案内看板標示(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・少しずつ一歩ずつ、ゆるやかに整備が進んでいるようです。 

 

《巡礼街道》 

観世音菩薩を信仰する人々が、観音像を安置する33ヶ所の寺を参拝して歩くことは、僧や修験者、貴族などが主として平安時代末に始まった。それが江戸時代になると観音の功徳にあずかることを願う市民の間でも盛んになる。西国33ヶ所観音巡りの一つ第四番槇尾山施福寺(和泉市)より五番紫雲山葛井寺(藤井寺市)へ行く街道の近道が尺度から軽里付近を通っており、「巡礼街道」と呼ばれていた。 

★藤井寺周辺のまちなみ(藤井寺市) 

http://www.pref.osaka.lg.jp/kenshi_kikaku/keikan-ustukushii/100kei-045.html

藤井寺市域は史跡や古墳が多く古代文化発祥の地とも言われ、古代天皇陵や渡来系氏族ゆかりの地名、寺院も多く「河内国府」も設置されていた。「葛井寺」は百済系氏族の一つ葛井氏の氏寺で7世紀に建立されたとされ、戦国時代の観音信仰の浸透期に西国霊場第5番札所とされた。この周辺は和泉の第4番槙尾寺とも結ばれていた「巡礼街道」沿いのまちなみで、又、平野から竹之内街道に繋がる「古市街道」の一部も通り、街道集落として栄えていた。通りに残る白壁の蔵通りは、当時の面影を残し、歴史を感じさせる。 

 

 

・・・画像が暗くてすみません。

 

《軽里4号墳》羽曳野市軽里3丁目  

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_koki/2390.html

1991年(平成3)に「古市大溝」の南側肩部にあたる地点を調査したところ、大溝によって墳丘が破壊された古墳が発見され、西向きの前方後円墳であることがわかりました。残存する後円部から復元すると、後円部直径が13.6メートル、前方部の長さ4.6メートルを測り、墳丘長が18.2メートルとなります。主体部はすでに古市大溝によって破壊されており、調査では確認できませんでした。しかし、周溝から副葬品の一部と考えられる馬具が発見され、墳丘には円筒埴輪や盾形埴輪が認められました。その他、家形や馬形・人物形埴輪なども見つかっています。また、前方部ではお祭りに使用した 須恵器や土師器が出土し、これらの土器の特徴からこの古墳は5世紀末ごろに築造されたことがわかりました。 

 

 

《古市大溝》羽曳野市軽里-白鳥-野々上-高鷲-島泉地区 

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_koki/2393.html

古市古墳群内を通る巨大な水路で、1964年(昭和39)に航空写真を観察していた秋山日出雄氏によって発見されました。その流路は、軽里の前の山古墳の北東側付近から北西方向に延び細池に至ります。細池西側で北西に向きを変え、下田池・上田池と北上し、岡ミザンザイ古墳の南東部で中池・堀川に続き、北西に下ります。更に、高鷲地区の中池を経て、島泉の墓池から東除川に注ぐ流路を主要幹線として復元されています。全長12キロメートルと遺跡の規模が大きいのに比べて、調査規模が小さいためその時期や用途については不明で、掘削された時期が古墳時代後期の6世紀後半頃であれば、物資の移送に係わる運河説となり、7世紀であればこの地域を開拓するための灌漑用水路(灌漑説)として機能したものと考えられています。 

 

 

《参考》「丹比大溝」 

https://www.city.matsubara.osaka.jp/sp/index.cfm/10,1328,49,450,html

1991年(平成3)上田町遺跡の一角で行った発掘調査で、飛鳥時代に開削されたと思われる幅10m、深さ3mもの大溝跡が発見されました。この大溝跡を本市一帯の古名に因み、「丹比大溝」と命名しました。また同時にかつてよりその存在が確認されていた河合地区の大溝跡も合せて「丹比大溝」と呼称することとしました。南河内地域では、羽曳野市の古市古墳群内に★「古市大溝」と呼ばれる古代の大溝跡が存在しており、南河内地域で日本書紀や古事記に見られる国家規模の大溝開削事業が行われていたことが知られています。おそらく丹比大溝も同様に開削された大溝と考えられます。しかしながら両大溝の開削目的が、付近一帯の水田潅漑であったのか、難波から飛鳥に通じる舟運を目的とした運河であったのかは、未だ議論が分かれるところです。 

 

《青山緑地》藤井寺市青山3丁目613-7 

 

・・・大阪府章が刻まれた石碑が設置されているということは、大阪府の管理する公園なのでしょうか?いずれにせよ、この現状を放置せず整備してほしいものです。 

 

 

・・・広い「応神天皇陵」の「外壕外提」にも、新しい説明看板が設置されていました。

 

 

《はびきのウォーキングトレイル》 

大王(天皇)級の副葬品が数多 く発見された峯ケ塚古墳をはじめ歴史遺産が数多くあり、市内外の多くの人が訪れ親しまれています。 そのため、市では、近隣市町村等と連携したウォーキングトレイル事業により、ウォーキングコースをつくりました。コースは、歴史遺産と調和した舗 装を施し、要所には、行き先案内の標識を設置するなど、見学者が、多くの歴史遺産を順序だてて見て回ることが出来るように工夫しています。 また、ガイドマップやパンフレットにより、羽曳野市の歴史遺産を美しい写真で、市内外に紹介して いるほか、周辺住民の方々も、市民NPOを発足させ、ツアーガイドや遺跡勉強会といった活動を行うなど、豊かな歴史遺産はまちのアイデンティティと なっています。 

★「ウォーキング・トレイル事業」 

平成8年から当時の建設省(現在の国土交通省)が歩いて楽しい道づくりをめざして始めた事業です。緑豊かな景観・自然、歴史的事物、文化的な施設等を作り、その地を訪れた人々が快適に散策等を楽しめる地域を増やしています。ウォーキング・トレイル事業を進めるためには、地方自治体の関連部局、地域住民、ウォーキング関係者等の協働によるネットワーク計画、施設計画を検討する必要があり、この計画に基づいて国土交通省は道路事業について助成措置を講じることとなります。その結果出来たのが、兵庫県洲本市の洲本散歩道、愛知県瀬戸市の伝統を感じ夢を語る出会いの散歩道、大阪府★羽曳野市・太子町の「竹内街道」等があります。竹内街道は別名日本のシルクロードとも名付けられており、説明には「 旧石器時代から江戸時代にかけて形づくられた歴史・文化資源や豊富な自然がたくさん残されています。例えば、竹内街道・東高野街道をはじめ、旧石器時代の石切り場・加工場、古市古墳群や古市大溝址などの他、由緒ある神社、飛鳥時代の寺院、河内源氏の里、王陵の谷、二上山を含む金剛山地、田園風景などがあります。きっと大自然を満喫することができるうえに、歴史や文化を肌で感じ事が出来ると思います。」と書かれています。