア抑留の体験を描きつづけた画家、香月泰男。1947年にシベリアの収容所から帰国した香月は、その半年後に描かれた 《雨<牛>》から、絶筆となった1974年の《渚<ナホトカ>》まで、一つまた一つと「シベリア」の記憶を紡いでいきます。四半世紀あまりのあいだに、57点の油絵に結実した「追憶のシベリア」。それらはいつしか「シベリア・シリーズ」と呼ばれるようになりました。シベリアから帰国後、香月は愛する家族とともに生まれ故郷の三隅で穏やかな生活を送りました。しかし、平穏な暮らしのなかで、過酷な抑留の記憶がふいに目を覚まします。あの寒さ、あの疲労、あの絶望・・・。忘れたい、でも忘れられない、忘れてはならない惨めさと労苦の日々は、生涯、香月をとらえて離しませんでした。「シベリア・シリーズはこれで終わりにしよう・・・」そう思いつづけながら、最期まで「シベリア」から逃れられなかった香月泰男。彼の代表作は、シベリア抑留から復員した直後の1947年から没年(1974)まで描き続けられた57点のシベリア・シリーズといわれています。「シベリヤ・シリーズ」全57点は、山口県立美術館に所蔵されています。 

★香月泰男美術館:759-3802山口県長門市三隅中湯免226/0837-43-2500
https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/kazukiyasuo/index.html

★山口県立美術館:753-0089 山口市亀山町3-1/083-925-7788  

http://www.yma-web.jp/

「山口県の特色を発揮する郷土色豊かな美術館」「県民が参加する開かれた美術館」を基本方針に掲げ、1979(昭和54)年に開館しました。以来、県内の美術文化醸成の場となることをめざして、中世大内文化以降の郷土文化の掘り起こしや、本県ゆかりの作家を取り上げる特色ある企画展を開催するとともに、古今東西のさまざまな美術・文化を紹介する展覧会も行ってきました。開館以来30年以上を経て2011(平成23)年度に行った改修工事では、ロビーをより開放的な空間に整え、展示室の模様替え、ミュージアムショップの拡充、講座室や敷地内遊歩道の整備などを行い、より親しみやすく気軽に利用できる文化施設に生まれ変わりました。 

http://www.yma-web.jp/exhibition/collection/index.html#KAZUKI

今後もコレクション展・特別展を一層充実させ、多様な美術講座、講演会、ワークショップなどを開催しながら、郷土やまぐちの新しい美術文化の創造拠点になるような美術館活動をめざします。

 

・・・作品をつくっていくために、もっともっと知らなければならないこと多いですね。