・・・茨木市に続いて「守口市」です。「アメリカ村」そして「富田林市」に川島慶樹さんの作品があり、さらに「守口市」にもあるらしいので探してみようと思います。
【川島慶樹】
1962大阪府生まれ。1984大阪芸術大学美術学科彫塑卒業。和歌山県立近代美術館、サントリー美術館、EL PALAU FALGUERA エントランス(バルセロナ、スペイン)、★守口市西三荘遊歩道モニュメント「川面への想い」、★心斎橋アメリカ村ビッグステップ北側モニュメント「Birdy Twins」、★富田林市リボン通りモニュメント「地の華」「宙の華」、九州保健福祉大学QOL研究機構「風の谿」(宮崎県延岡市)。
・・・久しぶりなので、「守口市駅」で降りてプラプラ歩きました。来るたびに探すのですが見つからない「江戸川乱歩寓居跡」、通りかかった地元の方にお尋ねして、とうとう発見できました、スッキリ。
《NEWS》2011.7.23大阪日日新聞「なにわ人物伝」より
雑誌「新青年」に掲載、好評『二銭銅貨』で作家デビュー/文:三善貞司
「怪人二十面相」で胸を高鳴らせた少年時代を、懐かしく回想する人は多いはずだ。その作者江戸川乱歩を本項に入れると怪訝に思われようが、彼が推理作家としてデビューした地は大阪である。地下鉄谷町線守口駅で降り、2番出口を上がると「桃町緑道」(守口市八島町)が見えるが、その入り口の広場裏の民家に★「江戸川乱歩寓居跡」の銘板が掛かっている。後に乱歩は東京に永住するが、それまでは46回も転居した引っ越し魔で、守口だけでも5回も変わり、5回目がここだ。「私が処女作『二銭銅貨』を書いたのは、大正十一年の夏、雑誌『新青年』に掲載されたのが翌年の四月号だから、数え年三十の遅いスタートであった」彼はこう回顧している。日本で最初の本格的推理小説『二銭銅貨』は、失業中で貧乏のどん底にあった乱歩が、この借家で書き上げたものだ。代表作の一つ『屋根裏の散歩者』も、ここで想を練っている。「天井を眺めると好都合にも、多分電燈(でんとう)工夫の出入り場所であろうが、押してみるとグワグワする。板をはずし首だけを真っ暗な天井裏に差し入れて見回すと、なんとなかなか捨て難い眺めだ。それがあの作品の背景になっている」との文言もある。乱歩の本名は平井太郎。明治27(1894)年三重県名張町に生まれた。父繁夫は郡役所書記。祖父の代まで藤堂藩に仕えた武士。筆名はエドガー・アラン・ポー(アメリカの作家。恐怖・推理小説の開拓者)をもじったものだ。
《シティホール守口》
570-0093守口市浜町1-7-11/06-6993-4444
https://www.keihango.co.jp/gyokusenin/hall/?page_id=27
・・・こんなところで「保田龍門」さんの作品に出会うなんて、
【保田龍門】(1891~1965)
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yasuda.html
1891年(明治24)那賀郡龍門村(現:紀の川市)に生まれる。名は重右衛門、龍門と号した。粉河中学校を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決め、太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45)東京美術学校西洋画科に入学する。美術学校在学中に二科展に出品し入選、1917年(大正6)第11回文展では《母と子》で特選を受賞する。その後、日本美術院の研究所で彫刻の勉強をはじめ、以後日本美術院展覧会を発表の場とした。1920年(大正9)渡米し、サンフランシスコ、ニューヨークを経て翌年にはパリに入り、ロダンの助手であったブールデルの教室で彫刻を習う。また、ヨーロッパ各地を遊学する途中、南仏のマイヨールのアトリエを訪ねた。ギリシアのアルカイックな彫刻に心酔して女性のおおらかな裸体像を追求したマイヨールの作風は、龍門が終生追い求めた母性愛のテーマに影響を与えた。母逝去の知らせをきいて1923年(大正12)に帰国するが、欧米で3年余り研鑽を積んだ経験は、のちの自己の造形世界を築いていく際のたしかな礎となった。帰国後は、東京での制作をやめ、郷里の和歌山に西村伊作設計のアトリエを建て活動の本拠を移し、その後大阪に転居する。戦後は、大阪市立美術研究所、和歌山大学で後進の指導にあたり、関西の美術界に大きな影響を与えた。絵画と彫刻をともに追求するという志を貫いた保田龍門は、1965年(昭和40)73歳で亡くなった。彫刻家「保田春彦」は息子。彫刻家「西村浩幸」は孫。
《大塩平八郎ゆかりの書院跡》
http://www.officequattro.com/jpn/moriguchi.html
守口市竜田通り1丁目7-10にありましたが、今は「マクドナルド」になっており、その片隅に説明板と瓦があります。
《守口宿》
大坂を出て最初の宿場であり、東海道五十七次として数えると最終の57番目の宿場である。古くから交通の要地であったが、1616年(元和2)に宿駅に指定された。江戸時代後期の『東海道宿村大概帳』によれば宿場町の長さは南北11町51間。問屋場1・本陣1のほか旅籠が27軒あった。枚方宿へ3里、大坂へ2里という近さであったため、当初から馬継ぎはなく、人足のみの勤めであった。また淀川に面していながら川舟との連絡がなかったため、淀川舟運の発展につれて次第に貨客を奪われ、宿場の運営に影響を与えた。しかし一方で、清滝街道(現国道163号)の分岐点だったこともあり、旅籠や茶屋がたちならぶなどして繁栄した側面もあった。ちなみに守口宿で出された特産品の一つに、守口漬がある(但し、現在と製法はかなり異なる。)。現在も一部に宿場町の面影を残す家並みが残っている。また街道が淀川左岸の堤防(文禄堤)上にあった様子を見ることができる。
《さくら広場(門真)》571-0050門真市大字門真1006
/06-6909-8888(パナソニックESファシリティマネジメント㈱)
http://www.panasonic.com/jp/corporate/ad/experience/sakura/kadoma.html
門真市のさくら広場は、総面積16,200平方メートル、ソメイヨシノ190本を配した公園として、2006年4月に開園しました。旧本社跡地を、環境や地域のために有効活用したいという思いからスタートしたこのさくら広場は、成木を植樹していますので、今後は、年を重ねるごとに段々と、見応えのある公園になっていくことでしょう。また、園内にはカスケード(滝)があり、桜と水のコントラストもお楽しみいただけます。京阪電車の車窓からも桜の季節だけでなく、四季折々の美しい景色をご覧いただけます。是非、都市の中での安らぎの場所としてご利用ください。
・・・ここまで来たのですから「松下幸之助歴史館」を訪問しましょう。
◆【松下幸之助歴史館】◆
571-8501門真市大字門真1006/06-6906-0106
http://www.panasonic.com/jp/corporate/history/museum.html
パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館は、松下電器(現パナソニック)創業50周年を記念し1968年に開館しました。建物の外観は、1933年当時の本社社屋を復元。館内には創業者松下幸之助の生涯と事業の歴史を時代毎に展示しています。