個展(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「個展」まで約20日となりました。「GALLERYいろはに」へ打ち合わせに行ってきました。 

 

 

《堺市立三原台中学校》 

590-0111堺市南区三原台1丁12番1号/072-291-0395 

http://www.sakai.ed.jp/miharadai-j/

1年生は今、平和学習に取り組んでいます。今回は堺大空襲での証言を聞き、学びました。実際に空襲をうけた地域が近くにあり、生徒たちは真剣に映像を見ていました。来週の校外学習で、実際に★防空壕に行く班もあります。少しでも、当時の人の気持ちを感じ取ってほしいです。 

《「ギャラリーいろはに」の防空壕》 

http://www.sakai.click/200710/

山之口商店街にある「ギャラリーいろはに」さんの床には床下収納庫のようなふたがあります。なんとそれは実際に使っていた防空壕なのです。1944年当時は洋服店で軍の命令により地下に防空壕をつくり壁面も頑丈なコンクリートで固めました。その後の空襲でお店は全部焼けてしまいましたが、この防空壕だけはそのまま残りました。現在のお店はオシャレなギャラリーになっていますがその床には当時のまま防空壕が残っています。 

 

・・・中学校1年生が「校外学習」(平和学習)で「防空壕」の見学に来られていました。 

《参考》「堺市における戦災の状況」 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_01.html

太平洋戦争の情勢悪化に伴って、本土に対する空襲も昭和20(1945)年3月の東京大空襲以来次第に熾烈化し、東京等の大都市から中小都市へと拡大していった。堺市も、隣接する大阪市と軍需生産の上で密接な関係を持ち、機械器具工業、木造船工業など軍需産業が勃興し、一大軍需工業都市となっていたため、また、大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供していたことなどから、昭和20(1945)年3月13日を皮切りに、6月(2回)、7月(最大)、8月の五次にわたり空襲(焼夷弾・爆弾・機銃掃射等)を受け、罹災した面積は約22万6千坪に達し、これは市域総面積の14%に当たり、旧市域の62%に相当する面積が焦土と化した。この空襲で、死傷者約3千人、建物の全焼(壊)半焼(壊)は約1万9千戸、罹災者7万人を超える人的、物的に大きな被害を被った。

 

 

・・・「個展」の成功を願って、「開口神社」にお参りしてきました。 

 

《開口神社》 

590-0953堺市堺区甲斐町東2丁1-29/072-221-0171 

http://www.aguchi.jp/

開口神社は、奈良時代には開口水門姫神社と称せられ神功皇后により創建されたと伝えられています。港を護る役割を持ち、最古の国道といわれる★竹内街道の西端にありました。また行基により念仏寺も建立されました。念仏寺の通称が大寺であったため念仏寺が廃寺となった今も堺の人々は「大寺さん」と愛着をこめて呼んでいます。また、かつての堺の繁栄の名残として、境内にはいくつものお社があります。 

●「金龍井」 

金龍井は山之口商店街に面した神社の西参道入口(西門)大鳥居南側にあります。元はこの西門の前にあった海会寺の井戸でしたが元和の大火の後南宗寺境内に移転した後は、大寺(開口神社)の物となりました。この井戸のことは和泉名所図会、全堺詳誌など江戸時代の書物にも記載されています。和泉名所図会にはこう記しています。 

むかし、龍神出て、乾峰和尚(海会寺の創建者)に曰、精舎を建給はゞ、初メに井を掘給へ。其井の清泉をしらんとならば、試に地上に鵜ノ羽を布(しか)ば、白露浮まん。其地に就て井を開かば、清泉を得るべし。和尚、其言の如くするに、果して名水沸出す。 

井戸の横に宝暦3年(1753)建立の石碑が在りこの謂れが刻まれています。戦後井戸の口が伏せられたままでしたが、大小路界隈夢倶楽部の方々の手により井戸替えを行い、屋形を作って頂き、見違えるようになりました。井戸が生き生きと蘇りました。竜神様のご加護を求めてお越しになる方が増えています。 

 

・・・実は、個展に「手押しポンプ」を用いた作品を展示する予定にしています。 

 

《参考》「手押しポンプ」 

大正時代から、昇進ポンプと呼ばれる手押しポンプが広島(津田式ポンプ製作所)で作られ、また名古屋地区にてガチャポンと呼ばれる手押しポンプが鋳造量産され始めた。昭和十数年頃から、各家庭の台所や裏庭に普及させるために開発し、現在の戦後主流になったTB式自在口共柄ポンプ(東邦工業製)が現れた。特に昭和30年代後半、水道が普及するまでは、日本中のどこの家でも見られた。また、となりのトトロでメイとサツキがこの井戸で水を汲むシーンが有名になったため、「トトロの井戸」の愛称で現在も親しまれている。その後、次第に電動井戸ポンプに置き換わり、さらに、水道の普及によって、一般家庭では井戸が使用されなくなり、農事用以外ではあまり見かけなくなった。しかしながら、★阪神・淡路大震災以降、災害時の生活用水・雑用水の確保に大いに役立ち見直されるようになり、各自治体によって災害手押しポンプ井戸登録も行われている。公園や公共施設にも多く設置されるようになった。現在は寺院の墓地の水汲み用の井戸として使われることが多い。共柄ポンプ型メーカーは戦前戦後からの9社と1971年(昭和46年)頃からの後発の模倣品の1社、昇進ポンプ型メーカーは戦前からの1社と1975年(昭和50年)からの後発の1社がある。近年ステンレス製のものが2社から発売された。

 

 

●「三国丘高校発祥の地」記念碑

 

●「堺の幼稚園教育発祥の地」記念碑 

平成24年4月1日より第一幼稚園は、少林寺小学校の校舎に移転します。現園舎の耐震性が無い事が判り、急遽引越しとなったようです。此れまでの園舎は堺区甲斐町東3丁1の開口神社敷地跡に立つUR賃貸住宅の1階と2階にありました。明治19年5月に私立の幼稚園が当神社境内に設立されました。しかしこの幼稚園は翌年公立堺幼稚園となったが、22年9月廃止と成りました。その後32年再び境内連歌所に市内有志者と市の補助で私立堺幼稚園が設立され、市立幼稚園の前身となります。園児増加等で移転もありましたが、明治40年境内の女子高等小学校跡に落ち着きました。大正3年4月園舎改築を行い、4年1月より使用開始されました。この年6月の神社の記録では、敷地面積568坪程賃貸期間20年、堺市からの土地代年200円と有りますが、堺市史では581坪となっていて少し面積が違っています。昭和20年の戦災の為焼失し、28年境内に再建されました。その後焼失した本殿再建の為に昭和36年園敷地を堺市に売却した為、神社と賃貸関係が無くなりました。戦前は三重塔の欄干をバックに園児の記念写真を撮ったりして、境内も幼稚園に利用されていました。最近では創立100周年を記念して境内に建立された記念碑に埋めたタイムカプイセルを、10年目の今年3月開けました。思いの外昔のままの姿でした。中身も異常なく感激しました。

 

 

●「泉陽高校発祥の地」記念碑

 

・・・「沢口靖子」さんの名前も刻まれていますね。

 

 

・・・「個展」にお越しいただいた際には、ぜひ「開口神社」にもお立ち寄りください。