【渡辺節】(1884~1967)
近代日本の建築家。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、関西を中心に商業ビルの秀作を多く残した。東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は軍人。旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正 5)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9)~1921年(大正10)には欧米を視察。日本勧業銀行、日本興業銀行、大阪ビルヂングなど合理的なアメリカ流のオフィスビルを得意とした。様式を使いこなす渡辺の手腕はつとに知られ、またその設計が合理性を踏まえていたことに特徴がある。彼は、過去の様式を折衷することで自らの世界を創り出し、施主の要望に応える現実的な建築家であった。この時代に民間企業が建築家に求めた合理性とは経済上であり、建物のデザインに関してはあくまでも保守的であった。渡辺のこうした建築姿勢に、その下で学んだ★村野藤吾は影響を受けたとされる。
1914★梅小路蒸気機関車庫(扇形車庫)
1922旧大阪商船神戸支店(神戸市中央区)
1923旧日本興業銀行本店 (東京、現存せず)
1925旧大阪ビルヂング (大阪★ダイビル本館に外壁、内部の一部復元)
1927旧大阪ビルヂング東京分館(東京、現存せず)
1928旧日本綿花横浜支店(ザイム、横浜市中区日本大通)
1929旧日本勧業銀行本店(東京、現存せず)
1931★綿業会館(大阪市中央区、国の重要文化財)
1932★岸和田市立自泉会館(大阪府岸和田市)
1934旧神戸証券取引所(神戸市中央区)※外壁保存
1936★旧乾邸(神戸市東灘区・旧住吉村)神戸市指定文化財
1937大阪商船株式會社台北出張所(台灣台北)※空間保存
1938旧丸物本店(近鉄百貨店京都店、京都市下京区、現存せず)
1958広野ゴルフ倶楽部クラブハウス(兵庫)
《乾汽船》
104-0054東京都中央区勝どき1-13-6プラザタワー勝どき/03-5548-8211
1904創業者乾新兵衛、英国より中古船購入、「乾坤丸」と命名。1908「乾合名会社」を兵庫県神戸市に創立。外航海運業を開始。1933株式会社に改組、商号を「乾汽船株式会社」に変更。2001本社を東京都中央区日本橋に移転。2014イヌイ倉庫株式会社を存続会社として乾汽船株式会社と経営統合し、商号を「乾汽船株式会社」に変更。東京証券取引所市場第一部に株式を上場。
《参考》「阪神間モダニズム」
https://kobecco.hpg.co.jp/5246/
明治末期から大正、昭和初期にかけて、緑まばゆい六甲の山麓を舞台に、芸術文化が花開いた「阪神間モダニズム」、その名付け親が文化プロデューサー・河内厚郎さん。その地域が一番輝いていた時代を核に据えることが、まちづくりの基本だと思うんです。モダニズムの時代、阪神間の住宅街は日本一になった、先頭を走ったのです。阪神間のイメージをつくった時代です。震災で街は変わっても、イメージは残り続けています。ですから「モダニズム」と「阪神間」という言葉をくっつけて「阪神間モダニズム」というネーミングにしました。
ところで、モダニズムという言葉の起源はヨーロッパで、フランス語では「モデルニテ」という言葉があり、これは意外といろいろな意味合いがあるのです。そのひとつに「過去の歴史の栄光をもう一度新しいデザインの中で甦らせる」という意味合いがある。フランスはそういうことを繰り返してきて、ルイ14世の時代はギリシャやローマに匹敵する時代を再現したという自負心がある。近代になったらルネッサンスやベルサイユ時代をまた新しいデザインにしていきました。阪神間モダニズムをつくった人たちも、単なる舶来趣味ではないのです。端的に言えば和洋折衷ですが、阪神間ではデザインがうまくいきましたよね。日本的なデザインを無視していないのです。例えば「甲子園ホテル」では淡路島の瓦を使い、打出の小槌のデザインを使い、日本の松林に映えさせ、日本ではじめてホテルに和室を導入しました。宝塚歌劇では最初、百人一首から芸名を採っていたのですよ。『細雪』も〝昭和の源氏物語〟という触れ込みで売り出しましたし、谷崎潤一郎もそういう意識があったようです。あの当時私設美術館のはしりだった★「白鶴美術館」も〝昭和の正倉院〟とよばれていました。これらの例からも、日本の伝統文化を近代に甦らせるという意識があったことがわかります。モダニズムとは安直に新しいものという訳ではないのです。
・・・予想以上に部屋数が多く、見逃してなるものかと行ったり来たり、まるで迷路の中をさまよっているように時間だけが過ぎていきました。