・・・とうとう姿を現しましたので、
《大阪商工信用金庫新本店ビル》
541-0053大阪市中央区本町2-2-8/06-6267-1636
本町通と堺筋が交わる本町1丁目交差点南西角に完成した大阪商工信用金庫の新社屋。設計は★安藤忠雄建築研究所。★2017年9月19日にグランドオープンし、中央区松屋町住吉の本部・本店営業部を移転した。以前は本町ビルディング(旧東洋紡本町ビル★1961年竣工)が立っていた場所。同ビル屋上に設置されていた★「今井兼次」さんによるフェニックス・モザイク作品「糸車の幻想」は建物敷地内を再生保存された。同金庫は大阪市内を中心に17店舗を展開している。
《お知らせ》2017年9月15日/大阪商工信用金庫
大阪商工信用金庫は、2017年9月19日(火)に本店を松屋町から本町へ移転することを記念して、オープニングセレモニーを同日に執りおこないます。建築計画を固めてから5年、さらなる大阪活性化を進め金融機関としての役割を一層充実させるために本店の建設を決定し、2016年1月より建築工事を進めてまいりました。この本店新築を契機に、大阪の地域・経済発展ために努力してまいります。この場所には元々、★東洋紡ビルがあったことから繊維産業の象徴の「糸車の幻想」という今井兼次氏の大きなレリーフがそのビルに設置されておりました。今井氏の代表作品であったことから、今回、世界的な建築家★安藤 忠雄氏に設計いただき、そのレリーフを大阪の歴史文化財として保存し後世に残すことになりました。それはまさに★生きた「建築ミュージアム」として自負しております。また、1階部分である本店営業部についてはさらに機能を充実させ、お客様がより良く・より便利に・より快適にご利用いただける空間を提供いたします。
■本社移転の背景と主な機能
1.生きた建築ミュージアム/元々、東洋紡ビルだったことから繊維産業の象徴「糸車の幻想」という今井 兼次氏の大きなレリーフが設置されていました。この度当地に当金庫本店ビルを建築するにあたり、新本店は大阪経済の中心・船場の繁栄を物語る戦後ビルの代表例となる建築を受け継ぎ、旧ビルが建てられた時代の輝きと、まちの歴史を踏まえた建替え計画を進行中と評価されました。それにより、平成25年10月に大阪市より「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」として選定されております。
2.建築家・安藤忠雄/ビルの場所の選定から建築に至るまで終始一貫し、世界的な建築家・安藤忠雄氏のプロデュースです。大阪の街を元気にしたい、という当金庫の想いと、安藤氏の想いが合致し、今回の建設に至りました。
《千鳥屋宗家(本店)ビル》旧★早稲田屋ビル
541-0053大阪市中央区本町3-4-12/06-6261-0303
http://www.chidoriya.jp/index.html
1630年(寛永7) 原田家が佐賀県佐賀郡久保田町(現・佐賀県佐賀市久保田町)に創業。
1973年(昭和48)大阪千鳥屋を開店。
ビルの上に早稲田大学の大隈記念講堂を模した塔屋が載っている旧ワセダヤビル。千鳥屋宗家ビルになって、1階がその店舗になっています。ワセダヤビルは、もともとシャツのメーカーだった早稲田屋の本社社屋だったビルで塔屋の下には、シャツを着た男性のステンドグラスが残っています。
《NEWS》2013.9.18読売オンラインより
太閤下水の流れ/受け継いで400年
エレベーターで約50メートル降下すると、建設中の地下トンネルにたどり着く。ビル15階分の深さに相当する坑内は夏でも23度前後で、ひんやりとしている。天王寺動物園(大阪市天王寺区)近くの工事現場。トンネルは大阪市が2015年度の供用を目指す下水道だ。内径6メートル、長さは南北約4.8キロにわたり、雨水を最大14万トン貯留する。市内の下水は雨水と汚水を一緒に流す合流式が大半で、雨の時は汚水が川に流れやすいのが弱点。この“ため池”があれば川を汚さずにすむそうだ。「ちょうど、地下鉄が通るくらいの大きさ。周辺に1時間60ミリの大雨が降っても、対応できますよ」。工事を請け負う共同企業体の現場責任者、藤本明生さん(54)は語る。実は下水道には愛称がある。公募で決まったのは「平成の太閤下水」。豊臣秀吉の大坂城築城(1583~)を機に城下に整備された下水溝にちなむものだ。「いい名前ですよね。こんな事業に関われるとは光栄」と藤本さんは胸を張った。汚水や雨水をどう処理するかは古今東西を問わず、都市の重要な課題だ。
下水道の歴史に詳しい大阪産業大教授の玉野富雄さん(64)は「秀吉も新都市・大坂を建設する際、そうした水問題を重視したはず」とみる。太閤下水は、その対策の一環で建設されたとされる。当時、大坂は低湿地が多かったという。秀吉が早い時期に手がけたのは堀川の開削だ。掘り出した土は両岸に埋め、土地をかさ上げしている。狙いは、浸水を防ぐための地盤改良だったのだろう。そこに碁盤の目状の道路や町割(まちわり)を整えた。同じ頃に原形ができたと考えられるのが下水溝である。道路に面した町家や商家の裏手、つまり、家同士が背中合わせになる所に掘ったので「背割下水」という。やがて、太閤下水の名がついた。下水溝は堀川につながる。後に水運の繁栄をもたらす堀川も、ふだんは汚水を流し、雨の時は放水路となった。都市の排水機能が確立していたわけだ。もともと秀吉は、戦で水攻めを得意とし、淀川で治水を手がけるなど「水」の扱いに卓越している。秀吉時代にできた下水溝は10キロ程度だったとされるが、玉野さんは「道路や堀川とともに当初から都市計画に組み込んだことが画期的。世界でも例のない事業です」と語る。パリやロンドンでも、都市ができた後に本格的な下水道が登場する。時期も、秀吉時代より遅い19世紀以降のことだ。もう一つ、太閤下水を有名にしたのは<持続性>だ。江戸時代になっても拡張され、町衆が管理した。「水道浚え」という一斉清掃日を設け、補修費も出し合ったとの記録が残る。その後も石組みを施し、底をU字形にして流れを良くして石ぶたをかぶせるなど改良を進めた。市制施行の1889年には延長約350キロに達したとの調査結果もある。船場地区などでは今も約20キロが使用されており、現役では国内最古だ。「昔のものを使いながら、より良くしていくのは大阪のDNA。それを海外で役立てたい」と話すのは、大阪市水環境課の安井幹人さん(42)だ。市は現在、官民で連携し、水問題を抱える新興国での受注や支援を目指す事業を展開する。一つはベトナム・ホーチミン市への技術協力。河川の汚濁や浸水被害が深刻で、大阪市が現地調査を踏まえ、有効な下水対策を提案している。下水道の新設だけではなく、既存施設を改良して使うことにも力を注ぐ。「太閤下水を継承する大阪ならではの発想かもしれませんが」と安井さんは笑う。太閤下水が誕生して400年余り。市内の下水道はほぼ100%普及したが、今夏、梅田では豪雨で道路冠水や浸水が起きた。対策はなお続く。「平成の太閤下水」に携わる藤本さんは言う。「下水道は地図にもない地味な存在だが、生活には欠かせないもの。それを一番理解していた太閤さんなら、現代にどんな助言をくれたでしょうね」。先駆者の話は、確かに聞いてみたいものである。大阪城大手門前広場(大阪市中央区)から約1キロ南西の市立南大江小のそばには、現役で最も大きい太閤下水(幅約2メートル)の見学施設がある。地上の入り口から階段を下ると、石垣を組んだ下水溝があり、水が流れる様子を間近で見ることができる。太閤下水の多くは幅0.3~1.2メートルで、大きいものは幅3・6メートルあったという。江戸初期の1655年の城下町を描いた「大坂三郷町絵図写(さんごうまちえずうつし)」(大阪城天守閣所蔵)は、下水の位置に黒い線を引き、同小周辺にあたる場所にも存在したことを示している。施設見学の申し込みは都市技術センターへ。地上には下水溝を自由に眺められる「のぞき窓」も設置されている。
・・・ビルとビルの谷間に、このような「顕彰パネル」が設置されているなんて、素晴らしい。