・・・個展が始まるまでに映画「嘘八百」を観ておきたくて、
《小説「嘘八百」/著:今井雅子》
http://sankyuu.sakura.ne.jp/topics/2017topics/uso800-koukai.html
★三国ヶ丘高校41回卒業生・今井雅子さんが脚本の映画「嘘八百」1月5日公開
今井雅子さん(高41回)が脚本を担当、堺でロケが行われた映画「嘘八百」が2018年1月5日、全国公開される。「嘘八百」は既報の通り、幻の利休の茶碗をめぐり一癖も二癖もある男達が一攫千金をねらって悪戦苦闘するコメディータッチの作品。監督が「百円の恋」の武正晴、出演は中井貴一・佐々木蔵之介のダブル主演に加え近藤正臣、芦屋小雁、友近、坂田利夫らが脇を固めるという豪華な顔ぶれ。11月2日にはTOHOシネマズ鳳にてロケに協力した地元の人たちを招いての特別試写会が行われ(写真)、今井さんや竹山修身堺市長も登壇した。また、12月1日には函館港イルミナシオン映画祭でオープニング上映されるなどすでに各地で話題を集めている。
《映画「嘘八百」》
http://gaga.ne.jp/uso800/index.html
陶芸家は、南海線堺駅の近くの居酒屋でマスターと材木屋と建具屋の3人が飲んでいるところへ、かれらにだまされた古物商がはいってくる。そして、陶芸家と古物商あわせて5人で、「利休本人が見ても見分けがつかない」贋物(歴史)を創り、古狸(店主)と古狐(鑑定家)をだますことに挑む。
監督:武正晴/脚本:今井雅子/俳優:中井貴一(古物商)、佐々木蔵之介(陶芸家)、森川葵(古物商の娘・いまり)、友近(陶芸家の妻・康子)、近藤正臣(鑑定家・棚橋)、芦屋小雁(樋渡開化堂店主)、坂田利夫、塚地武雅(学芸員)
《NEWS1》2015.9.29産経WESTより
大坂夏の陣戦跡出土の利休愛好「楽焼」を公開、初代長次郎の作品似との声も/堺市・さかい利晶の杜
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/tenjikai/chawan/nanshitsuseyu.html
千利休(1522~91)が理想の茶碗(として焼かせた「楽焼」の創始者、長次郎(生年不詳~1589)の作風に近く、堺の豪商屋敷跡から出土した★「軟質施釉陶器茶碗(楽茶碗)」が、さかい利晶の杜(堺市堺区)で開催中の企画展で展示されている。長次郎を初代とする楽家の十五代楽吉左衛門さんが「長次郎の作品に似ている」と評した茶碗で、展示は9年ぶり。市は「堺の豊かな都市生活と茶の湯文化を感じてほしい」とPRしている。堺は中世から国際貿易で繁栄し、武野紹鴎や千利休ら著名な茶人が活躍。富を蓄えた商人らが茶の湯を流行させた。豪商が屋敷を連ねた堺区の中心部(南北約3キロ、東西約1キロ)は「堺環濠都市遺跡」として、これまで千地点を超える発掘調査が行われてきた。楽茶碗は、平成5~6年の調査でザビエル公園の南から出土。慶長20(1615)年に大坂夏の陣の前哨戦で焼けた蔵の跡とみられている。遺跡内各地で出土する、ろくろを使った大量生産のほかの楽茶碗とは異なり、手で成形し、装飾や個性を抑えたデザイン、印が入っていないなどの点が長次郎の作風に酷似。堺市博物館によると、平成16年に当代の楽吉左衞門さんが講演で堺を訪れた際に手に取り「長次郎の作品に似ている」と語ったという。楽焼を展示・研究する楽美術館(京都市)によると、長次郎の作品は茶家や美術館などに約100点が現存するといわれる。三代以前には箱書きがなく、初期作品は長次郎のほか家族も製作にかかわったほか、当時から人気を呼んで類似品が多数出回ったという。市では「出土場所は当時の海岸に近く、商人の中でも貿易と倉庫業で大きな富を蓄えた納屋衆の蔵と考えられる。長次郎の楽茶碗かどうかは断定できないが、堺にあったとしても不思議ではない」としている。企画展は「まちを掘る発掘40年と茶道具逸品の数々」で、40年間の環濠遺跡の調査で出土した国内外の茶碗や皿、水指、花入などの茶道具約100点を展示。
《軟質施釉(樂)茶碗》堺環濠都市遺跡(SKT448-2地点)出土
堺市堺区戎之町東1丁/慶長20年(1615)被災焼土層中より出土。口径10センチメートル、器高9センチメートル
現在樂焼には、長次郎以来続く京都の樂家代々の作行きなど茶の湯を中心とした伝統的作陶と、またこれと同様の技法で焼成された軟質施釉陶(なんしつせゆうとう)全般をさす二つの定義があります。これらは内窯という小型の窯を使用して低火度(750°から1100°C)で焼かれた陶器で、釉薬を施した陶器の中では軟質施釉陶に分類される。基本的に轆轤(ろくろ)を用いず手捏ねにより成形し、大量生産・堅牢性には不向きではあるが、個性的な作風が認められる。いずれにしても、桃山茶陶を代表する陶器といえる。尚、この碗は長次郎の作風に近いプロポーションをもつが、火災により釉薬が変化している。
《NEWS2》2017.12.8産経WESTより
堺の魅力全開!!“オール堺ロケ”の異色コメディー正月映画「嘘八百」、脚本家も学芸員もみな堺
堺ゆかりの茶人、千利休(1522~91)の茶器をテーマにした映画「嘘八百」が1月5日から全国で公開される。“利休の幻の茶器”をめぐり、中井貴一、佐々木蔵之介が“詐欺師”を演じる異色コメディーだが、同市出身の脚本家、今井雅子さんや同市学芸員★矢内一磨さんをはじめ多くの堺市民が“一致協力”し、歴史に埋もれた利休の謎に迫る本格ミステリーに仕上げた。大作映画が“オール堺ロケ”で製作されるのは初の試み。今井さんや矢内さんたちに製作秘話を聞いた。「堺は歴史豊かな大都市なのに、これまで堺を描いた映画は少なかった。脚本家として、堺をメーンの舞台にした本格映画をつくるのが、長年の念願だったんです」こう語るのは今作の脚本を執筆した今井雅子さん。堺市生まれの堺育ち。同市内の小・中学校、府立★三国丘高校に通った“堺っ子”だ。映画「パコダテ人」(平成14年)や「子ぎつねヘレン」(18年)の他、NHK連続テレビ小説「てっぱん」(22~23年)を手掛けるなど脚本家として活躍している。今作は共同脚本で、もう1人の脚本家は、映画「百円の恋」で、平成28年の日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した気鋭の脚本家、足立紳さん。そしてメガホンを執ったのは、「百円の恋」で監督を務めた足立さんの盟友、武正晴監督だ。《千利休が誕生した“茶の湯の聖地・堺”に、お宝を探しにやって来た古物商の小池則夫(中井)。落ちぶれた陶芸家、野田佐輔(佐々木)と出会い、意気投合した2人は、一攫千金を狙い、“一世一代の詐欺”を画策する。それは、幻の利休の茶器を仕立て上げ、オークションに持ち込もうという途方もない計画だった…》堺ならではの映画”にこだわる今井さんが構想していたのは、堺で生まれ育った先人、千利休の存在だった。ただ、利休を描いた歴史物の映画としては、すでに市川海老蔵が利休を演じた「利休にたずねよ」(25年)や、野村萬斎が華道家の池坊専好、佐藤浩市が利休を演じた「花戦さ」(29年)などがある。だが、いずれも堺市内で本格的なロケは行われておらず、今井さんは、「時代劇ではない現代もので、しかも堺で全編ロケができる作品にしたい」と考えた。そこで思いついたのが、過去と現代の堺を結びつける利休をめぐる壮大なストーリーだった。それも、これまで明かされていない“利休の謎”について描こうと考えたのだ。「今井さんから利休について詳しく知りたいと頼まれ、改めて利休について調べ直しました」。こう語るのは、室町以降の古文書研究を専門とする同市学芸員の矢内さん。「堺親善大使」も務めている今井さんは、同市主催の学術イベントなどで面識があった矢内さんに、利休をテーマにした映画化の構想を語り、脚本の相談をしていたのだ。矢内さんが文献などを徹底的に調査し、今井さんに紹介した、とっておきの利休の知られざるエピソードはこうだ。「かつて、利休は愛称で★鴎(かもめ)と呼ばれていたことがあるのです。何ものにもとらわれない自由人の利休の生きざまと鴎とが似ているところから付けられた愛称とされています。港町の堺で生まれ育った利休は、自由な鴎に憧れていたことが想像されます…」矢内さんは、茶人・津田宗及の息子、江月宗玩の語録を集めた「欠伸稿」の中に出てくる利休が「鴎」と呼ばれていた記述を示しながら、こう説明する。今井さんはこのエピソードにヒントを得て脚本の構想をふくらませていく。鍵は学芸員?!劇中、利休の茶器について調べるため、中井演じる則夫、佐々木演じる佐輔の2人が堺市博物館を訪れる場面が描かれる。2人を旧堺燈台へ案内し、海を眺めながら熱心に“利休とカモメの逸話”について説明する学芸員役を、お笑い芸人の塚地武雅が演じているが、この学芸員役は矢内さんをモデルに、物まねをして演じているのではないかと思えるほど雰囲気や話し方がそっくり。顔を上げて目をつぶり、あふれ出る知識を“速射砲”のように熱く語り続ける学芸員、田中の姿は、矢内さんそのものにしか見えなくなってくるぐらいだ。「撮影現場で塚地さんとすれ違ったのですが、お互いが振り返り、“よく似ているな”と感じとりましたね」と矢内さんは苦笑した。実は利休の幼少時の名前は「田中与四郎」。“矢内さんとしか思えない”塚地演じる学芸員の名は「田中四郎」である。「嘘か本当か分からない数々の仕掛けがあちこちに伏線として張り巡らされているのが、『嘘八百』の最大の魅力かもしれませんね」と矢内さんは笑った。撮影はオール堺ロケを敢行。利休とカモメの接点を裏付ける重要な場所として同市堺区の旧堺燈台、則夫と佐輔が訪れる堺市博物館、利休の茶器のオークションが行われる同市内の旧家の屋敷などが登場する。「観光名所ではないですが、堺の歴史を伝える魅力的な場所が何カ所も出てきますので注目して見てほしいですね」と語るのは大阪フィルム・カウンシルの藤本美保子さん。撮影当時、藤本さんは堺フィルムオフィスに所属し、映画スタッフとともにロケ地を探し、エキストラを集めるなど撮影現場を裏で支えた1人だ。これまで堺フィルムオフィスが協力し、堺市でロケが行われた映画として、「寄生獣」(26~27年公開)で市役所庁舎、「ソロモンの偽証」(27年)で市立大浜中学校、「セトウツミ」(28年)では府立泉陽高校が使用されている。近年、同市が映画の舞台として登場する機会は増えたが、「いずれも具体的な地名は登場せず、オール堺で描かれた映画は『嘘八百』が初めて。それだけに感慨深いですね」と藤本さんは言う。「利休の生き方は、大海原を舞う鴎そのものでした。しかし、秀吉に近づくほど、利休はがんじがらめにされて身動きが取れなくなっていった。切腹によって秀吉の呪縛から解かれることになったとき、これで鴎になれると思ったのではないでしょうか…」利休の幻の茶器について、こう則夫がとうとうと語るシーンは印象的だ。その中井演じる則夫の姿と、「利休の魅力、利休の精神を育んだ堺の魅力を、堺の学芸員として多くの人に知ってほしい」と熱く語る矢内さんの姿とが重なる。いったい、「嘘八百」はどこまでが真実でどこからが嘘なのか?こう質問すると、今井さん、矢内さんは笑いながら声を揃えた。「だから言っているでしょう。タイトルが『嘘八百』なんですよ」と。
《「欠伸稿」/著:江月宗玩》
千利休と同じ秀吉の茶頭をつとめた江月宗玩(こうげつそうがん)は、著書「欠伸稿(かんしんこう)」のなかで利休のことを『鴎(かもめ)』と呼んでいる。『利久宗易居士(こじ)の幻容、常に江南野水の流れに対す、白鴎(はくおう)、眼を具して、同遊と叫ぶ』
《学芸員》
本作を監督した武正晴監督によると、塚地の役は当初は予定しておらず、リサーチの段階で堺市のとある学芸員の方に出会い、ご本人とお話していく中で、このキャラクターが生まれたのだとか…。初めて★学芸員の方に会った時から「塚地さんに似ていると思っていた」と語る監督。そこから田中の役を加え、塚地にオファーをし、晴れて出演が叶うことに。ふたりが並んだメイキング写真をみるとソックリで、声や話し方の特徴も似ているという。
・・・一度お会いして、話を聞きたいものです。
《参考》鷗「カモメ」チドリ目カモメ科カモメ属
全長40~46センチメートル。翼開張110~125センチメートル。頭部や体下面の羽衣は白い。背中や翼上面は青灰色の羽毛で被われる。尾羽の色彩も白い。初列風切の色彩は黒く、先端に白い斑紋が入る。嘴は小型で細い。後肢は細い。嘴や後肢の色彩は灰黄緑色や黄色で、嘴先端に不明瞭な黒い斑紋が入る個体もいる。幼鳥は全身が灰褐色の羽毛で被われ、肩を被う羽毛や翼上面の外縁(羽縁)が淡褐色。和名は幼鳥の斑紋が★籠の目(かごめ→カモメ)のように見える事が由来とされる。尾羽の先端が黒い。嘴は黒い。後肢の色彩は淡ピンク色。夏季は頭部から頸部にかけて斑紋が無く(夏羽)、冬季は頭部から頸部にかけて淡褐色の斑点が入る(冬羽)。沿岸部や河口、干潟などに生息する。同科他種と混群を形成する事もある。漢字表記は本種の鳴き声に対する当て字で、アメリカ合衆国における英名mewも鳴き声(英語圏でのネコの鳴き声にあたる)に由来する。食性は雑食で、主に魚類、動物の死骸などを食べるスカベンジャーでもある。繁殖様式は卵生。集団繁殖地(コロニー)を形成する。沿岸部の岩礁や草原などに巣を作り、卵を産む。生後3年で成鳥羽に生え換わる。
・・・キーワードは「カモメ」まず浮かんだのが、
【武野紹鴎(たけのじょうおう)】文亀2年(1502)~弘治元年閏(1555)
戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。正しくは紹鷗だが、一部の日本語環境では表示できないため、「武野紹鴎」と表記することがある。幼名は松菊丸。通称は新五郎。名乗は仲材。子に同じく茶人の武野宗瓦がいる。紹鴎は若い頃から学問を好んだ。三条西実隆に師事して和歌を教えられ、朝廷に献金を行ったこともある。この献金への報いとして因幡守に任ぜられている。紹鴎は連歌師をしていたこともあったとされる。紹鴎は三条西実隆から、良い和歌を作るにおいて大事なことは、稽古(勉強・経験の積み重ね)と創意工夫(学んだ通りをするのみではなく、自分で新しく生み出すこと)だと教わった。紹鴎は、実隆から教わったこの思想を、茶道にも取り入れてゆくこととなった。また紹鴎は実隆より、藤原定家の『詠歌大概之序』を伝授され、そこから茶道の真髄に目覚めたという。紹鴎は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称した。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称した。後に千利休は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいて、深い混乱を生じさせる事になった。桑田忠親は、紹鴎が和歌を学んでいたことには大きな意味があると指摘する。歌道という、藤原定家ら前時代の歌人達によって体系化・整理された文化と茶道が融合し、茶道は芸術的な日本文化に昇華するに至ったと桑田は指摘する。わび・さびの由来である言葉「侘び」「寂び」も歌道由来の言葉、概念であり、これらを茶道の思想に持ち込んだのは村田珠光だとも言われるが、桑田は紹鴎が歌人でもあったことから、わびさびの概念を産み出したのは紹鴎ではないか、と推定している。
31歳の時に出家し、「紹鴎」と号する。32歳の時、奈良にある漆問屋の松屋を探訪、そこに飾られていた、徐熙の「白鷺の絵」を見て、村田珠光の茶道の茶味に目覚めた、という伝承がある。この白鷺の絵は非常に美しい絵であり、表装も煌びやかであった。村田珠光は、その表装をあえて枯淡なものに差し替えた。それを見て紹鴎は、枯淡な表装と美しい絵のコントラストの中に珠光の茶味を見出した、というのがこの伝説の趣旨である。この伝説は喧伝され、千利休も殊更に喧伝した。ついには、「白鷺の絵を見ていないものは茶人に非ず」というような言葉さえ飛び出すようになるほどであった。紹鴎は大徳寺の末寺である南宗寺に参禅。大林宗套より嗣法し、一閑斎と号し、大黒庵主となる。茶道については、『山上宗二記』によれば、藤田宗理に師事して茶道を学んだと伝わる。一方で、『南方録』が伝えるところによれば、十四屋宗陳(もずやそうちん)および、十四屋宗悟から茶道を学んだという。桑田忠親は二つの史料の記述を折半し、「最初は藤田宗理に師事して、その後、宗陳・宗悟からも学んだ」のではないかと推定している。宗理、宗陳、宗悟はいずれも京都の町人であり、紹鴎は京都を拠点に茶人としての研鑽を積んだ。晩年は、従五位下因幡守に叙された。大名物茶入「紹鴎茄子」の所持者であったこともある。墓所は堺市の南宗寺。紹鴎の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された。特に利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鴎の名声が広く知られることとなった。
・・・そして、個展出品作に「カモメ」を描きたすことにしたのでした、お楽しみに。