・・・絵師画人伝(平面)ですが、やはり「立体」や「建築」も気になります。
【鈴木久雄】(1946~)
http://profile.musabi.ac.jp/page/SUZUKI_Hisao.html
1946年静岡県生まれ。★武蔵野美術大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業。そして現在、ムサビの教授です。
・・・野外に展示されているのが、
【ケネス・スネルソン(Kenneth Snelson)】(1927~)
【建畠覚造】(1919~2006)
http://www.momaw.jp/exhibit/past/2014/tatehata-kakuzo-2014.php
和歌山県有田郡城山村(現在の有田川町)出身の彫刻家、建畠大夢を父に、東京に生まれました。父大夢は、帝展の審査員や東京美術学校の教授をつとめるなど、戦前の彫刻界において官展の代表的作家として活躍した人物でした。父の影響も受け、自身も彫刻家を志すようになり、1937年(昭和12)東京美術学校彫刻科に入学。在学中に文展で特選を受賞、同学を主席で卒業するなど、彫刻家として早くから活躍を期待される存在となります。
【保田春彦】(1930~)
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0605/
1930年和歌山県那賀郡龍門村(現紀の川市)に生まれる。52年、東京美術学校本科彫刻科を卒業。57年、第42回院展に「伝説」を出品、奨励賞(白寿賞)受賞、翌年パリ留学。グランド・ショミエール美術研究所に入所、オシップ・ザッキンに師事。シルヴィア・ミニオ・パルウエルロと60年に結婚(のちに二女が生まれる)。68年、帰国。翌年より★武蔵野美術大学専任講師となり、2000年の教授退任まで後進の指導にあたりつつ作品制作を続ける。代表作に「アンテ・スパツィー・エタテム後期」(東京国立近代美術館)、「聚落を囲う壁I」(第26回中原悌二郎賞受賞)など。
【保田龍門】(1891~1965)
http://www.musabi.co.jp/books/463011/
1891年和歌山県那賀郡龍門村(現紀の川市)に生まれる。1912年、東京美術学校本科西洋画科入学。17年卒業、院展に出品、文展で卒業制作「母と子」が特選となる。21年パリ、グランド・ショミエール美術研究所に入所、アントワーヌ・ブールデルに師事。23年10月帰郷、西村伊作設計のアトリエを建てる。北淳子と結婚(のちに二男三女をもうける)。39年、和歌山県庁壁画レリーフ。53年、和歌山大学教授に就任、54年、紀陽銀行本店レリーフ、56年、和歌山大学定年退職。名古屋市平和堂立像、壁画を手がけ、65年、「南方熊楠」(未完)を遺し、逝去(73歳)。
《NEWS》2015.6.9産経新聞より
彫刻家・保田龍門の「母子像」を移設作業中に破損/和歌山市
和歌山県紀の川市出身の彫刻家、保田龍門(1891~1965)が和歌山市に寄贈した「母子像」が今年4月、児童女性会館から移設作業中に破損したことがわかった。半世紀以上屋外に展示されたことで劣化していたといい、市は県内の彫刻家に修復を依頼した。龍門は大正~昭和にかけて活躍し、母性愛をテーマにした作品を多く残した。今回の母子像は昭和22年の作品で、高さ1.75メートルのセメント製。38年の同館オープンに合わせて玄関前に設置された。市男女共生推進課によると、同館の撤去に伴って母子像の移設が必要となったが、シロアリに浸食されるなどしており、4月21日の作業で像を傾けた際に頭部の一部がはがれ落ちたという。母子像は美術品としての評価額が定まっておらず、劣化も著しかったことから美術品専門業者などが保険に加入できず、移設作業の引き受け手の選定が難航。結局、文化財を扱ったことのある建設業者が作業を請け負ったが、破損したという。市担当者は「母子像が破損したことは残念だが、美術品というより、児童女性会館で子供たちを見守る『象徴』として認識していた」と話した。母子像は修復後、同市小人町の「あいあいセンター」5階に設置されるという。
【イサムノグチ】(1904~1988)
http://www.isamunoguchi.or.jp/
イサム・ノグチは、日本人の詩人であり英文学者の野口米次郎とアメリカ人で作家のレオニー・ギルモアとの間にロサンゼルスで生まれました。 幼少期を日本で過ごし、アメリカ、フランスで彫刻を学んだノグチは、気鋭の彫刻家として活躍します。とりわけ戦後、東西の芸術精神を融合した多岐にわたる彫刻を制作し、従来の彫刻の域をはるかに広げた、大地の彫刻ともいえるランドスケープ・デザインを次々と発表するなど、その豊かな芸術性と表現力によって、20世紀を代表する彫刻家のひとりとして知られています。
・・・「庭園美術館」(香川県高松市牟礼町)に、もう一度行ってみたいなあ。
【北尾博史】(1967~)
1967京都市下京区、北尾家の四男に生まれる。1988京都芸術短期大学卒業。1989-90 アトリエセラミック陶芸研修(ローザンヌ・スイス)1990-93 ジュネーブ州立美術学校彫刻科卒業(ジュネーブ・スイス)。
・・・この作品の寄贈者が、「田中恒子」さんなのです。
★2009自宅から美術館へ「★田中恒子コレクション展」(和歌山県立近代美術館)
http://www.bijyutu.wakayama-c.ed.jp/exhibition/tanaka_tsuneko.htm
「現代美術と一緒に暮らす」ことを楽しみに、ひとりのコレクターが自らの足で歩き、選び、集めてきた作品の数々。関西の若手作家を中心に、100人以上の作家による1000点を超える多数の作品の中から、日々ともに暮らすものという現代美術への視点によって作品を選び、構成する展覧会である。住居学を専門としてきた田中恒子氏(大阪教育大学名誉教授)は、現代美術と出会ってそのおもしろさにとりつかれ、コレクションを増やしていった。現代美術とともに住むことを標榜し、日常空間を飾ってきた作品群だが、その質量はいつしか個人住宅の範疇を越えてしまった。若く、有望な作家を応援しようという意気込みが、住居の容量からあふれてしまったのである。この展覧会では、田中氏が収集してきた作品を住居から美術館という場に移し、個人宅の親密さを展示室に延長して、作品と触れあえる場を生み出す。
【田中恒子】(1941~)
http://www.eeie.me/voice/graf/vol018/
大阪市生まれ。1963大阪市立大学家政学部住居学科卒業。1965京都大学工学部建築学科文部技官。日本の住居学・教育学者。大阪教育大学教授、★大阪教育大学附属平野中学校校長、2006大阪教育大学名誉教授。新建築家技術者集団代表幹事。
・・・現役の頃、少しお話させていただいたこともありますが、当時はそんな偉大な方だとは知らなかったもので、もっとお近づきになっておけば良かったなあ。現代美術のコレクターなんて、そうザラにはおられません。「絵師画人伝」に登場していただくにふさわしい方です。またいつか、どこかでお会いしたいものです。
・・・美術館横の丘(奥山公園)に初めて登ってみましたら、
《仮谷志良》(1922~1997)
1922年(大正11)3月13日、和歌山県西牟婁郡串本町(現・東牟婁郡串本町)で生まれる。1947年(昭和22)に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年(昭和24)に和歌山県庁に入庁した。1959年(昭和34)に土木部次長、1963年(昭和38)に経済部長、1967年(昭和42)10月16日には出納長に就任している。1975年(昭和50年)に副知事となった。同年10月4日の和歌山県知事・大橋正雄の急逝を受けて行われた和歌山県知事選挙に立候補して当選。「まごころ県政」を信条とし、任期中は和歌山大学の移転やコスモパーク加太の開発、和歌山マリーナシティをはじめとするリゾート振興などに取り組み、1994年(平成6)の世界リゾート博を成功させた。
《奥山稲荷社》
640-8137和歌山市吹上1-4-19
初代紀州藩主・徳川頼宣公が紀州入りをする際、和歌山城の守り神として駿河より遷座したと伝えられています。
・・・そして境内に、
《岡山の時鐘堂》
http://wakayamacity-bunkazai.jp/shitei/4783/
紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の1712年(正徳2)に建立されました。当時は、市内本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟造の本瓦葺です。梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理していた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。
・・・やはり、博物館にも寄ることにしました。