《かえる友の会》
335-0003埼玉県蕨市南町4-36-4
★河鍋暁斎記念美術館内「かえる友の会」事務局/048-445-8855
http://kyosai-museum.jp/hp/kaeru_tomonokai.html
蛙のコレクションを1点以上お持ちの方は、どなたでもご入会いただけます。
かえる友の会は、1987年埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」で開催された「第1回かえる展」に集まった人たちで結成されました。河鍋暁斎(1831~1889)は幕末から明治にかけて活躍した、浮世絵師・日本画家です。「風流蛙大合戦之図」「蛙の蛇退治」(共に河鍋暁斎記念美術館蔵)など、数多くのかえるを描いた作品を残しています。友の会の会員は現在200名ほど。毎年、かえる展やかえる秋祭りを開催しています。「(かえるは)犬、猫と同じで、文化として根付いています」、「しっぽがないので擬人化、キャラクター化しやすいんです」。そして、30周年記念グッズが製作されました。グッズのデザインは、会員からデザイン案が数点出され、その中から投票で2点が決まりました。
《参考》2017.6.8天声人語より
古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音。言うまでもなく芭蕉一代の名句だが、カエルを愛する人々にとってはいまなお熱く真剣な議論の的と聞く。「飛び込んだのはツチガエルかトウキョウダルマガエルか」「聞こえた音はポチョンかチャボリか」等々▼カエル愛好者が集う「かえる友の会」(埼玉県蕨市)が今年度★30周年を迎える。カエルの擬人画で知られる幕末明治の絵師、河鍋暁斎(きょうさい)のファンが中心となり、産卵観察や講演、名所訪問を続けてきた▼「カエル好きのカエル話は家族にも友人にも疎まれがちです。思いを堂々と語り合える場がほしいという方々が意外に多くて」と河鍋楠美(くすみ)さん(86)。暁斎のひ孫で記念美術館長を務める。カエルにちなむ品々の収集家でもある▼幽霊画、美人画、仏画など画域の広さと色づかいの鮮烈さで知られる暁斎だが、動物画も味わい深い。好んで描いたのがカエルである。ヘビやイノシシに立ち向かうカエルの姿を通じて庶民を励ます。文明開化の軽薄さを風刺するにもカエルに仮託した▼幕府による長州征伐という画題にも、処罰覚悟で挑んだ。幕府方は緑色のカエル、長州軍は茶色のカエル。砲撃や血しぶきに迫力がある。堂に入った反骨と言うべきだろう▼カエルの季節である。四国から関東・甲信まで広い地域が梅雨に入った模様だと気象庁がきのう発表した。都会では耳にする機会が減ったとはいえ、カエルの歌は時節をたがえない。暁斎も愛したであろう独唱、輪唱、合唱が津々浦々に響く。
《参考》赤瀬川原平「個人美術館ものがたり」より
http://wedge.ismedia.jp/category/kojin
★掛け値なし、絵筆の天才「河鍋暁斎記念美術館」埼玉県蕨市
幕末から明治にかけて、自らを “画鬼” と称する貪欲さで制作に明け暮れた河鍋暁斎は、海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師でした。しかし後裔の努力が、今またその多彩な作品群に脚光をもたらしつつあります—―。自分が河鍋暁斎の名を知ったのはいつからか、はっきりしない。でもその名を意識したのは、その昔、ジョサイヤ・コンドルが弟子として入門したという話を聞いてからだ。コンドルは文明開化の時代に来日したイギリスの建築家だ。鹿鳴館やいろいろ、当時日本では最尖端の西洋館を建てている。そんなハイカラ人物が入門したということに意表をつかれ、それはやっぱり凄い絵師なのだと思い直した。ぼくは日本人だから、どうしても西洋上位の習いがあるらしい。だからコンドル入門という話から、暁斎の名に注目したのだ。順序逆で自分でも情ないと思うのだけど、事実なのでしょうがない。河鍋暁斎をめぐっては、いろいろと日本人的な偏見が煙幕となって漂っている。一つには暁斎が多才であり過ぎたため、どれが本物なのかわからないと敬遠された。日本は多神教の国でありながら、多彩な才能というのはむしろ軽く見られる。一つのことだけを一生かけてこつこつやる、となると安心して評価される。しかし暁斎だって、その生涯は絵を描くこと一筋だった。
七歳で歌川国芳に入門、10歳でさらに狩野派の絵師に入門、以後死ぬまで休みなく絵を描きつづけている。でもその絵の様式がじつにさまざまだ。狩野派的なオーソドックスな絵をはじめとして、幽霊画あり、戯画あり、錦絵あり、紙袋のデザインありで、何でも描ける。旧来の美術史家としては扱いにくい。だから奇人変人的な扱いで近年の美術史からはほとんどその名が消えていたのだ。書かれた歴史はそうだけど、暁斎の生きた現実では違う。自分の目でその画業を見た人は、とにかくその天才に打たれる。筆が速く、適確で、機智に富み、紙の上にあっという間にイメージした世界があらわれる。だから席画も得意で、有名書画家を集めての書画会では一番の人気があった。当然ながら酒が入り、笑いがあふれ、筆は縦横無尽。あるときその筆の滑った戯画が「貴顕を嘲弄するもの」とみなされ、捕えられる。この筆禍事件も、美術史から敬遠された一因なのかもしれない。それまでの狂斎の号も、放免後は暁斎に改めている。そもそも暁斎の生きた幕末明治という時代が、美術の世界でも激動の時代だった。オーソドックスな絵の世界では大スポンサーであった幕府が倒れ、狩野派をはじめとする絵師たちは路頭に迷う。それを横目で見ながら、ちょうど脂の乗ってきた暁斎は、求められるものは何でも描いた。あれも描いてこれも描いてという暁斎の才能は、この時代の吸引力に沿って加速していったわけだ。美術館は西川口の駅から歩いて20分ほどの、静かな住宅街の中にある。正にひっそりと紛れてある感じで、まったく出っ張ったところがない。さっぱりと静かで気持いい。ここにあの過激でもある暁斎の絵が納められていると思うと、不思議な気がする。ひっそりと紛れた感じは、それもそのはず、もとは暁斎曾孫である河鍋楠美さんの住宅を少しだけ改装したものなのだ。暁斎が晩年住んだのは東京の鶯谷で、暁斎亡きあと河鍋家は赤羽に住む。ところが第二次大戦中の強制疎開で、いまの埼玉県蕨市に引越してくる。娘の暁翠も暁斎の血を継いで達筆の絵師で、女子美の草創期に教鞭をとった人でもあったが、どう励んでも父暁斎を抜くことはできぬと悟り、娘の吉には絵に進むことを禁じ、その禁は楠美さんまで引き継がれている。じつはその河鍋楠美さんがここの館長であり、そもそもこの記念美術館の創設者だ。その楠美館長のお話は濃密で面白く、見知らぬ暁斎の熱気を透かし見るようだった。楠美さんも白い紙や壁を見ると、動きたくなる右腕を押さえるという。やはり絵師の血が脈打っているらしい。曾祖父である暁斎とは接していないが、家には暁斎の残した下絵の束がどっさりあった。人気絵師の運命で、描いた絵は端から出ていく。残るのは下絵だけど、それには本画以上に「描く」という行為の熱気がむんむんあふれ出ている。暁斎の場合その下絵が綿密で、ところどころ紙を貼り重ねたりしながら、何度も描き変えている。仕上がった絵とは違い、絵の過程を彫り上げた三次元の彫刻みたいだ。あるいはフィルムなき時代のムービーみたいだ。それが桐の箱にぎゅうと詰まり、いざ本格的に調べだしたら3000枚を優に超えた。楠美さんは暁翠からの禁を守り、絵を捨てて眼科医の道に進んだ。でも戦後の美術史から暁斎の名がまったく消えていることの理不尽さに、これではいけないと思い立ち、この記念美術館を創設し、さらにあれこれのことを積極的に調べはじめた。コンドルの墓が護国寺にあることを知り、墓参りに行くと、墓はすっかり寂れている。法要をしたいからお坊さん5人揃えて下さいと申し込み、コンドルのいた東大にも声をかけた。藤森照信氏をはじめ、教授が何人も来てくれた。せっかくだから講演会も開き、そんなことから、暁斎が弟子コンドルの前で描いて見せた「大和美人図屏風」の在りかが見つかったりする。河鍋暁斎記念美術館は、そこからさらに発展していった。先述のように、本画はほとんど家に残されていないので、楠美さんの力で少しずつ買い戻していった。駅から少し遠い住宅地の中の美術館だから、入場者は少ないようだ。この日若い男女二人連れが静かに鑑賞していて、ふと見ると、男の首筋に濃密な刺青がちらりと見える。静かな空気が、一瞬、さらに静かになったようだった。楠美館長によると、暁斎の絵は刺青という独特の世界でも、強い人気があるという。なるほどと合点した。西洋人のコンドルも、知識からというより、素で見た絵の力に直接引きつけられたのだ。たぶん刺青世界での人気も、同質のものだろう。暁斎の絵の中にある熱と、緻密な技巧と、物の見方と、見せ方と、もろもろの渦巻く力にどうしても引きつけられてしまうのだ。
・・・30周年を集めてみました。結構いろいろありますね。さて、
《江戸の戯画-鳥羽絵から北斎・国芳★暁斎まで》
【前期】4月17日(火)~5月13日(日)
【後期】5月15日(火)~6月10日(日)
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/edonogiga
太平の世が続いた江戸時代には、多くの戯画(ぎが)が描かれました。一口に戯画といっても多種多様なものがありますが、本展では「鳥羽絵」をキーワードに江戸時代の戯画をご紹介します。
鳥羽絵は、広く戯画や漫画を指す言葉として使われることもありますが、より限られた意味では、18世紀に大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画を指します。そこに描かれる人物は、目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷に由来するものとされます。鳥羽絵は、18世紀の大坂で鳥羽絵本として出版され、その人気は明治にまで及びました。また、上方に留まらず、江戸の浮世絵などにも影響を与えています。鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の「耳鳥斎」はもちろん、鳥羽絵本の影響を受けたと考えられる江戸の「北斎」や「国芳」、そしてその流れをくむ★「暁斎」など、時代や地域により変化しながらも、笑いの感覚は脈々と受け継がれてきました。本展では、そのような流れを追いつつ江戸時代の戯画のエッセンスをご覧いただきます。また、歌川国芳の「金魚づくしシリーズ」全9点がそろうのも見どころの一つです(前期のみ)。笑いを文化として発展させてきた大阪の地で、多彩な笑いの世界をご紹介します。(出品予定作品:約280点)
・・・天王寺美術館で、「暁斎」が観れますよ。