・・・とにもかくにも「再燃」はいいのだけれど、知り得た情報をもとに探求していくと、かなりレアな資料や高価な図書に辿り着いてしまう。しかし行きがかり上、見て見ぬふりはできないわけで、
《「大阪百景」丸山石根★牧村史陽作品集》250x265mm、240頁
画:丸山石根/文:牧村史陽/刊行:大阪新聞社/発行年:1983年
大阪21世紀計画のスタートに当たり、新聞紙上の発表分にオリジナルを加え、製作された大阪再発見の作品集。市内55景・府下45景にある大阪の文化の歴史とその名残りを、画と文で案内。
【丸山石根】(1919~1989)
大正8年大阪に生まれる。昭和8年京都市立美術工芸学校絵画科入学、入江波光に師事。昭和16年京都市立絵画専門学校日本画科本科卒業。昭和30年★中村岳陵に師事、蒼野社に入る。日展初作品「鏡の前」。昭和32年日展特選白寿賞「海女」。昭和33年関西綜合展審査員となる。昭和34年師・岳陵の四天王寺壁面制作の助手をつとめる(3年間)。昭和38年四天王寺壁画完成を機に無所属となる。昭和46年日本美術家連盟関西支部委員長(53年まで)。昭和55年画集★『大阪百景』出版(大阪新聞社)。昭和62年大阪市文化功労賞受賞。平成2年大阪府より天皇陛下に即位記念として『花と緑の新大阪百景』を献上。平成5年大阪芸術賞受賞。関西美術家連合結成され会長となる。平成7年★菅楯彦大賞展審査員。
【中村岳陵】(1890~1969)
本名恒吉。明治23年静岡県下田に生れ、10才で上京し、13才で野沢堤雨について琳派を学んだ。15才のとき土佐派の川辺御楯に就き、伝統的日本画の諸法を修めた。明治41年東京美術学校日本画科選科に入り、また紅児会にも加わって若い作家と新時代の芸術に対しての共鳴を得、大いに情熱を燃やした。同45年美校を卒業したが、在学中飛び越し進級するなど秀才ぶりがうかがえる挿話もある。卒業の年第6回文展に「乳糜供養」が初入選し、大正3年には今村紫江、速水御舟らと赤燿会を創立した。院展には再興第2回展に「薄暮」を出品して日本美術院同人に推され、その後、院展の中心作家として活躍したが、戦後これを脱退し、以後日展に所属し、ここを舞台に没するまで制作活動をつづけた。この間、六潮会を起し、★法隆寺壁画模写主任となり、大阪★四天王寺全堂壁画を描き朝日文化賞、毎日芸術大賞をうけた。さらに昭和37年には文化勲章を受与されるなど現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡をのこした。作品は近代西欧絵画の理解による日本絵画への移入を試み、常に意欲的姿勢を示した。日本芸術院会員。新日展運営会常務理事。
・・・残念ながら、この画文集に「博物場」に関する情報は見当たりませんでしたが、私の生まれ育った家のすぐ横の「南海平野駅」や、「竹内街道」などがあったので嬉しくなりました。もちろん、貴重な絵と文がぎっしり詰まっています。続いて入手したのが、
《難波大阪》出版社: 講談社/発売日:1975
・「歴史と文化」編:宮本又次
・「郷土と史蹟」編★牧村史陽
・「美術と芸能」編:望月信成
古地図に描かれた大阪、大阪の古墳文化、古代中世の大阪の歴史、大阪の美術文化、大阪の喜劇・芝居・落語・漫才、大阪の地歌と箏曲、人形浄瑠璃文楽、★大阪の能、四天王寺の舞楽、大阪の史蹟など、3冊セットで刊行。
・・・牧村さんの「郷土と史蹟」も興味深い内容ですが、望月さんの「美術と芸能」に期待がふくらみました。「大阪の能(明治の能とそれ以後)」について、沼艸雨さんが書かれています。その中に、「博物場」に関する内容を発見しました。
【沼艸雨】(1906~1992)
昭和期に京阪を中心とする能・狂言の舞台について、多くの評論を発表し、能楽公演のプロデュースも手がけた能楽評論家。
(前略)このころはまだ能は民衆には縁遠いものであったから、能の催しが伝わると、「橋岡に能というものがあるそうだから、見に行こう」という始末で、寄せかける人の波は門の内外にあふれ、四つ辻に巡査が立つほどであった。(中略)これは本格の舞台であったが、ほかにも稽古用のものはあった。狂言鷺流のものが売却されることになった時、篤志家が世話をして、生国魂神社境内に移した。橋岡の舞台よりも早い明治10年である。(中略)移築に際して、相当手を加えた模様である。しかし12・13年ころからは全く使用されなくなったので、陸軍が買って中之島にあった招魂社に移したので、「招魂社の舞台」と呼ばれるようになった、というのであるが、能画家松野奏風の岳父・谷村捨次郎の話によると、「舞台の鏡板の松を狩野永祥が、長い間かかって舞台で揮毫していた」というのだから、それからすると新しく造ったものと思われる。
場所は中之島の市庁の裏、前の豊国神社のあたりであろうか、見所(客席)はなかったが、場所は広く橋がかりは五、六間もあったようで、平素は舞台に掛戸をして稽古にのみ使われ、催能は当時のことだから年に五、六回で、その時は見所に桟敷を設け、三百人くらいが見られたようである。橋岡の観世社に対して、南陽社といって、京都の金剛謹之輔や高村ら金剛流が、そしてその後援者である★平瀬亀之輔らによって使われたのである。この対抗は明治18・19年ころまで続いたが、橋岡は舞台も維持困難で売却され、この翠柳館の舞台も、本町の★博物場に移転されて、両者の対抗に終止符が打たれた。この舞台を翠柳館というのであるが、これはあのあたりは柳が多いところから宮崎鉄幹が名づけたものである。この鉄幹は、のちに大阪博物館長をしたこともあるのだから、自分の命名したものを再び管理したことになる。舞台の経過は別として、この舞台は大阪唯一の舞台として、東西の大家が競って出場、大阪の能楽史に不滅の功績を残している。これが大正8年(1919)に大阪能楽殿が建設されてからは、段々利用度が減じて、いささかもてあまし気味になったところへ、土地の所有主の大阪市から適当の地への移転を働きかけられ、種々物色して最後は引き取ってくれる所には無償でも、とまでいっていたが、それでもうまくゆかなかった。それは、移転費に思わぬ費用がかかるからであった。こうしているうちに紳士連中の内の渋谷利兵衛とか生形貴一というような好事家の世話で、天満天神宮へ移すことになり、その費用捻出のために、素人による名残り謡会を催し、その収益によってようやく移転した。これが現在の天満宮の舞台である。残念ながら最近は使用されておらず、昔を知るものにとっては、なげかわしい有様になっている。因みにこの費用は二万円くらいだったようだ。
・・・さらに、大阪博物場舞台に代わるべき能舞台の建設についての経緯、「大阪能楽殿」が生まれたものの経済的破綻を来たし、その後戦火で烏有に帰した。と続いていく。当時の様子が克明に記されて、人々の思いが伝わってくる貴重な資料であった。
《参考》
★大阪市顕彰史跡193「大阪能楽殿跡」
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009028.html#tennouji
543-0033大阪市天王寺区堂ケ芝2-16-24(天王寺保育園前)
★大阪歴史博物館・第84回特集展示「修復品・新収品お披露目展」
平成25年4月10日(水)~6月10日(月)「大阪能楽殿」関係資料など