・・・山之口商店街を通るたびにギャラリーを覗いてくださる「弥助」のご隠居(93歳)、カラオケに誘ってくださったり打ち上げをしましょうと声をかけてくださったり、★地域に根差したギャラリーならではの温かさです。
《弥助》
590-0954 堺市堺区大町東1-1-18/072-221-3355
堺でいちばんの老舗寿司処。祇園「川上」で修行した三代目がその伝統を受け継ぎます。旬の素材を大切に、お客様とのご縁を育んでまいりました。堺に育てられた味を、是非お楽しみください。
・・・ギャラリーには様々な博学者がお出でになり、それはそれは勉強になります。
《開口神社(あぐちじんじゃ)》
590-0953堺市堺区甲斐町東2丁1-29/072-221-0171
http://www.aguchi.jp/index.html
●「奥野晴明堂」HPより
http://www.osenkou.com/skaori8.html
堺市内にある大変古い由緒のある神社です。南海本線「堺駅」から「堺東駅」に向かって暫く歩いて行くと、商店街の中にその神社はあります。阪堺線の「大小路駅」からは徒歩三分ぐらいです。社伝によると、神功皇后により、この地に★塩土老翁神という神様を祀るべしとの勅願によって創建されたという御由緒があり、だいたい3世紀くらいまで遡るそうです。神功皇后といえば、大阪の住吉大社にも祀られていて、この二つの神社は非常に縁の深い神社であることがよく分かるかと思います。住吉大社は海の神様、航海の神様を祀る神社であり、またこの地は、古くは遣隋使、遣唐使がここから出発、到着した港ですが、この開口神社も古くから大阪湾の出入り口となる場所を守る神社として、大事にされてきました。この開口神社を西端として、日本最古の街道と言われる★竹内街道が二上山を越えて飛鳥や奈良にまで繋がり、様々な大陸の文化を持ち帰ったとされています。この竹内街道が整備されたのが613年とのことですが、それ以前から既にこの地は人の往来が盛んだったと言われます。そして、この開口神社を中心として堺の街が作られていったそうです。地元では「大寺さん」という呼び名もあるようで、明治期に廃寺になったそうですが、かつて境内に念仏寺という宮寺が存在し、行基上人によって建立されたとの事です。このような由緒ある神社ですが、普段は都会のオアシスのような清閑とした場所で、様々な石碑や無礙庵という茶室もありますが、観光地というよりも地元に親しまれている神社といった雰囲気でしょうか。毎年9月中旬に行われる八朔祭になると様子が変わって、堺市内でも最も古いとされるふとん太鼓が担ぎ出され、相当な数の観光客で賑わいます。この場所を中心として堺市が長い年月を掛けて発展していった経緯は、今では振り返るのが難しいほど街中に溶け込んでいて、あまり垣間見る事も出来ませんが、本来の堺市の中心地、そして海の玄関口である住吉津と飛鳥や奈良をつなぐ重要な中継地だった場所が今でも地元に親しまれている神社だという事は、覚えておくのも良いかもしれません。
★『大阪府全誌』開口神社より
開口神社は、甲斐町東1丁にあり、一に三村明神といひ、延喜式内の神社にして鹽土老翁神・素盞鳴命及び生國魂神を祀れり。社記によれば、神功皇后の三韓を征して凱旋し給ふにあたり、鹽土老翁神この浦曲に影向あり、眞住吉の國と宣ひしに依りて此の地に鎮座しまいらせ、其の影向ありし時、今の川尻といへる所に於て御食を進め奉りしに、初めて口を開きましましけるにより開口の社名を爲し、所在の開口村の稱も是にちなみ、敏達天皇十年八月には掃守連矢負を遣はして當社の封戸を定められ、醍醐天皇の延喜年中には従五位を授かり、朱雀天皇の承平二年(932)五月には正五位に昇格し給ひしが、鳥羽天皇の天永四年五月原村の素盞鳴命・木戸村の生國魂神を開口なる當社に合祀せしかば、今の如く三座となりて三村明神の稱初めて起れり。是より先、聖武天皇の天平十六年(744)、僧行基は境内に寺院を創建して佛地に改め、後弘法大師之を大念寺と呼び、寺は密乗山と號し、真言宗無本寺にして社務を執り、寺門隆盛なりしかば、世俗は単に之を大寺と呼び、社名も復た大寺神社と稱せらるるに至りしが、今の社地を大寺といへるは即ち是に由れり。住吉大社の神代記に依れば、當社の四至は「東限大路・南限神崎・西限海棹・北限堺大路」と見え、其の指せる地域は今之を詳にするを得ざるも、広大の区域なりしは推想するに足らん。住吉大社の外宮たりしを以て、住吉の奥院と號し、朝廷は二十年毎に住吉神社の造替あると共に當社も同じく造替せらるるの恒例たりしといふ。明治維新後の神仏分離によりて寺は廃絶し、社は同六年(1873)郷社に列し、同三十五年四月三十日府社に昇格し、同四十年五月二十一日南旅籠町東三丁字内農人町の鉾塚にありし無格社矛神社(気長足姫命)を末社松風神社に合祀し、同日寺地町東三丁字内農人町旭蓮社北門内にありし村社舳松神社(住吉四神)を、同四十一年一月十三日宿院町東一丁字宿院の西華表の南にありし村社兜神社(品田別命・気長足姫命・玉依姫)を本社境内に移転合併せらる。(略)末社に、白鬚神社・琴平神社・松風神社・稲荷神社・塞神神社・北辰神社・竈神社・楠本神社・厳島神社・少彦名神社・三宅八幡神社・熊野神社・大國魂神社・恵美須神社・神明神社・豊受神社・船玉神社・菅原神社・産霊神社の十九社あり。(略)氏地は本市(堺市)大小路以南及び泉北郡舳松村一円にして、大祭は古来陰暦八月朔日なりしも、明治十七年以来九月十二・十三の両日に改められ、同十二日には神輿の渡御ありて殷賑を極む。(略)
《影向石》
説明板には「開口大神(鹽土老翁神)が影向の時にこの石に腰かけられ、その後★住吉へ向われ住吉の神となったとも行基上人の法談した場所とも弘法大師と御対面された時の御座所ともいわれる石である」と書かれている。
《住吉大社宿院頓宮》
590-0955堺市堺区宿院町東2丁1-6/072-232-1029
http://www.shukuin-tongu.net/index.html
当地は往古から摂津の国一之宮、住吉の御旅所(おたびしょ)であった。「堺鑑云此地(宿院)は住吉明神毎年6月晦日の御払御旅所也。」と『住吉松葉大記』は「堺鑑」を引用している。寛政7年(1795)刊行の『住吉名勝図会』にも同様の文言があり「堺宿院之図」を載せている。その府瞰図(ふがんず)を見ると、石の大鳥居、小鳥居を経て、中央に神輿舎があり、南の方に★飯匙堀と甲之社の小祠、東の方に名越の岡(なごしのおか)があり、丘の上に★舳松社(へのまつしゃ)と如意社(にょいしゃ)が併祀されている。広さは「東西84間南北60間」とあり、広大な神域であったことが分かる。住吉文書の「社務日誌」に、「此の年より大鳥神社宿院に神幸す」と明治8年(1875)8月1日付で記されており、この時から住吉・大鳥両社の御旅所となった。
《舳松村》
かつて和泉国・大阪府にあった村。村東部には「仁徳天皇陵」が含まれていた。堺市街地の南東に位置し、現在の堺市堺区永代町、賑町、一条通、協和町、大仙西町、大仙町、向陵東町などにあたる。「舳松」の地名の由来には、神功皇后が三韓との戦から帰朝した際、この地にあった松の木に船の舳(へさき)を括り付けて上陸したという逸話がある。
《参考》「飯匙堀改修委員会」
http://www.shukuin-tongu.net/iigaibori/index.html
海幸山幸神話の彦火火出見尊が海神よりいただいた潮満珠(しおみつたま)潮干珠(しおひるたま)を埋めた処と云い伝えられ、一年中、空池である。堀の形が飯匙(=しゃもじ)に似ていることから飯匙堀(いいがいぼり)と名付けられたと云う。夏祭りにはこの堀で、荒和大祓神事が執り行われる。
・・・調べれば調べるほど、すごい神社が多くあります。
《菅原神社》
590-0945堺市堺区戎之町東2-1-38/072-232-2450
今から千年以上前、摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。菅原道真公が配流された大宰府の地で自ら彫った木像のひとつでした。当時の氏神であった天台宗威徳山常楽寺の僧が長徳3年(997年)寺内に天神社を創建。その像をご神体として祀ったことが菅原神社の始まりです。明治維新の「神仏分離」により明治5年(1872年)、天神社から菅原神社に名称が変わりました。昭和20年の堺空襲により楼門(随身門)と金比羅宮以外の建物が焼失。その後、菅原神社は焼失を逃れた金毘羅宮を仮殿して使われています。修復保存された★楼門(随身門)は、昭和41年大阪府の有形文化財に指定されました。楼門には堺の武将小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納したという傘松の大木の幹も保存されています。常楽殿の裏手に広がる庭園には茶室「紅梅軒」、千利休の師★武野紹鷗が愛用したと伝えられる「椿の井戸」があります。西長徳3年(997年)創建された天神社は、道真公信仰に支えられていましたが1532年の大火で焼失。再建後は敷地・規模を拡大、本社・大梵天堂・観音堂など神道と仏教の建物が共存していたことがうかがえます。大坂夏の陣でまたも焼失、1652年の菅神750年祭翌年に再建。「元禄二年堺大絵図」では「北の天神、南の開口」と呼ばれ、堺の町を東西に貫く大小路通の北は天神社、南は開口神社がそれぞれ氏神とされていました。神仏分離により天神社は大梵天社などを廃絶。菅原神社と名称を改め明治40年に宿屋町の薬祖神社、翌年に事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を境内に、戎之町の事代主神社を飛地境内地の戎島の恵比寿神社に遷し祀ります。昭和20年の空襲で大半の建物や宝物が焼失。昭和26年に菅原神社(本殿・拝殿)と戎神社、昭和30年に薬祖神社が再建されました。本殿は屋根の片側が前方に延び長い庇の「流造り」で、道真公自作のご神体が鎮座しています。金毘羅宮を移築して建てられた拝殿の瓦には、それを示す「丸の中に金の字」が刻まれています。ご祭神の菅原道真公は天満天神、学問の神、文化の神。天穂日命(あめのほひのみこと)は地上平定の功績により国土開発や産業振興の守護神として信仰され、野見宿禰は相撲の神、相撲の祖と呼ばれています。室町時代に建立されたびたび火災にあいましたが、延宝5年(1677年)堺の鉄砲鍛冶・榎並屋勘左衛門の寄進によって、仁王門が造営されるなど再興・修復されました。建物の特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫刻を刻んだ絵様肘木(えようひじき)という肘の形をした組物を用い建築技法を簡略化していることです。門の左右には剣と矢を帯びた高さ1.5mの檜造りの坐像・随身像が神社を護っています。大阪府下では数少ない楼門建築として大変貴重で、昭和41年大阪府指定有形文化財となりました。秀吉に仕えた水軍の武将で、天下統一や朝鮮出兵で重要な役割を担ったにもかかわらず、これまで関ヶ原の敗戦の将、キリシタン大名として歴史のベールに包まれてきた堺の武将・小西行長。楼門には、彼が朝鮮半島から持ち帰ったとされる「傘松の幹」が保存されています。★茶室「紅梅軒」は慶安年間(1648~1651年)に建立。中世の堺に多くあった「市中の山居」の流れをくむ形式で、豊臣秀吉から贈られた八重咲きの摩耶紅梅にちなんで命名されました。庭園には千利休の師、武野紹鷗が愛用したと伝えられる「椿の井戸」があります。(茶室・井戸は特別公開時のみ見学可)
現在もホタルの育成に用いられ、毎年6月中旬のホタル鑑賞会ではゲンジボタルやヘイケボタルの光の乱舞が見られます。平成13年に再建された「稲荷神社」、櫛屋町に石門心学の塾「庸行舎」が開講したことを記念して建立され、その後境内に移設された★「石田梅岩先生像」。
・・・茶室、井戸そしてホタル、観たいですね。